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老化という進化

2017年11月28日 | essay

 

 先日、奥蓼科まで足を延ばし、温泉につかってきた。

 硫黄臭の強い白濁した鉱泉である。

 つくづく温泉好きだなあと自分で呆れる。その日は初雪が舞い山道は危険であったが、帰りにまた汗をかくとわかっていても湯船につかりたい一心で行くのだから、どうしようもない。湯煙を吸い込みながら休日を過ごすなんて、よほどジジ臭い趣味である。四十過ぎてそうなのだが、二十歳のころからそうだった。まことにどうしようもない。こういう人間はよっぽど早く老化するであろう。 

 老化と言えば、面白いessayを読んだ。

 進化の過程で老化現象が淘汰されなかったのはなぜか、という話題である。ちょっと難しい話である。自然淘汰は本来、生物にとって害となり不利益となるものを切り捨てる傾向にあるのに、生物にとってもっとも有害とも言える老化現象が、どれだけ世代交代を重ね、進化を繰り返しても維持され続けてきたのはなぜか。

 馬鹿言え、永遠の命なんてないんだから、どんな肉体もいつかは劣化し老化するのがあたりまえだろうが、と一笑に付されそうだし、私も中途までは心の中でそうつぶやきながら読み進めていたが、どうやらそう単純な話ではないらしい。年齢と共に体内から老化物質なるものが分泌されて、ある意味積極的に老化を推し進めるらしいのだ。

 生物の種類によって寿命の長短があるのも不思議と言えば不思議である。たとえば竹は百年間、無性生殖(オスメスの要らない、いわばクローン作り)を続けて増え、百年経ったある日一気に花を咲かせ、有性生殖(オスメスの要る子作り)を成し遂げ、それで死に絶えるとか。想像するに何とも壮絶な光景である。こんなのも、緻密に計算しつくされた老化であり死であるように思えてならない。

 老化には、ただ老いるという以上の意味合いがあるのか。

 essayでは、二つの学説が紹介されていた。一つは、老化物質とそれが引き起こす老化現象は、たいがい生殖活動が終わってから生じてくるものだから、否応なく次世代に受け継がれていく、という考え。もう一つは、老化しなかったら元気なじじばばばかり地上に増えて、早晩食糧難に陥るのが関の山だから、種の繁栄のためにも、老化現象は積極的に受け継がれていくのだ、という考え。筆者は、二者択一ではなく、どちらの学説も互いを補い合うものだろうよ、という曖昧なところで論を結んでいた。要は、老化は必然的でもあるが、必要でもある、と言ったところか。

 世間に目を転じれば、老化を必死に食い止めようとあらゆる産業があらゆる手をつかって金もうけをしていることに今更ながら驚かされる。アンチエイジングの膏薬。マシン。化粧。体験コース。ほら、ほら、皺が取れますよ。ほら、十歳若返りできましたよ。ええ、あなたは、もっともっと若々しく長生きできますよ。

 せっかく体内から出てきた老化物質も、人類規模の思わぬ抵抗にあってさぞかしびっくりしているだろう。

 こうして温泉につかるのも、長寿のためか。はたまた、老いを噛みしめ、楽しむためか。おいおい、お前はさすがにまだそんなことを考える歳でもなかろうと、実はもっともアンチエイジング志向かも知れない『理性』によって咎められ、白濁した湯で顔を洗い、湯船から上がった。

 

 

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