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時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

An inconvenient truth for Kids 読書録7

2010年09月04日 | 
Al Gore
An inconvenient truth: the crisis of global warming
Adaptation for young readers
2007 New York: Viking (Penguin Young Reader Group)

あの、『不都合な真実』の子供向け。いつもの移動図書館で発見、読んでみました。表紙の裏に「11歳以上向け」とありますが、たしかに内容も、英語も、それくらいの年齢じゃないと読めなそう。183ページと短く、写真や図表が主なので、大人は一気に読めます。

まず、個人的に知らないこともあれこれあって面白かった。たとえば、アメリカなどの先進国が圧倒的に二酸化炭素排出量が大きいのに、その結果である環境異変の影響をより多くこうむっているのは他の国だと。気候変動のせいで降水量が減ってるのが赤道直下のアフリカだというんだから、この問題について会議をやったらアフリカ諸国の言い分が通るのは当然ということになるのでしょう。でも、もっともひどい目にあってるのはどうやら人間じゃないようで。北極や南極の温度上昇は最も大きく、シロクマやらペンギンが溺れ死んでるとか。彼らがもし会議に出るようなことがあったら、「お前らみんな何やってくれんねん」とニンゲンは袋叩きでしょう。

13~14章で「地球温暖化の最大の原因は、わが米国です。でもわが国は京都議定書も批准してないし、産業界も温暖化が真実かどうか疑わせることを狙いとしたキャンペーンを打ちまくっています」と核心に迫る。ここに収載された、個別に京都議定書を批准したUSAの都市リストが興味深い。残念ながらBloomingtonは入っていません。予想できるとおり西海岸・東海岸の州が参画に積極的で、これに対して保守的で、生活スタイルを変える考えが希薄な内陸の州は批准している都市が少ない、という傾向が明瞭。

Amazon.comのこの本へのReviewを見ると強い反感を示す人が少なくない。もちろん、この本にもミスや誤謬はあるでしょうが、完璧な仕事などないものだし、温暖化自体、そしてその原因が人の活動であることに疑いはないと思っています。陰謀論に弱いアメリカ人が温暖化否定キャンペーンに乗せられたか、あるいは、ネガティブなReviewの一部が、温暖化否定キャンペーンそのものだったりして。だからこそ、この本を作ったチームは、子供に読んでほしいのでしょう。現世の利益に心を奪われがちな大人に訴えても効果は少ないということでしょうか。最終章に「読んだ内容を、お父さんお母さんにも伝えてください」とあります。

(↓ つづく)

エエカゲンなグラフ? (不都合な真実2) 

2010年09月04日 | 
面白いと思ったデータがこれ(Googleで拾った画像、でも元データは同じ)。このギザギザ、ぱっと見て誰かがフリーハンドでテキトーに書いたのかと思いました。でも本当にこうなることは本文で説明されています。北半球の方が陸地が多いので、北半球がより光をあび、木々が葉をつけると二酸化炭素が減り、北半球が冬になるとまた増える、というサイクルがあるのだそう。その影響が微細な揺らぎに過ぎないと見えるほど、二酸化炭素の増加傾向がはるかに大規模であることが分かります。

(↓ つづき)

じゃあ、どうしようか (不都合な真実3)

2010年09月04日 | 
最終章で、「不都合なことだが、我々は生活スタイルを変えなきゃいけない」と提唱し、「過剰包装を避けよ」「車に乗らず歩こう、自転車に乗ろう」「不要な灯りを消そう」と提案しています。米国人に提唱するなら、以下も付け加えたい。

  全ての州で車検を義務化しよう
  窓を開けて冷房の使用を控えよう
  洗濯物を屋外に干すことのタブー視をやめて、乾燥機の使用を減らそう

ホントは「そんなに食うな」ってのもあるんですけど、食う以外にあまり楽しみがない人たちだと思うし、食ってるものは質素(正直言うと粗末)だから、まあいいか... でも病気になるほどなのはやっぱり問題か。

こういうことを言えば、自分に返ってくる。我が家では、できる限り自転車で出かけるよう心がけています。ただ、近所の道は自動車の通行しか考えられていないので自転車が走るにはかなり危険。米国社会が車から自転車に切り替えようというなら、自転車道の整備は必要な公共投資になるでしょう。それから、市の南にあるリサイクルセンターがとても多種類の資源ごみを受け入れるので、集めておいてそこにもって行く。ただ、そこへ運ぶために自動車を走らせてガソリンを消費するのが問題(家から9Kmほど)。ずっと前に西江雅之先生から聞いた「環境保全を目的とした行為が環境負荷になる悪循環」の例になってしまう。なるべく貯めて行く回数を減らし、近くへ行くついでに持っていくようにしていますが、それで「足が出て」いないものかどうか。

ここのところ日本とアメリカを行ったりきたりして思うのが、日本は夏、日が出るのがあまりに早い、ということ。下手をすると4時台から明るくて、暑さで目が覚めたりする。夏でも暗くなるのが早くて、夜、灯りを点けて過ごす(その灯りが無駄に明るい傾向も感じます)。Bloomingtonでは、例えば写真のように夏なら9時台でも外で遊べるほど明るい。娘はこの校庭で遊び、帰ってくると早々に寝てしまうので、このあと灯りを使うのはそこからもいちど仕事をする私だけ。灯りを点けている時間が非常に少なく、この夏の電気代は驚くほど安い値でした。

出費面でも助かりますが、社会全体がそうなら電力消費節約への貢献は多大のはず。日本こそ、サマータイムを導入すべきだと思います。「労働時間が延びる」とマイナス面ばかりに目を向けず、生活スタイルを変えるきっかけにもしてはどうでしょうか。ついでにいうと、アメリカのDST(Daylight Saving Time)という呼び方は、「日の出ている時間を有効に使う」という目的が明白になるので、最近は気に入ってきました。

(An inconvenient truthについての記事 おしまい)

パンダとシロクマ 読書録6

2010年08月30日 | 
絵本なので読書録なんてレベルではないのですが。市の移動図書館で娘のために借りた本。

Matthew Baek
Panda and Polar Bear
2009, New York: Dial Books for Young Readers

英語の絵本の場合、たいてい英語で読んだあと、すぐ日本語に置き換えて読みすすめています。娘は、英語というよく分からない言語でストーリーが読み進められるのは、図書館の読み聞かせで慣れているし、簡単なものならけっこう喜ぶのですが、これはちょっとだけ話が込み入っているので、訳してみました。

3歳以上のお話なので、ようやく2歳になる娘にはまだ無理がありますが、これまでも、それまで反応が悪かった絵本に、あるころから突然食いつくようになったりするので(逆にそれまで喜んでいた本に興味を示さなくなったり)、いままでも「何歳用」という記載はそれほど気にせず読み聞かせてきました。今日、この本を読み聞かせてみましたが、とりあえず最後までじーっと見てはいました。

この絵本の魅力はストーリーよりは絵かも。作者は韓国系米国人のようです。以前ソウルに滞在中、市の南(果川市)にある国立現代美術館に行ったのですが、どこか茫洋としたかんじの、淡い色彩の絵画が印象的でした(白南準さんとかもあったけど)。そういう作風と通ずるのかどうか知りませんが、絵の色彩やタッチが柔らかでかわいい。崖から落ちたシロクマがパンダと出会って友達になるという不思議な展開ですが、落ちはちょっと拍子抜け(?) でも、それはまあ子供のためのお話なので。

日本のAmazonにも出ていましたが、出版が新しいせいか、翻訳はなさそう。絵のかんじもいいし、子供に喜ばれそうな気がします。

不養生の理由

2010年08月21日 | 
もう一週間ほど前の話。お味噌汁のダシのために使った煮干を捨てずに食べたところ、のどの軽い痛みに気づきました。どうやら骨が刺さったらしい。煮干の骨なんかが刺さるとは知りませんでした。

で、翌朝、咽が痛い。扁桃腺が腫れたかな、と思った次の瞬間、煮干の件を思い出しました。その後も抜ける様子はなく、それほど強い痛みがあるわけじゃないのですが、一晩なにものどを通らないためでしょう、起きぬけはけっこう痛む。

生活に困るほどではないので、放置しておいたのですが、四・五日経っても抜けない。そのうち何とかなるさ、とほおっておいていいのか、何か問題が起きるものなのか、とインターネットでちょっと調べてみると、まあ、大事に至ることはなさそうですが、「一ヶ月抜けなかった」なんてハナシもあって、「対処しなきゃーいかんかなあ」と思い始めました。

たいてい、耳鼻咽喉科に行きなさい、と書いてあります。とはいえ、「魚の骨が刺さって抜けない」という例、日本の医師なら処置の経験はいくらでもありそうだけど、アメリカ、それも魚をほとんど食わない(まして骨ごとなど!)中西部地域の医者にそんな経験があるのか、医者に見せてもどうにもならんのではないか、と考えて、どうも医者に行く決心がつきません。「のどにある異物を取り除く、という点で同じなんだから対処はできるはず」と、ニョーボは言うのですが。

とこう悩みだした矢先、どうも昨日の夕食中、たまたま、食事中に抜けたらしい。温かい豚汁を作ってくれたので、それと一緒にお腹に落ちていったか。もうほとんど痛みもなく、どうやら終結。やれやれ。

こんなふうに、慣れた日本にいるよりどうしても医者に行く行動を起こしにくくなりがち。もちろん、たんに面倒ってのもありますが、日本ならそれでもしぶしぶ行っているようなケースでも、つい「何をされるかわかんないし...」と逡巡してしまう。医療保険制度の整備が遅れているアメリカ(先の大統領選の争点でした)、保険に入れないのでかなりひどい状態でも医者にかからない、という人もいるそうですが、私はずーっとかなり充実した保険に入っている(フルタイムのTAやRAをしていると、大学が保険料を払って掛けてくれる)のに、いつもこの調子で、あまりその恩恵に与っていません。ここまで、深刻な病気や怪我が一度もない、ということでもあるのですが。

甘く + 首振り

2010年08月11日 | 
一昨日の夕食中、娘が素揚げのズッキーニを食べているとき。「揚げたからちょっと甘いんじゃない?」とたずねると、彼女は、

「あまく」

まで言って言葉を止め、首を3~4回横に振りました。で、もういちど

「あまく」

と言ってまたそこで言葉を止め、首を横に振る。数回繰り返しました。

「あまくない」と言いたいのでしょう。それなら発音は不十分でも「甘くない」ともう言えるはず。なんで、言語メッセージとジェスチャーをつなげて全体で表現を完成させる。ヘンなことをするもんです。形容詞の活用形が正しいのもなんかふしぎ。

こんなこと二度とやってくれなくて、「あれは何だったのだろう」と思うことになる可能性が高い気がします。

カレーには福神漬け

2010年08月09日 | 
私は漬物が全般的に好きではありません。とくにぬか漬け。それで困ることはまずないのですが、一つだけどうにも我慢ならないことがあります。それはカレーといっしょに出される福神漬け。私はカレーが大好きなのですが、福神漬けをどうしていっしょに出すのか、理解できません。

「嫌いなら食べなきゃいいじゃないか」と思うかもしれませんが、出されたものを残すのが非常に気が引ける性質なので、結局たいてい、しぶしぶ食べることになります。極力カレーの味に影響しないように、どこかで、一気に。人と一緒にいれば福神漬けだけもらってもらうこともできますが、それでも一部にあの臭いはのこる。そんなわけで、大好きなカレーを食べる悦しみを著しく阻害されるのです。

もちろん、「カレーには福神漬けが必須」と思っている人に改心してほしいわけではありません。ただできれば、福神漬けを「オプション」にしてほしいのです。牛丼屋だって、紅しょうがは別にしてあるじゃありませんか。どういう方法でもかまわないので、カレーを頼んだら自動的に横に添えるのをやめてもらえないものでしょうか。あれでは「カレーを食うなら福神漬けも必ず食え」と強制されているような気になる。実質的な不都合・不利益が確実に予測される人がいるにもかかわらず、そういう人も含めすべての人に「結婚するなら必ず姓を統一しろ」とする現在の民法のようなものだ、とでも言ったらいいでしょうか(←だから、食わなきゃいいんだって)。

先日、中部国際空港で日本最後の食事をしたとき、カレーを頼んだのですが、やはり福神漬けが添えてありました。ご丁寧にラッキョウの酢漬けまで(これも大嫌い)。以前、学食で給仕してくれる方に、「あ、福神漬け要りません」と頼んだことがありますが、今後はレストラン等でも、あらかじめ「福神漬けを添えることになっているなら、不要に願います」と告げることにしようかと思います。といっても、しばらく日本に行かないので、そういう機会はないのですが。

今日、夕食の準備をしながらこの件をニョーボにぐだぐだ語ったところ、彼女は日本的なカレーなら福神漬けがあるほうが嬉しい人であることが判明。「じゃあ、うちではオプションにしてあげる」とのこと。Bloomingtonでも日本のカレールーは売ってますが、高いのでうちで日本風を作ることはありません。そもそも福神漬けは手に入るのだろうか。。。(←追記:アジア系スーパーで売ってるそうです、紅しょうがも) 写真はこの間作ったチキンカレー。インド・中東系の学生も多いため、スパイスはたいへん安く買えます。

子育て支援 フィンランドの場合 読書録5

2010年08月03日 | 
日本で、たまたま訪れた公民館にあった本。フィンランド語を研究しており、昨年行ってもみた、ということで、興味を持って読んでみました。日本語の本は久しぶり。

渡辺久子他 編著 『子供と家族にやさしい社会 フィンランド』 明石書店

フィンランドがここ数十年で、いかに社会による子育て支援のしくみを充実させてきたか、ということが複数の著者によって述べられています。フィンランドは何らかの理由でかつての極端な少子化状態を脱し、最近はあるていど高い出生率(それでも、人口を維持できるレベルには達しない)を維持しているらしい。ただし、この本で述べられている支援がその要因なのかどうかは、実証的に検討されるべきだと思います(フィンランドの例に限りませんね)。

ずっと前(2005/5/17の記事)、赤川学『子供が減って何が悪いか!』という本の感想を書きました。その本の趣旨に今も賛成で、「結婚しても共稼ぎ、仕事も子育ても犠牲にせず、という「勝ち組」ライフスタイル」に偏った支援がなされるのは問題だと思います。この本も子育て期の収入減を補う支援策に多くのページを割いて説明をしてはいますが、同時に子や親が抱える問題を共有したり、相談できる場の整備(と人材の確保)に力が入れられていることも述べています。

好感が持てるのは、このようなシステムに、医師などの専門家による民間の活動に端を発し、のちに公的施策として取り上げられたものがかなりあるらしいことです。中にはそういう市民活動家から、そのような施策を担当する役人になった人もいるそうな。フィンランドの市民社会が成熟していることを感じました。

ということで、紹介されている支援策は、読む限りよさそうに思えるのですが、問題点(やっぱり、あるはず)がほぼ語られていないので、逆にどこまで本当に評価できるものなのか分からない。いいことしか見せてくれないのでは鵜呑みにはできないかも、という印象が残ってしまうのは、伝え方として成功なのかちょっと疑問です。

もう一つ疑問なのは、本の構成。いくつかの講演の内容がそのまま収録されているからか、複数の著者によって、同じ子育て支援策の情報について再三論じられるなど重複が多い(しかも微妙に違ったりして混乱する)。章どうしの関連も希薄で、一冊全体としてまとまった内容が伝わってこない。こんなに面白いトピックについて、最前線で活躍する人々が論じているのに、ちょっともったいない気がします。

ところで面白いというか、衝撃的だったのが、収録された統計。たとえば子育て期の家庭について、額面の収入と、子育て支援のための税控除・補助金などによる再分配後の収入を比べたデータ。当然ながらほとんどの国で、再分配によって収入は上がり、支援策の恩恵を受けているのですが、そのデータ内では日本のみが、逆に収入がちょっと下がっているというのです。統計は算出方法によって違いが生じるものだから、元データに戻って確認するなどしないと確実なことは言えませんが、本当だとすればすごい話です。再分配の方法が悪いか、分配するといって徴収した税金の一部が、分配されないでどこかに吸収されてるか。。。 いずれにしても、日本の少子化が食い止められそうだと思えるデータではありませんでした。

ともあれ、個人的には、少子化どうこうより、実際に生まれてきた子供たちが、どこに生まれたのであれみんな、大切に育てられる状況を促進するような社会であってほしいものだと思います。

Scrambled Egg

2010年07月24日 | 
日本に来る前、心理学科のKruschke先生と子供の話になりました。今は大学生のお子さんが小さいころ「このことはきっと一生忘れないだろう」と思った印象的な場面も、いまやぼんやりとしか覚えていないんですよ、と話してくれました。「ビデオとか写真ではなく、記憶に刻み付けろ」という意見も聞きますが、うちの娘についても、本人(とそのパートナー)があとで見るためにも、できるだけ残しておきたい。この滞在中も折に触れて写真・ビデオを残すよう努めました。

さて、その娘は現在1歳10ヶ月。使える言語項目が増加中。最初は名詞がほとんどだったのが、最近は動詞の習得が進行中。思いつく範囲でも「ある、いく、くる、見る、入れる、上がる、下りる、飲む、食べる、掛ける、寝る、押す、開ける、閉める、塗る、貸す、待つ、混ぜる、走る」など。理解する動詞はもちろんこれよりうんと多い。

また、ここ一ヶ月ほどで動詞の活用形を使い分けるように。「おりる」(go down)を例にとると、最初はいわば一人称(I go down)と、依頼形(Let me go down)が分離。前者は「おり」と語幹だけのような形。後者は「おりて」といわゆる「テ形」。命令の意味(Go down!)でも使う。いまだ他動詞は使わず、「おろして」とは言わない。前者が、入力にはそのままの形ではないのが不思議。日本に来て以降、前者が「おりる」と学校文法でいう「終止形」に変化。さらに最近、「おりたい」という「意思形」と、「みえない」「できない」といった、否定形も一部の動詞について使用開始。

昨日、娘より一歳年上のいとこに会いましたが、彼はもう複雑な文章をどんどん使うようになっていました。あと一年でそんなになるものなのか。でも、ここのところニョーボの話し方をまねて、「かえで、と…おばあちゃん、と… あと~」と長い文章を言いたそうな意思を示していて、二語文を使う準備は彼女の中で進行しているように見えます。

音声の面で興味深いのが、ほとんどの語(=文)を、最初は頭高型のアクセント形で発音していたこと。他のアクセント型ももちろん聞いているはずですが、それは使わず、なんでも頭高(ちなみに、アメリカにいるため日本語の入力は父母からが圧倒的、両者ともアクセントは東京式)。アクセントも習得したけど、とりあえず頭高型の生成だけ出来るようになったらしい。最近は違う型(平板っぽい)も使うようになってきました。たとえば、自分の名前は平板型。

名詞の習得も進行中。昨日の食事中にゆで卵を指さして[mankako]とつぶやく。[tamago]という語形をいわば「復習」していたのですが、上手く取り出せなかったか、生成できなかったか、Segmentをごちゃまぜに並べた。でも母音は動かさず、子音をあちこち並べなおし。ただし、子音をそのまま移動したのではなくて、もうちょっとフクザツ。[t]が消えて[k]が二つになってるのは、「だっこ」がしばしば「がっこ」になってしまうのと関係ある? 音節構造まで変わってるのは、たまたまでしょうか。こんな語音並べなおし例が、ここ数週間でしばしば聞かれます。

音韻論の観点からもおもしろそうだけど、個人的により興味深いのは、原則としてSegment単位で移動してること。うちのPort先生のような、Exemplar theoryの強いバージョンに立って、Segmentはアルファベット文化のもたらす錯覚で、言語処理の単位ではない、とする人もいるようですが、他の多くの例と同じくこの例も、やっぱりSegmentという単位になんらかの心理的実在性がある、ということを示していそうに思います。

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写真は話題とは無関係で、徳島・阿波池田から大阪へ向かう途中の、淡路島の高速PAにいた猫。

読めない名前

2010年05月20日 | 
昨日、娘を初めての歯科検診に連れて行きました。歯磨きが大嫌いな娘がどれだけ抵抗するかと父親のほうがドキドキしてましたが、手馴れた小児歯科の先生が上手く対処してくれて、無事終了(もちろん泣きましたが)。優しそうな女性の先生だったのもよかったか。

こういう場面でよく問題になるのが、娘の名前。「楓」(かえで)という名ですが、米国籍ではもちろんアルファベット。日本のローマ字綴りに従って「Kaede」としました。ところがこれ、英語ネイティブのアメリカ人には「どう発音していいかわからない」らしいのです。悩んだ挙句、「ケイド[keid]?」とか「ケイディ[keidi:]?」のように発音して、「ごめんなさいね、どう発音するの?」と聞かれる(発音間違いは失礼、という考えがあるようです)。で、「かえで」と日本語式の発音を聞いてもらうと、まあなんとかできる。

名前を決めたときには、こんな単純な構造の、よくある音の連続が発音できないとは予想しませんでした。でもたとえば、Ninaばーちゃんは発音以前に処理できず、だから覚えられず、すぐ諦めてミドルネーム一辺倒に。「アメリカで生まれた記念に」と思って(アメリカ国籍にだけ)付けておいただけなのに、実際に使われることになるとは。

さて、昨日の小児歯科でも、呼び出しに来た助手さんが悩み、発音を聞いてきました。診察室で待っている間に書類をのぞくと、彼女が「かえで」を聞いて書き留めたらしい文字列発見。それがこれ。

K'y-ah-day

簡略IPAで書くと[kai ei dei]ってな感じでしょうか(アポストロフィの意味は不明)。それが彼らにとって、聞かされた日本語の音声にいちばん似てると。子音で終わらない音節が続くと、それぞれ二重母音にしないと発音しづらいもよう。2つ目の母音だけの音節はことに厄介なのかも。

実は以前にも似たことが。言語学科のある食事会で娘の名前の話になり、周りの英語ネイティブが、「Kaedeでは「かえで」とは読めない」と言い出しました。3人で合議の結果、これならそう読める、と見せてくれたのが、

Ky ai dey

上のとほぼ同じ変換システムが働いた結果のようです。こういうのが、音韻論でさかんな「loan-word phonology」が明らかにしたい、「他言語音声の知覚 → 母語音声・音韻システムへのマッピング」のメカニズム発動の一例でしょうか。でも今思うと、「言語学者なら、「かえで」をIPAで書いてみな。[kaede]になるでしょ」とか「KaedeをIPAだと思って発音してみな。俺が発音してるとおりになるから」とか言ってやればよかった。日本語の音声システムが類型的に見てより一般的であること、一方、英語の綴りがめっちゃくちゃ(というか歴史的推移が原因でねじれまくっている)ことを英語ネイティブに悟らせてやれる絶好のチャンスだったのに。「英語がヘンなんだよ」と。

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ところで、いとこに子供が生まれたそうで、名前を知らされました。よその子なので名前を書くのは差し控えますが.........読めない。知り合いにも、教わらないと想像つかない読みの名前、「おそらくこう読むんだろうけど、それは無理だろ」と思われる名前が多数。熟字訓をあてた漢字列をぶった切るとか。漢字には、常用漢字を定めたとき絞り込んだ以上にさまざまな訓よみがあるのは確かで、その漢字と訓とのルーズな関係のせいで、命名のための漢字使用の自由度がめちゃくちゃ高い。だから、こういうことができちゃう(それすら逸脱した「狼藉」もよく見るが)。まあ、好きにすればいいんだけど。。。

聞いた範囲から理解したところでは、まず音を決めて、当てる漢字を考える人が多い。その際に「平凡でない、かっこいい(かわいい)、漢字列」とか「画数の組み合わせがよい」とかいう条件にこだわるあまり、珍妙なものが出来上がるようです。珍しくはない名前であっても、音と漢字の対応に無理がなく、だから音を聞いても、漢字を見ても同じ意味がすっと浮かぶ名前のほうが、その名前に込められた意図も、つけた人の思慮もうかがえて感じがいい、と思うんですが・・・