テーラーウシオの息子は目を伏せてビールを啜った。
日は暮れた。
店の入口のガラス戸には宵闇ばかり映る。人影はなかなか映らない。
東寿しは暇である。
牛尾青年が視線を落したまま、ぽつりぽつりと語った身の上話の大意は、およそ次の通りである。
テーラーウシオは六年ほど前に潰れた緑町の洋服店である。一時期は大変羽振りが良く、当時社長だった彼の父親は、一人息子の彼と彼の母親を伴い、三人で東寿しにしばしば姿を現した。社員を十人くらい連れ、店を貸し切ることもあった(「あの頃はお父さんにほんと落としていただきました。時代がいい時代でしたねえ」と店主がしみじみとして口を挿み、ついでに閑散とした今の店内を睨んで鼻息を荒げた)。
しかしバブルがはじけ、経営が傾き始めると、それと呼応するように、家庭内の歯車が軋み始めた。父親の飲酒量が日を追って増えた。外で女を作り、内では母親に暴力を振るうようになった。父親は別人格になった。泥酔して深夜に帰宅し、罵詈雑言を吐きながら母親に手を上げる度に、牛尾少年は身をもって彼女を庇おうとした。父親に突き倒され、柱で腰をしたたか打ったこともあった。彼が中学へ上がる年に店は倒産。父親は名も知らぬ女と蒸発。あとに残された母親は、借金取りに追い立てられながら、一人息子を養うために昼夜なく働きづめに働いた。三年前に過労で倒れ、帰らぬ人となる日まで。
「父が家を出て以来」
牛尾青年はカウンターに両腕を突いた。指先に力が籠る。
「父には、一度も会っていません。母親の葬式にも呼びませんでした。当然。あの男のことは、死ぬまで許せないと思います。でも」
赤い顔を上げ、彼は狭い店内をぐるりと見渡す。
「でも、こうして懐かしい場所で食べていると、ああ、家族三人で幸せだった時代があったんだ、確かにあの頃にはあったんだなあって・・・すみません、俺何話してんだろ。暗い話ですよね。すみません、本当に黙っておくつもりだったんです。酔っぱらったんですね」
田中は首を横に振った。長い前髪に隠れた目は、充血していた。
「いや、よく話してくれました。よくぞ話してくれました。ふむ・・・うん。さ、飲んで! 食べて! くぼ・・・いや、牛尾さん。駄目ですよ。そんな話を聞かされると、あと十人前は食べてもらわないとね。ちょっとこっちの気が済みませんよ」
「はは、どうしてですか田中さん。私の家族の問題ですよ」
「うーん、何て言うかなあ。誤解して欲しくないですが、何だか、あなたのお父さんの代わりに、詫びたい気分なんですよ」
「会いたい、と何度か言ってきたんですけど」
聞き取りにくい声だった。田中は彼の横顔を覗き込んだ。「え?」
「父親です。会いたいって、電話で、私に・・・とてもくたびれた声でした。五、六年で、あんなに声って変わるのかなあって・・・でも、会いませんでした。どうしても会いたいって言われたけど、断わりました。電話を切ってしまいました。できないんです。許せないんですよ。絶対に許せないんですよ」
ほとんど涙声である。答える田中の声も震えた。
「いいから、飲んで! 大将、ビールお代り!」
「どうしても、どうしても、どうしても許せないんですよ」
「さあぐっと飲んで! え? 許さなくていいから。そうそう。許したくなかったら、許さなくていいんです。何もかもすべて。お父さんのことも、私が今日、自転車であなたに突っ込んで、あなたの眼鏡を叩き割ったこともね!」
青年は泣きながら笑った。(つづく)
日は暮れた。
店の入口のガラス戸には宵闇ばかり映る。人影はなかなか映らない。
東寿しは暇である。
牛尾青年が視線を落したまま、ぽつりぽつりと語った身の上話の大意は、およそ次の通りである。
テーラーウシオは六年ほど前に潰れた緑町の洋服店である。一時期は大変羽振りが良く、当時社長だった彼の父親は、一人息子の彼と彼の母親を伴い、三人で東寿しにしばしば姿を現した。社員を十人くらい連れ、店を貸し切ることもあった(「あの頃はお父さんにほんと落としていただきました。時代がいい時代でしたねえ」と店主がしみじみとして口を挿み、ついでに閑散とした今の店内を睨んで鼻息を荒げた)。
しかしバブルがはじけ、経営が傾き始めると、それと呼応するように、家庭内の歯車が軋み始めた。父親の飲酒量が日を追って増えた。外で女を作り、内では母親に暴力を振るうようになった。父親は別人格になった。泥酔して深夜に帰宅し、罵詈雑言を吐きながら母親に手を上げる度に、牛尾少年は身をもって彼女を庇おうとした。父親に突き倒され、柱で腰をしたたか打ったこともあった。彼が中学へ上がる年に店は倒産。父親は名も知らぬ女と蒸発。あとに残された母親は、借金取りに追い立てられながら、一人息子を養うために昼夜なく働きづめに働いた。三年前に過労で倒れ、帰らぬ人となる日まで。
「父が家を出て以来」
牛尾青年はカウンターに両腕を突いた。指先に力が籠る。
「父には、一度も会っていません。母親の葬式にも呼びませんでした。当然。あの男のことは、死ぬまで許せないと思います。でも」
赤い顔を上げ、彼は狭い店内をぐるりと見渡す。
「でも、こうして懐かしい場所で食べていると、ああ、家族三人で幸せだった時代があったんだ、確かにあの頃にはあったんだなあって・・・すみません、俺何話してんだろ。暗い話ですよね。すみません、本当に黙っておくつもりだったんです。酔っぱらったんですね」
田中は首を横に振った。長い前髪に隠れた目は、充血していた。
「いや、よく話してくれました。よくぞ話してくれました。ふむ・・・うん。さ、飲んで! 食べて! くぼ・・・いや、牛尾さん。駄目ですよ。そんな話を聞かされると、あと十人前は食べてもらわないとね。ちょっとこっちの気が済みませんよ」
「はは、どうしてですか田中さん。私の家族の問題ですよ」
「うーん、何て言うかなあ。誤解して欲しくないですが、何だか、あなたのお父さんの代わりに、詫びたい気分なんですよ」
「会いたい、と何度か言ってきたんですけど」
聞き取りにくい声だった。田中は彼の横顔を覗き込んだ。「え?」
「父親です。会いたいって、電話で、私に・・・とてもくたびれた声でした。五、六年で、あんなに声って変わるのかなあって・・・でも、会いませんでした。どうしても会いたいって言われたけど、断わりました。電話を切ってしまいました。できないんです。許せないんですよ。絶対に許せないんですよ」
ほとんど涙声である。答える田中の声も震えた。
「いいから、飲んで! 大将、ビールお代り!」
「どうしても、どうしても、どうしても許せないんですよ」
「さあぐっと飲んで! え? 許さなくていいから。そうそう。許したくなかったら、許さなくていいんです。何もかもすべて。お父さんのことも、私が今日、自転車であなたに突っ込んで、あなたの眼鏡を叩き割ったこともね!」
青年は泣きながら笑った。(つづく)
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