今日も遊・食・見 + Life

おっくんの元気の源…四方山Dialy!

ハロウィンで、こりゃこりゃ 🎃!!

2016-10-27 | 日記
巷ではハロウィンで盛り上がってるようですが、
我々おっさん(勝手に仲間に入れとる・・・)にはほぼ無縁の話 (^▽^;)

とはいえ、ポケモンGOがもの凄いことなってます w(゚o゚)w(まだやってるんや・・・)



ログイン画面がハロウィン仕様になっていますが、ここからがスゴイ w(゚o゚)ww(゚o゚)ww(゚o゚)w



オバケにちなんだとはいえ、いくらなんでもやり過ぎやろ!!!
ゴースにゴースト、ゲンガーの雨あられ、嵐、嵐・・・("^ω^)・・・
8割から9割方この3匹が飛び出してきます。しかも手ごわいのが時折いてて難儀してます。
アメも多めにくれるのでXP稼ぐのが楽とはいえ・・・、コラッタ、ポッポが懐かしい (´_`。)
何のこっちゃ・・・!?



こんなん集めて喜んでる虚しいおっさんです (^o^)丿

おっさんの気ままな休日 (^.^)/~~~

2016-10-24 | 日記
あこぎな稼業ゆえ休みが取れない期間が続くことがあり、うずうずしていました。
久しぶりの休みを思いっきり楽しもうと、昨日の日曜、のこのこ出かけました。

まず向かったのは、来年の3月までの期間限定の「 うめきたガーデン 」てどんなもんじゃろかと・・・?



はぁ・・・("^ω^)・・・??  えっ・・・("^ω^)・・・???

梅田北ヤード(元梅田貨物駅の残り空地)全部使ったそれはそれは広大なお花畑だと思ったんだけど、
その一角にぽつりと区画が切ってあるわ (o´_`o)ハァ



こうして遠く高いとこから見ると余計にちっぽけに感じるんだろうけど、ちょっと期待外れ。
その全域でやってんなら、一日楽しめるかなと思ったんだけど、今回はパス・・・σ(^_^;)

もう少し上から見てみようと、オオサカステーションシティ屋上の 「 天空の農園 」 へ。



うめきたガーデン行かなくってもここにコスモス畑があったわ ヽ(´▽`)/



大都会のど真ん中のお花畑も粋なもんですわ!!



ほんで下界へ降りて、運試しの菊花賞へ 



オッズなんか見てません ( ̄^ ̄)!   当たればハワイ旅行か新車やね・・・!!



今度は地下に潜ってホワイティ梅田ノースモールの立ち呑み屋さんへ。



 大当たりの前祝いでカンパ~イ (^o^)丿



えっ? この串かつ、ちゃんと揚がってんの???



ちょっと一杯だけと思ってたのが、調子が出てきて芋焼酎のお湯割りも追加して・・・



ほろ酔い気分で御堂筋に出ると、ここにも秋の風物詩が・・・!  (銀杏のことでっせ)



ふらふらと大江橋まで来て、酔いが醒めたのか、”こんな堕落した時間を過ごしていいんか?”と自問し、
このまま帰ろうかと思ったものの、聞き分けのない心の悪魔が ”行け!行け!”とけしかけるんで・・・

またまた、TO BE CONTINUE ・・・

太閤秀吉、不遇の御廟を訪ねて ~その2~

2016-10-15 | ぶらぶら
都合により、ずいぶん間が空いてしまいましたが・・・m(__)m

秀吉ゆかりの豊国神社を後にして、いよいよ豊国廟へと向かいます。



東山通りから智積院と妙法院門跡の間を東へと真っすぐな坂を200m程上ると、
通りを遮るように神社があり、道がクランクになっています。



旧日吉神社です。
ここもまた家康が人々に秀吉のお墓へ行けなくするために、わざわざ智積院の南から移築させたそうな。
どこまで意地汚いねん (;´Д`)ハァ



豊国廟へと続く坂の両側には京都女子大学、京都女子高校・中学と
女子校が立ち並んでいて、い~い香りがしてきます。



女好きの太閤さんにとっては絶好のロケーションですね ♪(*^.^*)エヘッ



さて、東山通りから5~600m程上って豊国廟の麓に着きました。



家康によって取り壊され廃墟荒地となっていたのを明治31年に全国の浄財により造営再建されました。
今は麓の現豊国神社の飛び地となっていて、豊国神社が管理しているそうです。

ここで登拝料100円を納めて廟内へ入ります。



正面の石段の左奥には豊臣家最後の男子、国松の墓があります。
大坂夏の陣の後、捕えられて打ち首になる際に、わずか八歳ながら
家康の豊臣家への背信行為を糾弾し、怯える様子もなく堂々と散っていったとのこと・・・
さぞかし無念だったことでしょう。



さて、果てしなく続くような真っすぐな階段を登っていきましょう。



下りに数えたんですが、三百三十三段ありました。
しかし登っていく途中、不思議とそれほど疲れを感じないんです (^_^;)?



ふと足元の石段を見ると、1段ごとに幅が違うんです。この効果なのかとても歩きやすいです。
太閤さんの事と関係ないけど・・・



三百三十三段を一気に登り切ると、
阿弥陀ヶ峯の中腹に元々御廟、豊国神社があった平らな土地が開けます。
だが、修復前は墓石も見つからないほど荒れ果てていたそうです。



そして新たな墓石のある頂上へ続く最後の石段を登ります。



そう広くはない頂上にそれはそれは立派な五輪の石塔が厳然として建っています。



栄華を誇った豊臣家も、時代の流れとともに次の盛者に飲み込まれていった・・・
盛者必衰の痕跡を目の当たりにして、今の日本を築き上げてきた兵たちの生きざまがが忍ばれました。

太閤秀吉、不遇の御廟を訪ねて ~その1~

2016-10-06 | ぶらぶら
太閤秀吉が亡くなり、秀頼の後見を託された筈の家康が豊臣家を滅ぼし、
天下を我が物にした後、秀吉を祀る豊国神社、そして御廟までもを破壊してしまいました。

どんだけやねん・・・("^ω^)・・・豊臣家再興を恐れての事なのか?? 
それにしても一度は家臣として仕えた身。やり過ぎやろ ヽ(#`Д´)ノ

ということで、そんな不遇の太閤秀吉にまつわる遺構を巡ることにしました。



まずは現在の東山にある豊国神社を訪ねました。



かつては広大な敷地を誇った方広寺の一角に位置し、奈良の大仏に優る大仏殿跡に鎮座しています。



手水舎にも、立派な五七の桐家紋が刻まれています。



そして、秀吉ゆかりの伏見城から一度は徳川の京の居城、二条城へ移築され、
再び秀吉のもとへ戻った、立派な唐門が出迎えてくれます。



正月三が日以外は唐門より中へは入れませんが、拝殿では婚礼が行われていました (^o^)丿



ありゃ、絵馬は瓢箪の形をしています d(-_^)v



参道には大仏殿の敷石がそのまま使われているそうです。



全文書き写します。興味があったら読んでください。

豊 国 神 社

 豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「 ホウコクサン 」の名で人々に親しまれている。
 慶長三年(一五九八)に六十三歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪華な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長九年(一六〇四)八月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。
 豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治十三年(一八八〇)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治三十一年(千八百九十八)には、荒廃していた廟墓も阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。
 正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は秀吉恩顧の大名が寄進したものである。



僕にしては珍しく・・・σ(^_^;) 拝観料払って宝物館へ入りました。



境内の東奥に大将14年建造の桃山建築風の白地に青銅色の屋根の建物がひっそりと建っています。
しかし、誰も入っていないようです・・・



重足を踏み入れていきなり、要文化財の鉄燈籠「 雲龍燈籠 」が立っています。
これは秀吉の三回忌に奉納されたものらしく、こうして屋内にあるとどっしりと力強く迫力さえ感じます。



秀吉直筆の書状です。
見る限り、几帳面な整った書体です。ちょっとイメージと違いますね (^▽^;)



北政所の書状です。
女性らしい、優美な書体ですね。農民出身という二人ですが、きちんとした教養を備えていたようです。



これぞ珍品! 秀吉の奥歯が桃山時代の豪華な宝塔に収められています。
秀吉子飼いの武将で賤ヶ嶽七本槍の一角、加藤嘉明に秀吉自身が贈ったものらしいですが、
大切にしてたんでしょうね d(-_^)v。。。。。

この他にも重要文化財級の秀吉ゆかりの品々がざくざくと展示されています。
にもかかわらず監視員がいるわけでもなく( 監視カメラは確認してませんが・・・)、
2・30分かけてゆっくり見てるうちに入ってきたのは歴女風のお嬢さん一人だけ。
一見の価値ありますから、豊国神社に行ったなら是非とも訪れてください。

そして同じ境内にあるといってもよい石柱の柵を北に抜けたところにある方広寺へ。



とはいえ、現在の方広寺は往時の本堂があるわけでもなく、
約30m四方の敷地にこの鐘楼が残っているだけです。あの問題の梵鐘が納められた・・・





これが大坂の陣の発端となった「 ・・・国家安康・・・君臣豊楽・・・ 」の銘文です。
立場を変えれば見方も変わるんでしょうが、家康の邪悪な魂胆にはコメントのしようもありません。



方広寺と豊国神社の間の細い路地を東に抜ければ・・・





秀吉の大仏は1596年の慶長伏見地震により倒壊するんですが、
大仏殿の跡地が「 大仏殿跡地緑地 」として整備されて残っています。



石のベンチのように見えますが、八角形であった大仏の台座の角々として置かれています。



秀吉の死後に家康が秀頼に命じて再建るんですが、これも全国各所の社寺仏閣の再建修復の
一環であり、莫大な豊臣氏の財力を削ごうという家康の見え透いた魂胆なんだから・・・。
どこまでこすいねん、家康 o(`ω´*)oフン!!



そしてこれが現在の方広寺本堂です。



現在、豊国神社の南隣に建つ「 京都国立美術館 」。 ここはかつて方広寺の境内でした。



そして七条通りを挟んで「 三十三間堂 」
なんと秀吉はここも方広寺の敷地内として取り込んでしまったんだから恐れ入ります。



こうした巨石の並ぶ石垣を見ると、かつては方広寺がどれだけ巨大で華々しかったのかが忍ばれます。



さて、豊国神社を後にして七条通りを東に突き当たると、弘法大師ゆかりの「 智積院 」



その北隣に今度は最澄開祖の天台三門跡の一つ「 妙法院門跡 」



智積院と妙法院門跡の間を東へと延びる「 豊国廟参道 」を行き、
いよいよ太閤秀吉のお墓へと向かいますが、続きはまた今度ということで。
・・・ TO BE CONTINUE ・・・