バッタモンのポタリング日乗

松本在住の自転車散歩日記です
  時々余計な話題も

木曽義仲ゆかりの地:中原兼遠屋敷跡、林昌寺、手習天神

2021-09-12 22:02:44 | 木曽義仲
軽トラしか通れないような中央西線の陸橋を渡って中原兼遠屋敷跡へは田んぼのあぜ道だ
屋敷跡と言われる場所には1本の松の木と案内板があるだけで10メートル四方くらいの平地に遺構は何もない
大き目の石がいくつか転がっているが礎石でもなさそうだ
案内板には
「貝原益軒の岐蘇路記に宮の腰の1里下に上田と云所あり、兼平が父木曽の仲三兼遠が屋敷の跡あり・・・」とあった
調べてみると岐蘇路記は1709年に書かれたものだ

日義村村史によると「義仲はここで兼遠の息子、兼平、兼光らと育てられた」とある
朝日村村史と塩尻市史には「1国の権守(今の副知事)の子供3人、しかも女の子までが、山の中の木曽まで来て源氏の孤児に従うというのは不自然である」
と述べている
また塩尻市史では
「群馬県に木曽三社神社がある。義仲の死後落ち延びた遺臣達が義仲の崇拝した『岡田・沙田・阿禮神社』を勧進して建てられてということから
義仲は筑摩郡居住の可能性もある」
とも述べている
平家物語などの軍記物語は創作や聞き違いが多く、玉葉など公家の日記類は信用度が高いが非常に簡単だということだ
結局、確たる証拠資料は何もなく推察するしかない
当初木曽の地に匿われていたけれど源義平の死(1160年、義仲7歳くらい)により追討の恐れがなくなり比較的早い時期に筑摩郡に移り住んだのかもしれない

200メートルほど離れた田んぼの中の竹林には兼遠の塚がある
建立年号は明治22年とあった

権守の退官後出家したという兼遠が建立したという林昌寺には兼遠のお墓がある
また、近くの旧中山道沿いには兼遠が義仲のために勧進したという手習天神がある
                       

                       
                       

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