文科省が、敬語を5種類にわけるという発表をしました。それに伴って、正しい敬語、正しくない敬語、なんていうものも発表しています。お役所はいつもいつもそういった規範的な発表をしていますが、日本人の一体何人がそれを守っているのでしょう??
言葉の使い方は法律やルールなのでしょうか??
「よろしかったでしょうか?」という発話の文法違反と、「赤信号無視」という交通違反は同質なのでしょうかねえ~。
違うと思うなあ。
「言葉は常に変遷するモノであって、これが正しい日本語だなどと規範的に指摘するのはナンセンスである」
社会言語学の普及とともに、こういった認識は今や研究者の間で共有されているのですが、実は50年以上も前から主張している人がいるのです。
金田一京助 『日本語の変遷』(1942)←講談社学術文庫で安く手に入ります。
読んでいたら、びつくりで、鼻血がでるかと思いました。戦争中にこんなこと書いていたのですねえ。
‘ストライク’は‘よし!’
‘スタルヒン投手’は‘須田’になれ!
などと、規範的国語教育バリバリのさなかに、よくぞそんなことを言えたなあと思うのです。
思うに、わたしなぞは流行に乗っかって、「「正しい日本語」なぞ世の中に存在しない」なんて言っていますが、そんなことを本質的に理解出来てしまっている人間が世の中にはいるんですねえ。やはり、天才っていうのはそういう人のことなのでしょう。
センスなんですよ、センス。
こればっかりはね~、生まれ持ったモノなのかなあ。
「私にはセンスがない」ということを知っているだけでも、センスがあるのだ
ってことにしておきましょう。
言葉の使い方は法律やルールなのでしょうか??
「よろしかったでしょうか?」という発話の文法違反と、「赤信号無視」という交通違反は同質なのでしょうかねえ~。
違うと思うなあ。
「言葉は常に変遷するモノであって、これが正しい日本語だなどと規範的に指摘するのはナンセンスである」
社会言語学の普及とともに、こういった認識は今や研究者の間で共有されているのですが、実は50年以上も前から主張している人がいるのです。
金田一京助 『日本語の変遷』(1942)←講談社学術文庫で安く手に入ります。
読んでいたら、びつくりで、鼻血がでるかと思いました。戦争中にこんなこと書いていたのですねえ。
‘ストライク’は‘よし!’
‘スタルヒン投手’は‘須田’になれ!
などと、規範的国語教育バリバリのさなかに、よくぞそんなことを言えたなあと思うのです。
思うに、わたしなぞは流行に乗っかって、「「正しい日本語」なぞ世の中に存在しない」なんて言っていますが、そんなことを本質的に理解出来てしまっている人間が世の中にはいるんですねえ。やはり、天才っていうのはそういう人のことなのでしょう。
センスなんですよ、センス。
こればっかりはね~、生まれ持ったモノなのかなあ。
「私にはセンスがない」ということを知っているだけでも、センスがあるのだ
ってことにしておきましょう。