た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

松本ダンス 第三話『エオンタ』前編

2012年01月18日 | 短編
 松本平の短い夏は

 アルプスの峰と烏城

 堀に流せぬ涙たたえて

 エオンタの夜にJazzを聴く


 松本城は黒い城である。別名烏城と呼ばれる。漆塗りの外壁が青空と穂高連峰によく映える。松本城はまた、近い城である。ことに内堀は庭池ほどに足元に近い。水面が初夏の日差しを受けてきらめく。

 天気は良い。観光客が気紛れに投げ入れる鯉の餌を失敬しようと水に漂うカルガモと、藤棚のベンチに腰掛けてそのカルガモたちをつくねんと眺める観光客とは、だいたい同じ心持ちである。

 「こちら、拝借していいだか」

 白い山高帽を被る老紳士が、ベンチに座る背のかがんだ皺くちゃの老婆に声をかけた。

 「はあ、どうぞ。空いてるずら」

 老婆はしわがれ声で、顎と膝がくっつくほどにうなづく。

 老紳士は帽子を持ち上げて会釈し、杖に両手を重ねて腰かけた。

 観光客が絶え間なく二人の前を行き交う。カルガモがガアガアと鳴く。

 「人の出が多いですな」と老紳士。

 「へえ」と老婆。

 沈黙。

 老紳士はちらと老婆を見てから、帽子のつばに手を掛ける。

 「陽気のせいですかな」

 老婆は返事をする代わりに、背をひどく曲げて、くっ、くっ、と笑った。

 「何がおかしいですか」

 「あんた、気づいてなさるかの」

 老いた男の頬に隠しきれない緊張が走る。「はて、何に」

 「何にて、ほれ、ぞろぞろ来とる今日の観光客の中にゃ、ちらほらと私服警官が混じってるで」

 「ほお、それはまた。何か事件でも起こりましたか」

 老婆は愉快そうに目を細めた。その目には不敵な光が宿っている。

 「知らんはずないずら。ほれ、おとといの晩、裏町の路上でやくざの親玉が撃たれただ」

 「そんなことが。ふむ。いえ、本当に存じませんでしたな」

 「またまた。おっきなニュースずら。警察も組のもんも、殺った奴を逃すめえとピリピリしとる。だども、へへ、お城を見に来た観光客を警備してもしょうがねえずら。第一、私服ポリ公さ入れてもバレバレだわ」

 「いや・・・私にはまったく気づきませんな。その私服警官とやらがどこにいるのか。よくお気づきで・・・」

 「そりゃあんた」老婆は可笑しくてたまらない、という風に、筋張った手でベンチの手すりをぺし、ぺし、と叩いた。目は笑っていない。老紳士の方に身を乗り出し、ひどく声を落として囁く。「せめてあんたくらいに変装がうまけりゃ、あたしもうっかり気づかねえかも知れねえだ」

 微風が通り抜けた。カルガモの羽ばたきと観光客のざわめきが、二人の長い沈黙の間を埋めた。

 顔をこわばらせていた老紳士は、ふっ、と微笑んで、白い帽子を脱いだ。額が汗ばんでいる。彼も小声で、「さすがに、平成の二十一面相と呼ばれるハセ松さんにはすっかりお見通しでしたか。こちらとしては、敬意を表すつもりで精一杯装ってきたつもりでしたが」

 「なあに、なあに」老婆はしなびた手を伸ばして彼の膝に置いた。「おたくこそご立派なもんだよ。あたしの変装を見破って近づいてくるなんざ、なかなか大した眼力だ。ここいらの警察にゃ、確かそんな凄腕のはいなかったはずだけどね」

 「私立探偵です」

 「ほう。私立探偵。そりゃほっとした。だったら、組のヒットマンでもないね。まあ、そうじゃないとは見当ついたけどね。私立探偵。ふうん。名前は」

 「JK」

 「ふうん。目的は」

 はいチーズ、と言って写真を撮る家族をやり過ごしてから、老紳士は小声で答えた。

 「目的。目的なんて、特別ありません。警察に依頼された仕事でもありません。組に雇われたわけでも・・・うむ・・・正確に言うと実は、あなたが一昨日うら町で撃った組長の舟橋竜雄に、生前、彼の身辺の護衛を依頼されたことがあるんです。でもまあ、丁重にお断わりしました。裏社会が舞台となりゃ、とてもとても、私みたいに手ぶらじゃお勤めしきれませんので。だから、その筋で動いているわけでもないんです。ただ」

 彼は杖を突く位置をわずかに動かした。

 「ただ、どんな肩書きの人間であれ、一度でも私に助けを求めてきた人物が、実際に殺されたとなると、何となく寝覚めが悪い。たとえその依頼を引き受けてなくても。いや、引き受けなかったから、なおさらかな。せめて、殺った当の張本人に、殺った動機だけでも訊きたくなったと、それだけです」

 「なるほど」

 遠い過去に忘れ去ったものを思い出そうとでもするかのように、老婆はじっと内堀のきらめきを見つめた。この瞬間は誰もが水面を見つめていたかのように、それは美しかった。

 彼女は再び小声で話し始めたが、それは八十の老婆の掠れ声から、五十代の男の押し殺した低音に変わっていた。

 「大した話じゃない。二十年ばかし前、俺は松本(ここ)に流れ着いた。首までサラ金に漬かってな。けちな盗みでもして捕まるか、穏当に自殺で済ますかして、このくだらねえ人生を終えるつもりだった。そこをあの男に拾われた。偶然だった。救われたと、思った。杯を酌み交わし、以来二十年、あの男のために働いてきた。結局、自殺以外は何でもやった感じだ。殺しもおととい済ませたところだしな。

 あの男は───あの男は、ケダモノだった。己が少し足を伸ばしてくつろぎたいってだけで、親族をセメント詰めにするような男だ。そんなことどうでもいい。あの男は俺の女房に手を出しやがった。俺が言うのも何だが、女房は、いい女でね。やつは俺を香港に旅立たせておいて、その留守を狙いやがった。強姦だ。わかるかい。強姦だよ。それも杯を交わした子分の女房を。いくら極道の世界でも、そんな無法は許されねえよ。許されねえ。あいつの想定外だったことは、俺がやつの罠にはまらず香港から生きて帰ってきたことと、女房が心底俺に惚れこんでいたことだ。女房は飛び降り自殺した。俺が日本に戻る二日前に。・・・まあ、それくらいのことだ」

 「・・・・」

 観光地ならではの陽気なざわめきが蘇り、老いたなりをした二人に降り注いだ。

 「俺を捕まえる気かね」

 老紳士を装う男はうつむいた。

 「頼まれた仕事ではありません」

 「そうかい。そうかい。じゃ」

 安堵感をにじませて、老婆特有のしわがれた甲高い声が戻ってきた。

 「あたしゃちょっくら、お城に登ってくるで。おたくはどうする」

 JKは静かに首を横に振った。

 「そうかい。じゃあここでお別れだ。が、お前さん。最後に一つ聞かせとくれ。どうして、あたしがお城に来ると思ったかい」

 老紳士として、JKは、老いを重ねた穏やかな声でそれに答えた。

 「さあ・・・。どうですかな。町中がこれだけ騒いでるときだから、案外、こういう観光地の方が心休まるかなあと・・・」

 「へへ。なるほどね」

 「それに」

 「それに?」

 「よそ者は松本(ここ)を去る前に、よそ者だからこそ、もう一度だけこの城を見ておきたいと・・・とくに、永遠に戻ってこない気のするときは・・・ええと、私自身がよそ者だから、そんな風に想像するんです」

 満面が皺になるほどにたっと笑って、老婆はよろよろと立ちあがった。「お前さん、いい仕事するよ」

 そう言い残して、老婆は曲がった腰で、朱塗りの埋み(うずみ)橋の方へゆっくりと去っていった。

 日差しは強い。

 鯉の太り具合を検分していた観光客から、ひときわ高い歓声が上がった。

 老紳士は山高帽を目深にかぶり、しばらくの間、じっと身動きをしなかった。よほど近くまで寄らなければ、彼が奥歯を噛みしめて煩悶している様に気づくのは、難しかったろう。

 彼は目を閉じた。

(つづく)
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