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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月26日・菊池寛の懐

2014-12-26 | 文学
12月26日は、米国の作家ヘンリー・ミラーが生まれた日(1891年)だが、作家、菊池寛(きくちかん)の誕生日でもある。

菊池寛は、1888年、香川の高松で生まれた。本名の読みは「きくちひろし」。菊池家は高松藩の儒学者の家系で、寛は中学校を首席を出、東京の高等師範学校に進んだが、授業をサボり退学。その後、大学入学、中退を繰り返した後、京都帝国大学の英文科に入った。
学生時代は、懸賞小説に当選し、久米正雄、山本有三、芥川龍之介らとともに、東大の同人誌である「新思潮」に参加して戯曲「屋上の狂人」などを発表した。
28歳の年に大学を卒業後は、新聞社に入り、記者仕事のかたわら、戯曲「父帰る」や小説「無名作家の日記」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」をなどを発表。31歳で記者を辞め、作家活動に専念。新聞小説「真珠婦人」でベストセラー作家となった。
35歳になる年に出版社・文藝春秋社を創業し、雑誌「文藝春秋」を創刊。雑誌は売れ、事業は成功し、彼は大金持ちになった。菊池は出版社経営のかたわら、映画会社社長を兼務し、49歳のころには東京市議に当選し、政治家としても活動した。太平洋戦争中は、文芸銃後運動を発案し、作家を国内や満州などで講演させて国威高揚運動に務めた。
敗戦の翌年、彼は文藝春秋社を解散した(その3カ月後に同志が集って文藝春秋を再興)。戦争に協力したとして、菊池は59歳の年に公職から追放された。そうして失意のなか、1948年3月、狭心症のため没した。

芥川龍之介が人生を銀のピンセットでもてあそぶと言われたところ、素手でいきなりつかむと言われたのが菊池寛の作風だった。『藤十郎の恋』『形』『入れ札』といった短編を読むと、その感じがよくわかる。谷崎潤一郎はこの菊池寛の作風が嫌いで、菊池の『忠直卿行状記』や『恩讐の彼方に』についてこう書いている。
「テーマばかしが露骨に出てゐて、書きかたが如何にも粗つぽい気がした。ああいふ文章を読むと、僕とは全然肌合ひの違ふ人だといふことが強く感じられて、どうや好感が持てなかつた」(「追憶」『谷崎潤一郎全集 第二十二巻』中央公論社)
この感じも自分にはよくわかる。でも、谷崎は菊池の戯曲は褒めている。
「戯曲も随分テーマが露骨で、線が太く、粗つぽいとは思つたけれども、戯曲の場合は小説とは違ひ、舞台へかけて見ると却つてその方が旗幟鮮明で、印象がはつきりし、観客に強い感銘を与へたやうに思ふ。要するに、僕は小説家としてよりも戯曲家としての菊池君を上に見るもので、一時菊池君の戯曲が演劇界を風靡したのも、まことに偶然でないのである。」(同前)

自分は、川端康成や小林秀雄の文章を読んで菊池寛の名前を知った。それから彼の小説や戯曲を読んだ。菊池は川端や小林など後輩作家にとても親切で、金策の相談に来ると、すぐにお金や仕事を用意してあげた。川口松太郎など、菊池を思いだすだけで涙が出ると言っていた。また、川端康成によると、菊池寛は、大学生だった川端に、
「あれはえらい男だから友だちになれ」(川端康成「思い出すともなく」『一草一花』講談社文芸文庫)
と、当時まだ無名だった横光利一に紹介した。清濁あわせのむ懐の深さといい、先見の明といい、まったく大した人物だったと思う。
(2014年12月26日)


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