1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月10日・寺山修司との縁

2014-12-10 | 文学
北欧でノーベル賞の授賞式がおこなわれる12月10日は、詩人・伊藤静雄が生まれた日(1906年)だが、同じく詩人の寺山修司の誕生日でもある。

寺山修司は、1935年12月10日、青森で生まれた(翌1936年1月10日の説もあり)。
警察官だった父親の転勤のため、修司は青森県内を転々と引っ越ししながら育った。
高校を出て上京し、早稲田大学の国文学科に入学。大学在学中だった18歳のときに、第2回短歌研究50首詠を受賞。注目の若手歌人として華々しくデビューした。が、腎臓炎、ネフローゼで長期の入院生活を送ることになり、大学を退学した。
寺山は短歌創作のかたわら、ラジオドラマや舞台の脚本を書くようになり、31歳のときに、自分の劇団 「天井桟敷」を結成。寺山が脚本を書き「青森県のせむし男」「毛皮のマリー」などを上演し、唐十郎の「状況劇場」などとともにアングラ劇団ブームの中心的存在となった。評論『書を捨てよ、町へ出よう』で話題を集めた寺山は、35歳のころ、映画界に進出。「書を捨てよ、町へ出よう」「田園に死す」などを監督した。
マスコミの寵児としてもてはやされた寺山は、1983年5月、肝硬変のため入院した東京の病院で、腹膜炎、敗血症のため没した。47歳だった。

「マッチ擦(す)るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
歌集『空には本』にあるこの短歌は、おそらく寺山修司のいちばん有名な歌だろう。彼が22歳のころの作で、時代感覚とウィットがあって、いい歌だなあ、と思う。

寺山修司は、自分にとってすぐそばをすれちがいながら、縁のなかった詩人だった。
亡くなるすこし前に、彼は自分の大学の学園祭に講演の講師として招かれ、講演と質疑応答をした。自分は下宿で寝ていた。夕方になって起きだして大学に行くと、もう寺山は帰った後だった。夕暮れのキャンパスでばったり会った知り合いの女子学生が講演を聴いたというので、寺山が好きだったのかと尋ねると、彼女はこう答えた。
「いえ、べつに好きでじゃないけど、有名な人だから聴いといたほうがいいかなと思って」

寺山が亡くなったとき、自分は米国にいた。帰国したときには、寺山はいなかった。

寺山が亡くなったのは、東京・阿佐ケ谷にある河北病院だった。その後、自分は河北病院のすぐ裏手に事務所を借りた。またしても自分が着いたときには、すでに寺山はいなかった。

寺山はものごとや情報を思わせぶりに、自分に都合よく加工し、デフォルメするうさんくさいところがあって、たとえば家族の写真をわざと破ってから貼り合わせて見せたりしていたようだ。短歌でも、たとえば寺山の歌に、
「向日葵(ひまわり)の下に饒舌(じょうぜつ)高きかな人を訪わずば自己なき男」
というのがあるけれど、これは「昭和の芭蕉」と言われた中村草田男の俳句、
「人を訪はずば自己なき男月見草」
の影響があるのは明らかである。

いずれ、短歌、演劇をはじめとした多方面に新風を送った、とてもきらびやかな芸術的才能をもった才人だった。
(2014年12月10日)



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