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言の葉探しに野に出かけたら
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読み切り短編  『いいわけ譲治君』

2017年11月11日 | 短編

 

 矢野譲治君はすぐに言い訳をする。

 子供の頃からそちらの面では大成していた。学校に持参すべきプリントを忘れたのはそのプリントが必要だと思わなかったからであり、持参するよう言われたにもかかわらず忘れたのは聞いてなかったからであり、その話を聞いてなかったのは、そんなに大事なプリントだと思わなかったからである。蛇が自分の尻尾をくわえているような論理である。言い訳にならない言い訳をして一向に平気である。「だってしかたない」のだ。テストの点が悪いのは本気を出さなかったからであり、暴投するのは手が滑ったからであり、夢がかなわないのは、その夢に魅力を感じなくなったからである。

 譲治君はすらりとした手足と甘いマスクを持ち、やたら言い訳が多い。

 現在、彼は都内の私立大学一年生である。                           

 ちなみにその大学は彼にとって第五志望か第六志望くらいのところであった。そこに落ち着いた原因は、センター試験並びに二次試験の傾向が変わったことと、年明けに風邪を引いたことと、高校教師の指導能力が不十分だったことにあるらしい。譲治君は他人にはなかなか厳しい。好きだった野球を大学でも続ける気でいたが、部活動の先輩に「ろくなのがいない」ことを理由に、一カ月で合コン中心のテニスサークルに転部した。

 譲治君はときどき腰を丸めて座りこみ、じっと手のひらを見つめてひどく暗い表情をすることがある。手のひらではスマートフォンが芸能界ニュースを流していたりするが、彼の視点はそこにはない。

 彼も自分が嫌になることがあるのである。

 

 「いい加減、逃げるのを止めろ」

 父親の雅之さんに諭されたことがある。そのとき譲治君は大学の野球部を一週間無断欠席した上で、結局退部したところであった。電話で息子が「人間的に最低な」先輩たちの行状について滔々と報告するのを黙って聞いていた雅之さんが、全部を聞き終えてから言った言葉であった。息子からの返答はなかった。

 矢野雅之さんは体中の生気を絞り出すような深いため息をついた。

 「なあ譲治。聞いてるか? 目の前のことから逃げるな。お前、ずっと逃げてばっかりじゃないか。なあ。ほんとうに、お前は根性がないな」

 受話器の向こうで息子の体が固まったのがわかった。雅之さんは受話器を握りしめて返事を待った。

 譲治君の沈んだ声が返ってきた。

 「僕はそんな強い人間じゃない。だって僕の年齢で、そんな完璧に強い人間なんていないし。誰だってそうだと思う。父さんだって、人のこと言えないと思う」

 親子の電話はそれで切れた。

 

 大学一年生の夏、彼は恋をした。

 恋は人間を変える好機である。譲治君もそう思った。

 相手は、同じテニスサークルに属する一年先輩の、大谷玲子さんであった。お稲荷さんの狐のように、つり上がり気味の目でじっと相手を見つめる癖のある、すっきりした顔立ちの女性である。よく晴れた日の午後、譲治君は、テニスコート脇の用具室にある自動販売機の前に彼女を呼び出した。

 「ねえ、用事って何」

 「いや、あの、玲子さんって、彼氏いるんすか」

 玲子さんは腰に手を当てた。「何それ。彼氏なんかいないわよ」

 「ああ、そうすか」

 「ちょっと、なんでそんなこと聞くの」

 「いや、どうかなって思って」

 「どうかなってどういうこと。はっきり言いなさいよ」

 大谷玲子という人は、包丁で大根を刻むようにどんどん物事の白黒を片付けて行かないと気が済まない質である。

 譲治君はひどく動揺した。

 「いやその、もしよかったら、今度の日曜日空いてたらでいいんですけど、映画見に行きませんか」

 「何それ。デートの誘い?」

 「いや、その、妹がジブリを観たいってしつこくて・・・妹、小学六年生なんですけど、あいつのためにチケット二枚買ってやったら、結局、あいつ用事で行けなくなって・・・」

 「え、なに? 妹さんの代役ってこと?」

 「いや、そういうわけじゃ」

 「ねえ、なんで、彼氏がいるのか訊いたわけ?」

 譲治君は首筋を撫でて天を仰いだ。彼は早くも後悔し始めていた。 

 「え、そりゃ、あれっす。だってもし彼氏がいたら、その、日曜日は彼氏さんといろいろあるに決まってるから・・・」

 腕組みをした玲子さんは、まじまじと譲治君を眺めた。

 「君っていつもそんな喋り方するの?」

 「そんな喋り方ってどんな喋り方ですか」

 「わかんない。ひと言ひと言に保険かけたみたいな喋り方」

 「そうすか」

 「怒ったの?」

 「いや、別に。あの、行きたくないならいいです」

 立ち去ろうとする男の手を、女の手が強く掴んだ。

 「待ちなさいよ。誰も行きたくないなんて言ってないじゃない」

 

 デートの当日は雨であった。

 譲治君は寝坊した上に着ていく服に迷い、結果として、待ち合わせ場所に遅刻した。

 約束の時刻より二十七分ほど遅れて到着した彼が、息を切らせながら、雨でバスが渋滞に巻き込まれたことを告げると、玲子さんは傘を素早く開閉し、傘に溜まった滴を彼に浴びせた。

 「遅れたのは遅れたとして、お願いだから言い訳はしないで」

 

 この二人がうまくいかないのは当然の成り行きであると、誰よりも譲治君自身が信じて疑わなかったが、世の中は不思議なからくりで出来上がっているらしく、二人はそれからつき合い始めた。デートのたびに玲子さんは何かしら譲治君の言動をなじり、そのたびに譲治君がふてくされている観があったが、週が替わると誰かにリセットボタンを押されたように、またよりを戻すのだった。

 譲治君はさすがに玲子さんのきつい性格にうんざりすることがあった。美人だし性欲も満たされるし、性格がはきはきしてて面白い部分もあるけど、奥さんになったら一生尻に敷かれるに違いない。結婚はしないでおこう、と密かに心に決めていた。一歳年上の玲子さんは大学を卒業すると外資系の会社の経理に就いた。翌年、譲治君は折からの不景気で、行きたかった大手の採用試験にはことごとく落ちたが、なんとか地元の小さなリース会社の営業職を得た。「まあ、足掛けになるかも知れないけど」と彼は知人に言った。いろんなことを足掛けにしながら、世の中を適当に渡っていこうと彼は考えている節があった。

 二人は社会人になっても相変わらずつき合い続けた。

 

 夜桜を眺めるレストランのテラス席で、ワインボトルを一本空けたことがあった。

 酔って頬を赤く染めた玲子さんが、テーブルに置かれた譲治君の手を触った。

 「ねえ、やっぱり結婚しようよ」

 譲治君は酔いを頭から追い出すように眉をしかめ、意識を集中した。「結婚?」

 「結婚よ」

 「また、急な」

 「急じゃないわ。去年のクリスマスでもその話になったでしょ。四月までにお互いにしっかり考えておこうって言い合ったじゃない」

 「それは・・・そうだよ。でも酔って話す話じゃないよ」

 「酔ってても話せるわ」

 「無理だよ」

 「どうして無理なの」

 「いや、そりゃ話そうと思えば話せるけど」

 「だってもう四月よ」

 「四月になったら決めるって・・・約束したね」

 「やっぱり、忘れてたのね」

 「そんなことはない。そんなことはないけど、四月になりました、はいさっと決められる話じゃないよ。そうでしょ? 結婚って大事なことじゃん。結婚って、君は簡単に言うけど、結婚は簡単じゃないよね。だって僕ら、まだ大人になったばかりだし。会社じゃまだ新人だし、まだまだもっと、その、貯蓄とかしてから、結婚するならすべきだと思う。いくらなんでも、まだ早いと思わない?」

 玲子さんの赤い顔が、どす黒く染まった。彼女は嘆息した。

 「結婚したくないなら、結婚したくないの一言で済むじゃない。どうしてあなたはそうまどろっこしいの?」

 

 それから一年後、二人は結婚した。

 翌年には一人娘も授かった。

 娘の誕生と入れ替わるように、彼の父親の雅之さんが肺癌で亡くなった。おじいちゃんが生まれ変わったのかな、と、彼の母親の弓枝さんは孫を抱いて笑った。譲治君はあからさまに嫌な顔をした。

 初雪の降った十二月の暮れ、彼は一度だけ浮気をした。

 会社の忘年会の後であった。

 事務員の女の子で、人形のように可愛らしい後輩がいた。彼女の方が、先輩の譲治君に対して積極的であった。宴会の最中から彼の膝に手を置かんばかりにすり寄り、冗談話をしては笑い転げた。潤んだ大きな瞳はしょっちゅう彼を捉えて離さなかった。もちろん彼としても満更でもなかった。育児に忙殺され、夫婦の営みが疎遠になっている現状への不満もあった。しかし彼は自制した。女の子の飲み過ぎを咎めた。

 会が開け、タクシーを拾って帰る段になり、酔いつぶれた彼女を誰かが一緒に送っていくべきだという話になった。帰宅が同じ方向である譲治君に白羽の矢が立った。あまりに二人の仲がいいので、同僚たちが気を利かせた部分もある。ちょっとからかってどうなるか見てやろうという魂胆もあった。

 譲治君は一旦はその提案を断った。心の中で、危険だというサインが出ていたのである。しかし上司にまで説得されれば、彼も従うしかなかった。もっとも、本気で断るつもりもなかったのである。心中は荒波に漂う小舟のように揺れた。

 二人を乗せたタクシーは、そのままホテルに直行した。

 罪は罪として、彼としてはこれくらい言い訳の豊富にできる犯罪はなかった。ほとんど彼の意志で事が動いたのではないと断言したかった。しかしどんなに言い分があっても、奥さんの玲子さんは決して許さないことも痛いほどわかっていた。彼は証拠が残らぬよう細心の注意を払い、こと匂いについては一番警戒した。二次会にカラオケに連れて行かれたことにして、わざわざ、煙草を吸う人がそこで一緒にいたことを演出するために、自分は吸わないのに煙草を買って火を点け、煙をスーツに浴びせた。

 それでも直感の鋭い玲子さんのことだから、事が露見するのではとひやひやしたが、驚いたことに、玲子さんはいつまで経っても浮気の事実に気づかなかった。あるいは気づかないふりかも知れないが、いやいや、そんな器用な女ではない、と思い直した。彼が必死に言い訳を並べ立てる機会は、ついに来なかった。それはそれで、彼はなんとなく不安であった。

 ときおり玲子さんにじっと顔を覗きこまれ、「何考えてるの」と訊かれることがあった。以前にはなかったことのように思われるので、彼は内心どぎまぎしながら、表情だけは平然として「別に、何も」と答えた。「ふうん」と言いながら、玲子さんはなおもじっと彼を見つめるのだった。

 

 譲治君が本当に自分の生き方を変えたのは、リース会社を辞めたい、と思い始めた梅雨の始まりであった。仕事が上手くいかず、取引先を二軒も失い、上司にこっぴどく叱られた。不景気のせいにするなと言われた。しかしどう考えても不景気とデフレによる価格破壊のせいとしか思えなかった。そういう愚痴を同僚にこぼしたら、同僚が上司に告げ口し、彼に対する上司の対応は一層冷ややかになった。事務の女の子はとっくの昔に仕事を辞めていた。それも譲治君のせいだという噂が立っていることを、彼は何となく肌で感じていた。職場はまったく居心地が悪かった。家に帰ったところで、どうしても落ち着かない自分がいた。彼は自暴自棄になりつつあった。

 その日は朝から土砂降りであった。いつもより早く宵闇が街に落ちた。幼稚園に理奈ちゃんを迎えに行き、帰る途中だった玲子さんの軽自動車が、交差点で赤信号を無視して突入してきたトラックにスクラップのように踏みつぶされ、母子ともに命を失ったということを、彼は仕事帰りに立ち寄ったパチンコ店で、スマートフォンに呼び出されてから知った。

 遺体の身元確認のため、大学病院に至急来るよう告げられた。

 譲治君はスマートフォンを耳に当てたまま、椅子をひっくり返し、パチンコ台にぶつかりながら立ち上がった。銀玉が床にこぼれ、周囲から野次が飛んだ。

 絶対に赤の他人だ、と彼は思った。絶対に、身元を勘違いした電話だ。玲子と理奈のはずがない。そんなはずがない。

 そう心の中で何度も唱えながら、彼は大音量で電子音の飛び交う通路をふらふらと歩き、店を出た。なんだか慌てれば、電話の内容が事実になりそうで怖かった。しかし夜の街に出た途端、人が変わったかのように、大慌てでタクシーを探した。今度は、急いで病院に行けば、たとえそれが自分の妻と子供であっても、警察の言い分とは違い、実はまだ息があって、自分が一声かければ蘇生してくれそうな気がしたのだ。通りでタクシーを呼び止めていたサラリーマンに飛びかかるようにして縋りつき、「すみません、妻子が交通事故にあったんです」と言うと、返事も待たず、彼を押しのけてタクシーに乗りこんだ。

 「お客さん、割り込みは困りますよ」

 運転手は不機嫌な顔をして振り向いた。

 「大学病院へ。大学病院へすぐさま行ってくれ。妻子が死んだんだ」

 譲治君は運転席の背もたれを拳で叩いて叫んだ。

 「え? 死んだ?」

 「早く行かないと死ぬんだ。早く、大至急で車を飛ばしてくれ」

 「え? まだ死んでないんですか? どっちなんですか?」

 「早くしてくれ。間に合わないと、お前が殺したことになるぞ」

 運転手はその声に尋常ならぬものを感じ、車を発進させた。

 「いったい何があったんです」

 運転手の問いを無視し、車窓を睨んでいた譲治君は、信号が赤で車が停車すると、再び運転席の背もたれを、今度は両手で激しく叩いた。

 「早くしてくれ。頼むから早くしてくれ。俺が殺したことになる」

 「はあ?」

 運転手はますます混乱したが、こんな情緒不安定な客は早く病院に降ろしてしまおうと、水飛沫を立てて車を急がせた。

 その大学病院は、譲治君も何度か利用したことがあった。しかし今まで存在にすら気づかなかった部屋に彼は通された。入室するとき、布巾のようなものを白衣の男から手渡され、口にあてがってください、と言われた。

 部屋は広かった。青白い照明に天井から隅々まで照らされ、どこにも影を作ることを許さないかのようであった。ひんやりと寒気を感じた。部屋の真ん中に白いベッドが二台並べてあり、それぞれの上に白いシーツが盛り上がっていた。

 譲治君は逃げ出したい衝動に駆られた。顔なんて見なくていいから、すぐにでもこの二体を焼却して、肉も血もない白骨にして欲しいと思った。しかし同時に、どうしても自分は見なければいけないのだ、これが夫婦であり父親であり家族であった者のつとめなのだ、と自分に強く言い聞かせた。

 彼は壁に手をつき、自分の体を支えた。そんな部屋の端に彼は佇んでいた。

 「身元確認をお願いします」

 付き添ってきた警察官がそう呟いた。白衣を着た男が顔の部分の布をめくった。

 おお、おお、と彼は呻いた。こんな風に自分は呻くということを彼は初めて知った。

 白衣の男はもう一台のベッドの布もめくってみせた。

 おおお、と彼はまた部屋に反響するほどの大声で呻いた。

 二体とも血まみれだった。玲子さんだった遺体は顔が潰れて形を成してなかった。理奈ちゃんの遺体は額から顎にかけてざっくりと縦に切り口が開いていた。どちらも作りかけの粘土細工が床に叩きつけられたかのような顔をしていた。そしてどちらも、何かをひどく恨むように眼球が飛び出ていた。

 警察官に抱きかかえられても、彼は容易に立ち上がろうとしなかった。

 「ご家族にまちがいありませんか」

 警察官の問いに、彼は気がふれたように首を縦に振った。

 「私が殺しました。私が二人を殺しました」

 「ご主人、何を言ってるんですか」

 「私です。私が悪かったんです。全部私のせいなんです」

 再び白い布の掛けられた遺体を凝視しながら、彼は何度も叫んだ。

 「私が二人を殺したんです」

 

 

 矢野譲治君が仕事に復帰し、日常生活を取り戻すのには、半年あまりを必要とした。その後の彼はまったく人間が変わったようであった。物静かになり、口にする言葉は重かった。言い訳じみたことはもちろん、二度と口にしなくなった。それについてあるとき、新しい上司から、幾分か敬意をこめて指摘されたことがある。お前は決して言い訳しないな、と。彼はしばらく考えこんでから、言い訳をする相手がいなくなったんです、と答えた。

(おわり) 

 

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