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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月5日・ハイゼンベルク「不確定性原理」

2014-12-05 | 科学
12月5日は、「ディズニーランド」の生みの親ウォルト・ディズニーが生まれた日(1901年)だが、まったく同じ年の同じ日に物理学者ハイゼンベルクも誕生している。

ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクは、ドイツのバイエルン州ヴュルツブルクで生まれた。父親は高校の語学教師で、ドイツでただ一人の中世・現代ギリシャ語の教授だった。
ミュンヘン大学に学んだヴェルナーは、23歳のとき、デンマーク・コペンハーゲンに留学し、量子力学の天才ニールス・ボーアの下で学んだ。
26歳のとき、不確定性原理を証明し、31歳の若さでノーベル物理学賞を受賞した。
彼が32歳になる1933年に、ドイツではヒトラーが首相となり、ユダヤ人迫害が進み、多くの科学者が国外へ去った。しかし、ハイゼンベルクは、軍拡・侵略路線を突き進むドイツが、近い将来に破滅することを予想しつつ、破滅後のドイツ復興のためにと、ドイツにとどまり、量子論の研究を続けた。
ナチス政権下では、ユダヤ人物理学者を擁護する立場をとり、非難、追及され、召集されて、いやいやながら原爆開発に協力した。
40歳のとき、ハイゼンベルクはドイツの占領下にあったデンマークの師ボーアを訪ねて、原爆製造は今回の戦争中には間に合わないと告げた。
ドイツ敗戦後は、英国の諜報部MI6の監視下に軟禁された。彼は英国で、広島・長崎の原爆投下のニュースに驚き、そんなことは不可能だと言ったという。
第二次世界大戦後は、彼はケンブリッジ大学で講義をし、マックス・プランク財団の研究所所長やヨーロッパ会議の原子力研究所所長などを努め、超伝導や宇宙線、プラズマ研究などに寄与した後、1976年2月、当時西ドイツだったミュンヘンで没した。74歳だった。

高校生のころに自分は、ハイゼンベルクの不確定性原理について知った。その証明の詳細についてはわからないのだけれど、とにかく、ある物質の位置と運動量と、など、二つの事象を同時に正確には把握できないということを数式で証明したということらしい。
たとえば電子の位置が分かれば運動量はつかめず、運動量を求めると位置は厳密にはわからない、という量子力学の問題である。哲学的でおもしろいなあ、と自分は思った。

ソニーの創始者のひとり、盛田昭夫は戦争末期、海軍の研究所にいて、米国が日本より先に原子爆弾を作るだろうが、それはまだ数年後のことだろうと予想していたところ、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下の報を聞いて驚いたと書いていたけれど、欧州でハイゼンベルクも同じ予想をしていたことになる。海軍で盛田たちが計算尺を使っていたとき、米国でコンピュータを開発していたフォン・ノイマンの勝利である。京都に原爆を落とすことを主張したあのノイマンである。

自分の恩師はネーデルランド(オランダ)史の権威で、終戦時、京都大学の学生だった。教授によると、当時の彼ら文系の学生は、広島に落ちた特殊爆弾の正体が何かわからなかったけれど、理系の学生たちは「あれは原子爆弾だ」と知っていたという。

圧倒的に生産力で勝る大国に無謀な戦いを挑んだ太平洋戦争では、日本は兵隊が足りなくなり学徒出陣となった。文系の学生は前線へ送られたが、理系の学生は日本にいられた。
そうしてみると、なにやらきな臭くなってきた昨今、これから進学する子どもたちは理系を専攻したほうが身のため、ということになると思う。
(2014年12月5日)



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