た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

夏が過ぎ

2008年08月25日 | essay
 夏が終わった。全てが逆回転に見えるほど目まぐるしい夏であった。毎年のことである。それでも今年は、いくつかの場面が逆回転も正回転もすることなく記憶に留まった。それらの諸光景は私にとって未来永劫黄金の値を持ち続けるであろう。

   ・   ・   ・ 

 その一つに、海に沈む夕日がある。

 唯一の夏の連休であった。
 ときおりローカル電車の通り過ぎる新潟の小さな海岸で、早目の夕食を終えた私と私の新しい家族は、日没を待っていた。待っているのは私たちだけではなかった。緩やかにカーブを曲がってくる電車と海と夕日のアングルに魅せられてか、海沿いの道路端には数名のカメラマンが脚立を立てていた。そういう場所なのであろう。浴衣を着た観光客の姿もあった。しばらくは重そうな太陽が海に光の帯を描いて彼らの歓声を誘っていたが、残念なことに日没間際になり、日は巨大な入道雲に隠れてしまった。
 「日が隠れたらどうしょうもないな」
 隣にいた年配のカメラマンは苦笑してそうつぶやくと、脚立を仕舞い始めた。

 われわれも残念であった。まあそれでも波打ち際まで降りてみるか、と坂道に歩を向けた。砂地に近づいたら同じ年齢の子どもが誰でもそうするように、「息子」は勢いよく駆け出した。勢いあまって転びそうである。足下の注意を喚起させるべく、妻も彼の後を追った。
 私は水平線を見上げた。大きく「息子」の名を叫んだ。
 「何?」と彼が振り向く。
 「夕日だ」
 「本当」妻も私の視線の先を見つめた。
 太陽が海に入る直前、何の配慮か、雲はそこだけ空間を空けていた。くっきりと丸い光の揺らめきが、距離を置いて立つわれわれ三人の目を吸い付けた。美しい色紙をくり抜いて貼付けたような太陽であった。まさか見られるとは思っていなかった。
 私と妻は並んで立った。
 「出てくれたのね」
 「うん。出てくれたんだ」
 振り返ってみれば道路にはもはや一台の脚立もない。夕日を眺めているのはほとんどわれわれだけである。

 この夕日は、と私は心に独り決めした。この夕日は、新生活に向かうわれわれに対する祝福と勝手に解釈しよう。この光景は、いつかくじけそうになるほどの困難に遭遇する日のために、心に大事に仕舞っておこう。

 日が完全に没するまで、われわれは水平線を眺め続けた。光の残滓が波音に消え、生温かい風と共に宵闇が訪れた。

 「花火!」と我が「息子」が叫んだ。
 私は腕を組んだままうなずいた。うなずくだけでは物足りない気がした。
 「おう」と私は彼に負けない声で叫んだ。
  
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