多田加助の道10 2013-09-08 00:04:13 | 多田加助の道 泣き坂は途中で松本トンネルのアクセス道路に突き当たり そこから先は埋もれてしまっている 道はその少し上のアルプス公園北口駐車場奥から再度現れる この部分は養老坂と言われ古道の雰囲気を良く残している ここは糸魚川からの塩を塩倉に運ぶ塩の道でもあった « 多田加助の道9 | トップ | 雨の日はメンテに限る »
2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定) コメント日が 古い順 | 新しい順 Unknown (バッタモン) 2013-09-10 09:33:08 米の品種までは考えなかったですが、今よりはるかに生産性は低かったですね。安曇野には堰がいくつもあるのでそんな歴史を紐解くのも面白そうです。加助の神沢の集落から上土の牢まで護送ルートは検証中です。 返信する Unknown (サンプレ伊藤) 2013-09-10 05:26:59 サンプレです。加助騒動は歴史の深みを感じさせる事件ですね。もちろん拾ヶ堰は存在せず、ちょうど勘左衛門堰の開削時期と重なっているのは、偶然ではないと思われます。その頃から、耐乾性は高いが生産性の低い品種から生産性の高い米への技術革新も起こっていったのではないかと、また余計な妄想も広がってきます。先人の偉業と深い悲しみに黙祷、です。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
安曇野には堰がいくつもあるのでそんな歴史を紐解くのも面白そうです。
加助の神沢の集落から上土の牢まで護送ルートは検証中です。
加助騒動は歴史の深みを感じさせる事件ですね。
もちろん拾ヶ堰は存在せず、ちょうど勘左衛門堰の
開削時期と重なっているのは、偶然ではないと
思われます。
その頃から、耐乾性は高いが生産性の低い品種から
生産性の高い米への技術革新も起こっていったのでは
ないかと、また余計な妄想も広がってきます。
先人の偉業と深い悲しみに黙祷、です。