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応仁の乱の傷跡を巡る その2

2017-07-13 | ぶらぶら
さて、船岡山から下りてきて西陣へ向かおうと鞍馬口通を東へ歩いていると
道すがら、何やらおもろいお店がいっぱいありました。



まるで応仁の乱で傷付いたかのような・・・(笑)





というように、なかなか洒落た通りでオタクっぽい観光客がちらほら歩いています。
知らなんだ・・・("^ω^)



ということで、ちょっと歩き疲れたので力水を入れることにします (^_-)-☆
こんなことやってるからいくら神社仏閣を参ろうと徳もご利益ないんや・・・

さて本題に戻りましょう。



そうこうするうちに、西軍の本陣があったから西陣と名がついたという町へやって来ました。



そうです、この界わいは西陣織りの町。趣きある石畳に織物屋さんが軒を連ねていてます。
日曜でどこも休みだけど、カシャン・カシャンと機織りの音が聞こえてきそうです。



ばったん床几が歴史ある街の雰囲気を盛り上げてくれます。
とてもここに何万もの兵がたむろしていたという面影はさらさら残っていません。



西軍総大将、山名宗全の邸宅跡。
壮大な規模を誇ったお家だったらしいけど、路地裏の半間ほどの空地にポツンと石碑があるだけ。



西軍陣地と東軍陣地との間にあった小川(こがわ)に架かっていた百々橋(どどばし)の礎石。





今では川は埋め立てられ、瀟洒な通りになっていますが、
当時は両軍入り乱れて激しい戦いが繰り広げられたんでしょうね。



百々橋から少し東へ進み東軍本陣のあった相国寺へとやって来ました。
室町幕府の花の御所からほど近かったのでこのお寺に本陣を置いたのでしょう。



元来、三代将軍足利義満が創建した禅寺で、京都五山第二位に列せられる名刹。
当時はこの何倍もの規模を誇ったといいますが、今でも広い広い広い~~~っ!って位広い。ややこしい?



当時の法堂は戦火で焼失し、再建されたものの、その後も焼失と復興を繰り返し、
現在のものは1605年に豊臣秀頼の寄進によって再建されたものを今に伝えています。

内部の天井に描かれた、どこから見ても睨まれているという 「 蟠龍図 」 が観たかったんですが、
ここもやはり拝観期間外ということで残念ながら・・・(涙)



そして最後にやってきたのは、順番が逆ですが、応仁の乱勃発の地 「 御霊神社 」



ちょっとここで整理してみましょう。僕なりの解釈なので正確ではありませんが・・・

八代将軍足利義政には嫡男がなく、政治にもあまり興味がないために
早々に引退して隠とん生活に入り芸術の道に精を出したかった。
そこで出家していた弟の義視を還俗させて跡継ぎに決めたとたん、史上最強の悪女と誉れ高い
正室の日野富子との間に実子の義尚が生まれるというちぐはぐな現実。

義視を推す義政と、実子を将軍にしたい日野富子のにらみ合いに
幕府侍所の山名宗全と管領の細川勝元の権力争いが絡まる中で、
近畿圏の守護大名の畠山氏の跡継ぎ争いが発端となってこの地で小競り合いが勃発。

両軍共に全国の守護大名を引き入れて京都に20万以上の兵が集結して大乱へと発展。
全国から集まってくるもんだから、その中で守護大名どうしの戦いが起こり、
まさにハチャメチャの泥仕合が続きます。

おまけに将軍義政が優柔不断な仲裁に入るもんだから余計複雑に・・・

兵が足りずに傭兵である足軽が乱に乗じて放火・略奪の好き放題で京都の住民大迷惑!!

最後は、何故か西軍に寝返っていた義視が義政に詫びを入れて これも明らかに変… 
東軍勝利かと思いきや、西軍の中心勢力であった大内氏などは領土安堵のまま帰国することに。
さて、どっちが得して、どっちが損をしたのでしょう? わかった・・・??

これにより幕府の権威は衰退し、各地の大名は長く領国を留守にしていたため
国は乱れ、下剋上が横行し、後の戦国時代へとなだれ込むのであった。

しかし、戦火を逃れて各地へ散っていった貴族たちによって、地方に都の最新の文化や技術が伝わり、
発展していったという事実も忘れてはいけません。



桓武天皇が遷都の折、都の病や災いを鎮めるために創建したこの神社が
都をぶち壊す発端の地となったもまた歴史をつくる人の業というものでしょうか。



平和で美しい今の京都があるのは、幾度もこうした戦乱を乗り越えて築き上げてきた人々の力の賜物。
感謝の気持ちを残して、京都をあとにしました。

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