日本語教師の見た中国とか…

日本語教師が見た中国をつらつらと綴ろうとはじめました。帰国後、大学院生を経て今はとうとう専任日本語教師だ~。

スコットランド飲み会

2008-07-26 08:59:19 | 言語
 なんでかわからないんですが、飲み会に行ってみたら、スコットランド人がだだだーっていて、いっしょに飲むことになりました。彼らは一生懸命日本語の単語を話そうとするし、マッドカプセルマーケットが好きだとか言ってるし、日本への興味がしんしんで、とても好感の持てる人達でした。

 のむのむのむのむ・・・

飲み放題にしておいてほんとによかったよ~。たぶん、店にダメージを与えるくらいは飲んだと思う。その分、僕はあんまりダメージを与えられなかったので悲しいんですが…何はともあれ、みんなかなり酔っ払ってきたその時!

 ちゃんちゃ~ちゃちゃん、ちゃんちゃ~ちゃちゃん(蛍の光のメロディーね)

うちらにとっては、これがなると「早く帰れコノヤロー」みたいなメッセージを受けるんですが、実はこれスコットランド民謡。いっしょに飲んでた1人が突然、

 にゃんにゃーにゃにゃん、にゃーにゃーにゃにゃん

スコットランド語で歌いだしました。ひゃー、ほぼ絶滅したと言われているスコットランド語も歌にはちゃんと残っているんですね~。感激。そして、このタイミングでこの曲がかかったことに感謝~。なにやら、向こうでは新年に歌うんだそうです。

 「ちなみに、日本人歌手で好きな人はいる?」

 「ジェロ」

 
 まじかよ!!


地域日本語

2008-07-22 09:16:44 | 日本語教育
 現在広島の山の中に住んでおります。山の中にもそれなりの集落があって、それなりの公民館なぞというモノがあるのです。公民館に「日本語教室 毎週土曜日」っていうチラチが貼ってあり顔を出すようになりました。

 ボランティア教室を支えている人って、どこでも女性なんですよ。

 年齢的に男性が来ててもおかしくないはず(定年後の人たちだから)。

 地域は母性に支えられているのかなあ(ちなみに有給スタッフを抱えている地域は男性が多い、なんか悲しい)。

 こんな山の中でも土曜日には外国人が集まってきて地域の人とワイワイやっているのですね~。中国、韓国、フィリピン、タイ、カンボジア、みなさんカタコトでいっしょうけんめい話すのです。日本人ってついつい日本語が通じないと英語の単語を口にしてしまいますが、よけいに伝わらなくなります。そんなことより、ゆ~っくり日本語で話してあげたほうがよっぽど伝わる。

 おどろくほど低賃金で働く研修生

 言葉もできないのに、日本人家庭に嫁いでくる配偶者

 仏教の修行で来日するお坊さん

人と人が交わるということは、時にショッキングな現実を伴います。国際都市広島とか、国際交流という言葉には、なんだか能天気で楽観的なにおいがプンプンします。もっともっとリアルな現実を若い日本人にも見せたいなあ・・・と思うのです。そのための風穴をいろんなところに開けていきたい。


 来月からインドネシア人介護士が来日されます。


 ますます地域日本語教室は盛り上がって行かねばなりません


 そのために僕には何ができるのか??

自分の中の右よりのキモチ

2008-07-18 19:55:31 | 異文化
 とうとう、きましたよ。ハクビシン。僕が春から大事に大事にしてきた実家の畑。トウモロコシ、トマト、キュウリ・・・全部食われました。すんげー腹が立つのは、

 食べてからウンコして帰りやがった

食べるだけなら、許してあげるのになあ(たぶん許さないと思うケド…)。とにかく私は丸一日勤労意欲がなくなってしまうくらいショックだったわけですよ。畑の野菜が食われなかったら勤労意欲があったのかと言われても困るんだけど。

 そこでね、ハクビシンって中国の動物でしょ?なんだか日本イノシシに食われるよりもむかつくな~って思ってしまう自分に気づいてしまうわけですよ。

 日本語教師なのに無意識レベルではやはり右より??


 ちと反省


 でも、むかつくな~

正しい日本語とは?

2008-07-12 09:11:33 | 日本語
 このブログでもたびたび取り上げているんですが、社会言語学の発展と共に、「正しい日本語などはない」ということが指摘されるようになってきています。若者言葉はそれなりに成立しているわけで、おじいちゃんの話す言葉だけが正しいなどということは言えないわけです。方言はそれ自体成立しているわけで、共通語だけが正しいとは言えません。金子みすず風にいえば、

 みんな違ってみんないい

っていう感じでしょうか。ところが、この考えを拡大していくと、留学生などが話す日本語も決して間違いではないということになりかねません。日本人だけが正しくて外国人の日本語はおかしいっていう主張には確かに疑問があります。でもでも、そんなこと言い出したら日本語教育なんていらなくなるもんねえ。

 『わたしはモンゴル人』という本が講談社から出ており(中国内蒙古人が著者)、「驚くほど新しい日本語」とかいうキャッチフレーズがついております。読んでみると・・・

 もんのすごい読みにくい!本文より一例。

 「日本語については、次のような詩を僕に作らせたエピソードもよく経験している」

 連体修飾節にわざわざ使役を使っているのが読みにくいのか、視点がエピソードだったり私だったり固定していないのが読みにくいのか・・・

 とにもかくにも、これって、僕が毎回作文の授業で添削している外国人(中国系)の日本語作文ですよ。これを新しいって言ってしまうなら、もう、作文の添削なんかやりたくないよ、まじで。日本語教師いらんやん?

 言語のバリエーションは相対的なもので、正しさなんてのはないのだ。これは納得できます。ただし、当然の前提として、そのバリエーションを使ってコミュニケーションしている人々がある一定数いること、これが大事でしょ。若者言葉や方言ってのは、それでみんながコミュニケーションしているわけ。外国人日本語も、それでみんなが分かり合ってコミュニケーションし出したら、そこで初めて市民権を得るのではないでしょうか?

 やはり、日本語教師は必要なのだ。