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時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

A4?

2011年03月08日 | 
先日、大学で学会投稿用の論文を書いていたときのこと、同じ研究室のウィル(米国人)が来て、何をやってるか尋ねられて説明しました。「この学会は審査のために、発表要旨じゃなくてA4で4ページ分の論文を提出するんだよ」と話したところ、

「A4って何?」

と聞いてきました。LetterとかLegalといった用紙サイズが使用されているのは北米だけで、世界的には、A、Bといった紙を切ったものを使うこと、A4はLetterと近い大きさで、でもちょっと縦が長いことなどを説明すると、「へー、知らなかった」。全くの初耳だったようです。

さらに、「これは審査に通ったら学会論文集に収録されるんだけど、そのとき上下のスペースに学会名などの情報を付けるんだと思う」と言うと、「あー、なるほどー」と合点がいった様子。

・・・ウィルの中では、「Letter sizeの上下をヘッダーとフッターをつけるために長くした用紙サイズがある」という了解がなされ、文書として標準なのはLetter size、という認識は全く動いてないような気がしてなりません。世界標準はA4だ、と言ったんだけど・・・

とはいえ、こちらもすっかりLetter sizeの紙には慣れてしまい、日本に帰ったときにA4の紙を見ると「長っ!」と違和感を感じるようになってしまってます。バックが白なので分かりにくいのですが、同じ文書をLetter sizeとA4にして並べてみました。

世界都市ベスト3

2011年03月07日 | 
先日から聞き出した Freakonomics の Podcast、このあいだはEdward Glaeserというハーバード大学の教授のインタビュー。つい先月 Triumph of the city という本を上梓したばかりだそう。

本は読んではいませんが、インタビューによれば「都市はすばらしい、文化、文明を生み、住民をより健康にし、さらに都市住民のほうが環境負荷が低い」というような趣旨らしい。環境負荷については、「都市住民は、たとえば日々の移動距離が短い。収入の違い等の要因を取り除くと、一人当たりの環境負荷は田舎に住む人より低いのだ」だそうです。だからと言って、「郊外に住みたいという人々の選択に干渉したいわけではない。ただ、郊外への移住を奨励する政策はやめるべきだと提言したいのです」とのこと。

この話、私にはかなり胡散臭く感じられます。何より、「収入の違いの影響を取り除く」という補正が正しいと思えません。

環境問題にかかわるある研究者から直接聞いた話ですが、その人は個人の環境に対する負荷のいちばん明解かつ適切な指標は収入だと考えているそうです。なぜなら、高収入を上げる方法は、煎じ詰めれば、他の人に働かせて、その結果も自分の業績として吸い上げることであり、多くの人を動員すればするほど、その全体の活動の結果、たとえ本人の直接的な行動における環境意識が高くても、その人は総体としてそれだけ環境負荷が高くなる、と。

具体例をあげると、生産拠点を海外に置いても、そこでの環境汚染物質は、自国の経営者、株主、企画、広告、販売等社員の高い収入を支えるために排出される。もちろん現地の労働者も稼ぐわけですが、じゃあ一人当たりの環境負荷をどう計算するか、となると、収入がいちばん適切だと考えられると。エコカーにしても、その車の環境負荷は低くても、開発のためのさまざまな人の活動、開発者や会社が上げる高収入、新しい車の買い替えにまつわるさまざまな活動等を考えると、総体的にはむしろ環境負荷は高いだろうと。以上はだいぶ前に聞いたので、ここで述べたことはその方の説を敷衍して、だいぶん異なってしまっているかもしれません。

引っ越した知り合いに聞いたところでは、NYやらボストンやらの、東海岸の大都市やその周辺の住居にかかる金額は、Bloomingtonのおよそ2倍、という印象。食費もずっとかさむらしい。そんなところに住むためには、どれほどの収入をあげなくちゃいけないか。だから、都市に住む人(都市郊外も含め)は、概して収入が高く、そのことそのもののために環境負荷が高い、と言えるんじゃないか。収入要因を取り除いてはいけないと思うのです。

この教授の都市礼賛は、客観的事実に基づくというより、「夢を追求する自由の国」という米国人の原理的信条に完全に則った上での議論に思えます。収入要因を取り除くことで、環境負荷の高い、高収入の追及の当否が顧みられることはない。一方で、「郊外に住みたい人々の選択は尊重する」と人の自由意志も保証。私の議論にも無知による誤謬や破綻があるかもしれませんが、自分たちの生活原理から一歩でも外に出て、それ自体から検討を加えてくれるのでない限り、都市はエライ、という議論に与することは私にはできません。ただそれをやった場合、米国人には全く見向きもされない議論になってしまう可能性大でしょうけど。

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じつはこの話を記事にしたかった理由はこれではありません。Gleaser氏は、ドイツの(どこだったか)都市で生まれ育ち、シカゴで学位、現在仕事でボストンと人生ずっと都市生活者だったそうです。インタビューの最後にGleaser教授は「あなたの考える最もすばらしい都市」を教えてくれと言われました。最初は「都市生活を提言する立場なので、特定の都市の味方はしたくない」と渋りましたが、「じゃあベスト3を」と押し切られ、「アメリカなら、シカゴ、ボストン、ニューヨーク」。

「そして、世界では...」ときたので、「東京来るか!?」と耳をすませました。結果は...





東京はありませんでした。彼があげたのは、





バルセロナ、香港、ロンドン

でした。最初の2つには行ったことがありますが、たしかに、いいかも(前者の場合、理由は、個人的には写真のとおり)。でも、東京も負けてないと思います。

Freakonomics 読書録8

2011年02月17日 | 
まず本のデータ

Steven Levitt and Stephen Dubner 
Freakonomics: a rogue economist explores the hidden side of everything.
2005 Harper Collins

日本では、八百長発覚を期に、大相撲が危機を迎えているとか。八百長そのものは議論の焦点ではなかろうとは思いますが、この件についてあちこちで言及されている本を借りて読みました。第一章、人はズルをするのか、という件に関する部分でさっそくこの件が。

翻訳されて売れたようですから知ってる人も多いでしょうが、内容は、記事に引用されて読んだものより踏み込んでいます。

1. まず、データは1989年初場所から2000年初場所の11年間と1場所。
2. 半分以上の力士が、7、8、9勝で場所を終える(たんなる確率論的過程の結果)。
3. 7勝7敗で千秋楽を迎えた十両以上の力士(関取)が8勝6敗の力士と対戦した場合
  (i)  過去の対戦成績から期待される前者の勝率は5割弱
  (ii) 実際の結果は、8割弱
つまり、30%くらい余計に勝っていることになります。9勝5敗の力士との対戦も26%の勝率アップ。

ただし、これだけだと、「瀬戸際の力士のほうが頑張るから勝つことが多くなる」という解釈もできる。そこで、

4. 上記の対戦者同士の次回の対戦結果を見ると、前者(助かったほう)の勝率が、4割。つまり、期待確率より10%ほど余計に負けていることになる。
5. さらに次回の対戦結果では、期待値どおり、50%程度に落ち着く。

ということで、二場所単位で、勝負の貸し借りが行われていると考えられる。
ここまでは記事で読みました。本ではさらに重要な指摘が続いていて、

6. データが取られた期間に、八百長に関してメディアが取り上げ、追求することが何度かあったが、その直後の上記のような対戦の勝率は、期待値どおり50%程度に下がる。

ここから筆者は「どんな角度からデータを眺めても、八百長が行われていたことを否定するのは困難だ」と結論付けてます。

さらに5より前に出てくるのですが、
7. 勝負の貸し借りは、部屋単位で行われるケースもあることがうかがわれる。
(ただしこれに具体的データはなし。American Economical Reviewに載った原論文を読む必要があります)

ここからは私見。まず、この分析結果は、勝敗の貸し借りの存在を示すと考えて間違いなさそう。また、3~5を見ただけでは、30%の勝率アップが丸々取引によるものなのか、その一部は「瀬戸際のものが頑張ったから」なのか分かりませんが、6によると、片方が瀬戸際でも、真剣勝負をすれば、ほぼ期待値どおりの勝率に落ち着くらしいので、30%の勝率アップ分がほぼ丸々取引によるものである可能性もありそう。2を考え合わせると、この時期の八百長は、けっこう大規模だった可能性があります。また、4のように、次回対戦による返報が10%しかないことを考えると、一部は勝敗以外による取引(金銭?)がなされていると考えることができそうです。もっとも一部は、「武士の情け」で対戦相手が本気を出さないでくれた結果の部分があるかもしれません。

この章には、教師による統一テストの成績の不正操作の件も出ているのですが、いずれも、ここまで明らかにされてしまうものなのだなという印象。データとは恐ろしいものです。

著者はシカゴ大の教授とニューヨーク在住のジャーナリスト。この2人、Podcastもやってます。iTuneでダウンロードできますが、気に入って毎回聞くようになりました。

プロは辛い?

2011年01月06日 | 
先日、箱根駅伝と男子長距離の国際競争力に関する記事を書いたのですが、昨日、NumberのWebにかなり主旨がオーバーラップする記事が出ました。

http://number.bunshun.jp/articles/-/76208

比べていろいろ気づくところがあります。まず、私の結論が「世界のレベルが上がりすぎちゃって、問題を解決してももう追いつけないだろう」と否定的なのに対して、

  それが、遠のいた世界のマラソンに追いつく第一歩に...

と希望を捨てていないことです。「もうダメでしょ」とは書けないか、やっぱり。

それから、もっと目を見張ったのが、

  大学の長距離の指導者からは「別に駅伝がマラソンに支障を
  きたしているとは思わない」という発言も多い。

というくだり。「支障がある」とは言い切れませんが、「支障がない」と言っちゃえるのも不思議。箱根を狙ってるような大学の指導者は日本の陸上界でいちばん激しい競争にさらされているはず。いい業績を挙げている方は待遇もいいだろうけどプレッシャーもとてつもなくて、他のレベルの競技や、卒業後がどうなるかなんて考える余裕はないだろうと思うのですが。

何か、駅伝を悪者にする記事を書いたんなら、そっち側の言い分も書いて顔を立てないと、という都合で無理無理ねじ込んだ一文に見えてしまいました。文章で稼ぐプロのライターって、あちこちの顔色をうかがう必要があって、辛いのかも、と思わされる一件でした。

箱根駅伝のせいで?

2011年01月05日 | 
箱根駅伝、もちろん米国では観られないわけですが、ウェブ情報でレースの状況をけっこう詳細に追いかけることができました。ところで、「駅伝のせいで日本の(男子の)長距離が強くならない、とくに箱根は問題」という意見が前々からあるようです。今日はちょっとそれについて書こうと思います。

問題を、「駅伝が問題」、「箱根が問題」、「『男子の』長距離が強くならない」、の3点に分けます。まず「駅伝」。たぶん、特に若いうちは駅伝を含めたロードよりトラックやクロカンをやるべきでしょう。でも、これは技術的で、私には難しすぎるので措きます。

次に「箱根」。問題点とされるのは、全員20Km以上と距離が長すぎること。5000m28分台がぞろぞろいて、その代わり27分台がめったに出ない日本。27分を切って初めて勝負になる世界の現状と比べると、スピード不足で距離を伸ばしたときに勝負にならないと。これは事実ですが、箱根を目指すことが原因なのか、私には分かりません。ちなみに、距離の長さはおそらく人気が出た一因。というのは長いから失敗したら最後まで持たずに潰れるランナーが出るから。ヘロヘロになった人間を(かわいそうねえ~とか言いながら)見るのが楽しいという、残酷な趣味は間違いなくある。

確かに強化に影響があると思うのは、これもよく指摘される「選手が箱根で燃え尽きがち」という点。問題は、それが悪いかどうか。日本で長距離をやって、これ以上目立つ機会があるか。せいぜい五輪の人気種目で、かつ伝統的に強いマラソンくらいでは。選手個人の競技人生を考えたとき、キャリアで最も目立てる機会を与えてくれる団体を目指し、そこをキャリアのハイライトと考えて全力を傾けるのは、当然だろうと。人生設計上でも、その後陸上を続けて得られる名声・収入と比べたら、箱根を集大成として陸上競技は打ち切り、(可能ならその栄誉も利用して)他の世界で身を立てるべし、と考えても全くおかしくない。人生の選択は人それぞれですが、どんな向きの力が働くかは明らかだろうと。

最後に「男子長距離の強化」。「女子に比べて男子の成績が劣る」という含みがあり、ということは、まあ、マラソンの話をしてるんでしょう。そこでは女子は世界トップレベル、男子がそのレベルに及ばない、と。ここに少々疑問を差し挟みます。たしかに、谷口、森下、中山の時代を頂点として、力は落ちてきた。では、駅伝の弊害等を是正して、強化ができたとして、「女子レベルの活躍」に達するかというと、それは難しいのではないでしょうか。理由は現在の男子マラソンのレベルにあります。

北京五輪の男子マラソンは私には衝撃でした。5Km15分以下でぶっとばし、後半になってもさほど落ちずに2時間6分32秒。陸上長距離の真の花形競技は5000m、10000m。ケニア、エチオピアの国内の競争のレベルがあまりに上がって、そこからあぶれた人の参入で、マラソンの高速化が始まっていましたが、ついに夏の五輪まで。これはもう二度と日本選手は勝てないんじゃないか。実際、現在のマラソン歴代10傑もエチオピアが一位(ゲブレセラシエ)で、あとみんなケニア。だから、これは日本だけの問題じゃなくて、世界のどこも東アフリカの高地の国に勝てない、という状況が続くだろうと。

ということで、ミもフタもない話になりますが、マラソンで強国に返り咲くのが目標ということなら、もうちょっと遅いだろうと。男子のこの状況は、女子でいえばラドクリフみたいなのがこぞって参入し、争っている状態。逆に言えば女子はまだそこまで競争が激化してないわけで、だからチャンスがあったのだ、と思います。北京五輪では女子マラソンにも愕然としました。新たに強い選手が全然参入してきてない。力が落ちたヌデレバがまだ2位。故障するほど無理しないで、選考レースの力をそのままもってきたら、野口さん楽勝だったじゃん、なんてもったいない、と。だからまだ女子にはチャンスがあるかもしれない、男子ほどは競技レベルが上がってきてないんですね。この先は分かりませんが、だから、男子と女子を同じ土俵で比較するのは無理があるだろうと。サッカーなんかとも同じで。

以上長くなりましたが、まとめると。
1. 駅伝とくに箱根駅伝には強化上の問題はあるかもしれない。
2. けど、それが是正されても、男子が、ことマラソンで世界トップに返り咲くには、
   世界の競争レベルが上がりすぎてしまって、無理。
3. そこまで競争が厳しくない女子と比較してはちょっとかわいそう。

ということです。ということで箱根に関しては以前は批判的だったんですが、ほとんどの人の利害が一致してるみたいだし、まあいいのかも、と思うようになりました(内向な考え方ですけど)。最後まで読んでくださった方ありがとうございました。

Indianapolis Zooにて

2010年11月24日 | 
忙しいやら何やらで、一ヶ月以上ほったらかしていましたが、エロサイト広告も含め、なーんにもおこってないこのブログであります。ようやっとちょっと片付いて、明日からThanksgivingのお休み。

もうずいぶん前、今月の頭ですが、娘より1歳年上、3歳のお嬢さんがいるご家族と二家族で、インディアナポリスにある動物園に行きました。植物園もあって、その入り口で見たのが写真のこれ。サボテン...の、一種だと思うのですが、よく知りません。これのどこに興味があったかというと、名前。表示の通り、Prickly Pearというらしい。知ってる方はピンと来ると思いますが、Steely DanのMy Rivalという曲のいちばんはじめに出てきます。

The wind was driving in my face the smell of prickly pear.

なので、鼻を近づけてみたんですが、ほとんど匂いは感じませんでした。。。

個人的に面白かったのはヘビ。25種類くらいはいたでしょうか。かなり太くて毒々しいのもありました。それから、正確な種類はわかりませんが、ヒヒ類。われわれが訪れたとき、たまたま下位のサルがズルを企てたか、反抗的だったか、上位のサル(ボス?)が追い回し始めました。大声を挙げ、オリの中をぐるぐる何度も飛び回って逃げる逃げる。でも、上位のサルは追い回しをやめる気配なし。私には下位のサルが謝っているように感じたんですが。最後はとうとうつかまり、陰に入って見えませんでしたが、かなりこっぴどくお灸を据えられたようで、ギャーギャーと悲鳴が聞こえました。

寒くなってきた時期なのでガラガラでしたが、夏休みは大混雑だそうです。植物園のほか、水族館もあって、イルカのショーには娘二人とも大満足。大人$8.50、子供6.50$(1歳以下はタダ)と安いのですが、いろんなところが準備中だったのは残念。来年はトラが来るそう。ともあれ、娘はビデオでしか見たことのなかったキリン、ゾウ、クマ等をはじめて見られたし、イルカやペンギンは間近で見られたし、大満足だったでしょう。

URL: http://www.indianapoliszoo.com/SitePages/home.aspx

おうちにかえれない!

2010年10月15日 | 
写真は、友人ご夫婦にいただいた絵本(ベストセラーのようですね)。いただいたとき娘はまだ2ヶ月ていど。この本はやさしいながらもちゃんとしたストーリーがあるので、適した年齢は「2歳から」となっています。でも、もう1歳を回るころからは絵本を読んであげるとけっこう見入って聞いていたので、この本も何度となく読んであげていました。話がどこまで分かってるかは不明ながら、絵が好きなのか、この絵本はかなりお気に入りのほうです。

ところで先日、二階で仕事をしていると、下で娘が大泣きを始めました。少しして泣き止んだのですが、しばらくするとまた大泣き。しかも、ふだんよく聞く、悲しいとき、痛いときの泣き方ではなくて、我々が「ピンチ泣き」と呼んでいる、知らない男の人に抱き上げられたとか、私が嫁をビシッと叩いたときとか(2010/4/5の記事)、おそらく、怖いときにする泣き方でした。

これはどうしたことかと、降りていって嫁さんに聞くと、いつものとおり、寝る前のルーティンとして絵本を読むことにした。娘がこの「うずらちゃんのかくれんぼ」を選んだのでそれを読んでいたところ、うずらちゃんとひよこちゃんが遊んでる途中で雨が降ってきて、「どうしよう、おうちにかえれないよう」となった場面で、とつぜん泣き始めた。そのあと親鳥が迎えに来てめでたしめでたし。「もういっかい」と言うので、「さっきは突然お腹でも痛くなったか?」と思って、もう一回読むと、また、同じ場面で同じように「ピンチ泣き」を始めたのだそうです。二人して「だいじょうぶだよ、お母さんが迎えに来たでしょ」となぐさめましたが、しばらくしゃくり上げてました。

おそらく、・・・・・・この本のレベルのお話が本当に理解できるようになって、ストーリーに入り込んで聞いていたので、うずらちゃん、ひよこちゃんといっしょに「どうしよう」という気持ちになったのだろうと解釈しています。お話を読んで、その内容のせいで泣き出したのはこれが初めて。たまたまその日は、今はジョージア州にいるその友人夫婦と久しぶりにスカイプ電話で話したところ。いただいた本のおかげで、言語理解力とか、感受性の発達が実感でき、ちょっとびっくりしましたが、印象的で、思えば喜ばしいできごとでした。

依存症からの脱却

2010年09月29日 | 
ここのところずっと、コーヒーを飲むならカフェイン抜き、ということにしてきました。2年半前、嫁さんの妊娠が発覚、腹の子供のために刺激物、酒類を絶つことにしたので、つきあいましょう、と私も開始。その後、娘はとっくに断乳し、もう飲んでもいいのですが、そのまま二人とも続けています。酒もほしくなくなっちゃったとのことで(私は元々嫌いですが)、二人とも酒も全く飲みません。カフェイン依存症からすっかり脱却したらしく、カフェインを取らなくても、眠くなるときは眠くなるけど(なら寝たほうがいい)、日中は基本的には大丈夫。

ところが昨日、言語学科のある建物でコーヒーをもらうとき、久しぶりだったので、間違えてカフェイン入りのほうを持参したボトルに入れてしまいました。半分くらいで気づき、あとはカフェイン抜きのコーヒーを注ぎ足しました。捨てるのも申し訳ないので、それを午後から夕方にかけてちびちび飲んでいたのですが、さて夜、眠れません。まあ、飲んだ時間帯も遅くないし、そのうち眠れるだろうと思っていましたが、ぜーんぜん眠くなりません。

しょうがないので仕事をはじめ、結局寝たのは寒くて目を覚ました娘の添い寝に行った4時半。こういうことが前にも数回。どうやらカフェインに対する身体の慣れがすっかりなくなり、めちゃくちゃ効くようになったようです。間違って摂取してしまうと、眠れずに翌日ヘロヘロになるので気をつけなくちゃいけませんが、それより、かつてはそんな強烈な効き目があるものを常用していた、ということがよく分かって怖い。このままカフェインをできるだけ避ける生活を続けるのが身体にはよさそうです。

写真は、もう20日も前、9月10日のインディアナ大Bloomingtonキャンパス内。もうこんなに紅葉が進んでます。

ぽこちゃんは英語で...

2010年09月10日 | 
この夏、日本に帰ったとき、娘は、親戚のおばさんから写真のような人形をプレゼントされました。よだれかけに「Popo」と書いてあるとおり、名前は「ぽぽちゃん」。よく売れているシリーズなんだそうで。どうやらこのぽぽちゃんにはさまざまな種類があるようですが、娘がもらったのはこれです(上の写真と同じ種類)

http://www.popo-chan.com/popocom/popocom_b/b1_09_0520sinnyoti.html

気に入ったようで、抱いたり、寝かせたり、食べ物をやる真似をしたり、小さいベビーカーに乗せて連れ出したり。彼女が寝たあとはたいてい床に放り出されてますが(よだれかけが顔をおおっていたりして無残)。

ところで娘、「ぽぽちゃん」とはうまく言えないからか、正しく知覚できなかったからか、「ぽこちゃん」と呼ぶ。文字は読めないわけだから修正する意味もないし、彼女に従って親も「ぽこちゃん」と呼ぶことにしました。

先日、グングン(インド人の女の子、一つ前の記事参照)がうちに来たとき、グングンもこれを気に入って遊ぼうとしたので、われわれが英語に切り替えて、"Her name is Poko." とか言ってたのですが、この様子を見ていた娘、その日の夜からぽこちゃんを指差して、「えいごで、ぽこ」と言うようになりました。

「英語では『ポコ』って言うんだよね」と確認しているのだと思われます。どうやら「自分のよく知ってるのとは違うことばがあって、それを英語という」という認識ができており、われわれがグングンに向けて発した言葉を聴いていて、「英語ではポコって言うんだ」と印象に残したもよう。

「おかあさんは今、英語を話してるんだよ」とか、絵本を読み聞かせているとき「英語でCat」と言ったことはありますが、それを理解してるとは思いませんでした。大したことではないのかもしれませんが、もう自分が話すことばと(そっちを日本語ということは知らないはず)、それと違うことば(=英語)があるという明確な認識がある、ということがちょっと驚きでした。

交通事故抑止策

2010年09月05日 | 
昨日の関連でもうひとつ環境のハナシ。Scientific AmericanのPodcastに、Totally Bogus(デタラメはどれ?)というクイズがあります。先日の問題の選択肢に「2020年に交通事故が死亡原因の3位にランクアップする、とWHOが予想」というのがありました(4つのうち1つがウソ)。これはデタラメではなく、ホントだそうですが、つづいてホストのMirskyさんは「リスクを減らす方法の一つは、人間に運転をさせないことです」と言うので、「おっ、それいいねえ」と。

しかしすぐ続いて、「その一つの方法として、運転手なしで走行する車の開発が進行中です」と言うのでズッコケました。車社会からの脱却を考えるのでなく、テクノロジーを進歩させることで問題を解決して、慣れた生活スタイルは維持しようとする。これだからアメリカは...(アメリカだけじゃないでしょうが)

日本も今はまだ、車が国の基幹産業の一つだから、「車社会から、公共交通と自転車の社会に移行しましょう、そのための施策を進めます」と政治家は簡単にいえないだろうし、そもそもそんな人当選しないかも。でも私はそういう候補者に投票したいです。