釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

情報技術

2015-02-17 19:13:09 | 科学
今朝は1度でここのところあまり寒さは厳しくない。最高気温はしかし5度までしか上がらなかった。風がさほど冷たくないので助かる。今日は朝と午後のそれぞれに地震があった。朝は岩手県の宮古沖が震源であった。津波警報が出たが、被害はほとんどなかったようだ。しかし、久方ぶりにこうして同じ日に二度も地震があると、いやな記憶が蘇ってくる。何かの前触れでなければいいが。 いかなるる分野でも現代は情報が重要な決め手になる。1990年代から急速に普及したインターネットは今やその情報の宝庫となっている。その情報量が増えるに従って、多量の情報を高速に伝達する技術も急速に開発が進められている。情報技術 Information technology、 いわゆるITはIT革命として18世紀の産業革命と比肩されるまでになった。産業革命は機械による大量生産をもたらしが、IT革命は大量の情報の伝達をもたらした。そして産業革命は核となる中枢での管理を強化させたのに対して、IT革命はその分散をもたらした。情報の伝達の進歩はいかに大量の情報を速く伝えるかにかかっている。その伝達の仕方には、有線と無線の二通りがある。かなり広範囲に普及している光ファイバーは言ってみれば有線だ。家庭まで引き込まれた光ファイバー網に無線用の端末を接続させると、その端末からはパソコンやスマートフォンへ電波によって情報が伝達される。現在はWi-Fi,Wireless Fidelity(ワイファイ)と呼ばれる無線ネットワークが普及している。家電製品やカメラにもそれが装備されるようになり、家庭内でも情報のコントロールが無線で簡単に行えるようになって来ている。現在日本のNECは有線分野での高速伝達を進展させており、今一般的に使われいる光ファイバー通信の1000倍のスピードで情報を伝達するシステムを構築した。すでにコロンビアを中心とした中南米9ケ国での光通信網にその技術を提供している。この技術によれば片面1層のDVD(4.7GB)に収録されたデータ2枚半分をわずか1秒で転送することが出来る。家庭でも3D(立体)映像やハイビジョン動画など多量のデータ量のあるものを簡単に楽しむことが可能となる。また無線通信の分野でも英国のエディンバラ大学、セント・アンドルーズ大学、ストラスクライド大学、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学などの共同研究で電波の通信規格とは異なるLED電球を用いた超高速無線通信Li-fi、Light fidelityが開発されている。赤R・緑G・青Bの光の三原色の「Micro LED」というミクロ単位のLED電球を使って白色の光を作り出し、現在の光ファイバーの35倍のスピードの無線通信を実現している。現在多く普及して来たWi-Fiによる無線伝達の実際のスピードは光ファイバーの7割程度のスピードだ。LED電球を使った白色光を利用するため、壁で仕切られた部屋や建物から外へは伝達出来ない。それらを光は透過出来ないからだ。これは現在のWi-Fiがいわゆる無線であるために建物の外にまで電波を出しているのとは異なり、セキュリティ上も有利になる。電波が建物の外にまで出ていれば、情報が建物外から盗まれたり、その無線ネットワークを勝手に利用されたりする危険性がある。こうした情報伝達手段の進展は生活のあり方をこれからも大きく変えて行くことになる。多量に溢れる情報の取捨選択が個人の責任であるように、こうした技術を生活に取り入れるかどうかもやはり個人の大きな責任となって行くだろう。
福寿草

ツグミと人麻呂

2015-02-16 19:18:19 | 文化
今日は春のような陽気になった。朝でも気温は5度もあり、日中は10度まで上がった。風もあるが冷たい風ではない。青空が広がる釜石ブルーの空で、コートがなくとも寒さを感じない日中の陽気だ。昼休みに甲子川へ行ってみたが、今日も白鳥の姿はない。川にはオオバンやヒドリガモ、キンクロハジロ、マガモ、ホシハジロなどが見えた。川の河川敷には今日もツグミがいた。ツグミは秋にシベリア中部や南部から日本全国に渡って来る。渡って来る時には群れを作ってやって来るが、日本へたどり着くと、そこで個体ごとに分かれてしまう。冬が去る頃には再び群れを作って、シベリアに帰って行く。万葉集にはツグミの仲間のトラツグミが鵺鳥(ぬえどり)として詠まれている。 柿本人麻呂の歌に「よしゑやし、直ならずとも、ぬえ鳥の、うら嘆げ居りと、告げむ子もがも」(じかに逢えなくてもぬえ鳥のように嘆いていると告げてくれる使いの子でもいてほしい)がある。万葉の7世紀にもツグミたちはやはりシベリアから日本へ渡って来ていたのだろう。人麻呂は万葉集を代表する歌人であるにもかかわらず、古事記、日本書紀では詳述されていない。それもそのはずで、人麻呂は近畿の王朝の宮廷人ではなく、九州の王朝の歌人であった。古田武彦氏の『人麿の運命』で詳しく論じられている。万葉集二百三十五番歌「皇は 神にし座せば 天雲の 雷の上に 廬せるかも (すめろぎは かみにしませば あまぐもの いかずちの うえに いほり せるかも)」の「雷の上」は奈良県飛鳥のわずか十数メートルの雷丘(いかづちのおか)とされている。しかし、古田氏は実際に自分で足を運んで、それほど低い雷丘に雨雲がかかるわけがないとして、やはり自ら歩いて、人麻呂の詠った「雷の上」は福岡県背振(せぶり)山脈の標高955mの雷山(らいさん)であるとされた。上社、中社、下社を持つ雷(いかずち)神社があり、上社は「天の宮(あまのみや)」と言われる。雷山にはいつも雲が立ち込めていると言う。古田氏はこの歌を「白村江の戦いで負けて、家族は夫や子供を失い、民の生活はさんさんたるものになった。民の廬(いほり)は、荒れ果ててしまった。しかし九州王朝代々の方々は、死んで神様になっておられるので社(やしろ)を廬(いほり)として、平穏にお過ごしになられている。」と言う意味で解釈されておられる。一般に解釈されているよりはるかに深い内容を人麻呂は詠っていたのだ。単なる皇への礼賛の歌などではなく、むしろ疲弊した民の姿を見た人麻呂の批判が皇に向けられている。
河川敷のツグミ

万作の蕾が開いて来た

2015-02-15 19:11:54 | 自然
朝は-1度で庭の水たまりも凍っていた。日射しが時々出ていた午前中から、夕方近くには青空が広がり、日射しだけを見ているともう春を感じさせてくれた。しかし、最高気温は5度で、まだ寒い。庭で犬と遊んでいると、ふと目の片隅に黄色い小さな色が入って来た。よく見ると、万作の蕾が開き始めて来ていた。まだ気温も低く、冬は真っ只中だが、こうして花たちはもう春が近いことを知っているようだ。その春が近いことを花が教えてくれると嬉しくなる。蝋梅も今日も蕾の大きさが変わらない。しかし、ショウジョウバカマの新しい葉も出始めて来た。東北の春を植物たちが地中でじっと到来を耐えて待っている。西を見ると愛染山の周囲は雲がかかっている。遠野は今日も雪だろう。
開いて来た万作の蕾


間近に見たキジ

2015-02-14 19:14:43 | 自然
今朝は-1度でやはり庭に土が凍っていた。先日北上の大堤で見たミコアイサを別のレンズで撮ろうと思って、今日も北上へ出かけた。遠野へ入ると遠野は-5度になっていた。地吹雪もまた吹いていた。しかし、北上に入ると、路面は雪が溶けて濡れていた。同じ内陸でも遠野とは随分違う。北上でもやがて雪がたくさん降って来た。いやな感じであったが、来てしまったので仕方がない。大堤には人は誰も来ておらず、雪がたくさん降る中で、遠くに白鳥の姿が何羽か見えた。しかし、前回少し残っていた氷がすっかり溶けてしまっており、その上で休んでいたカモ類の姿も見えない。4羽の白鳥と前回よりもずっと少なくなったカモ類がいるだけで、目当てのミコアイサは見当たらない。がっかりである。わずか1週間でまるで様子が変わってしまった。車からおりて、少しだけ水鳥たちを見ていると、餌をもらえるものと勘違いして、白鳥たちが集まって来た。通りかかった車が1台、道路から白鳥を眺めていた。雪も降るので早々に引き返そうと、車を止めていた向かいの工場の敷地に引き返すと、キジの鳴き声が近くから聴こえて来た。どこだろうと見回すと、30mほどの雪の中で何かをせっせとついばんでいた。これはいいチャンスだと思い、車に乗り込み、窓を開けて、そこからカメラを構えたまま少しずつ車を前に移動させて、近ずいて行った。驚いたことにキジのほぼ真正面に止めても少しの間警戒しただけで、そのまま居続けてくれた。わずか距離は5mしかない。これまでにキジを何度か見かけたが、いずれも100m以上離れていた。これほど近くで見る野生のキジは初めてだ。ミコアイサには出会えなかったが、こんなところでとてもいいチャンスに出会えた。
氷が溶けてしまった大堤

これほど近くでキジを見るのは初めてだ

歴史が現代を語る

2015-02-13 19:15:52 | 歴史
韓国の時代映画を見ていると、豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵の時代を描いたものがいくつかある。映画では朝鮮側に二分する政争があり、日本の武力を軽視していたことが朝鮮王朝が首都を逃れなければならないほどに日本軍に敗退した要因として描かれている。古来、日本と朝鮮半島の間には争いが絶えなかった。『古事記』・『日本書紀』は神功皇后の3世紀の新羅出兵を記しているが、神功皇后の事跡とされるものは邪馬壹国の卑弥呼やその宗女の壹與の事跡である。中国史書『三国志』魏志倭人伝はそのことを伝えている。また高句麗の好太王碑は4世紀末から5世紀初にかけての朝鮮半島での日本との戦いが記されている。『日本書紀』は4世紀後半から6世紀後半まで「任那日本府」が朝鮮半島南端にあっとする。しかし、中国や朝鮮の史書ではそれは確認されていない。いずれにしろ、日本がこの時期も朝鮮半島に一定の支配力を持ってはいたようだ。663年には白村江の戦いで唐・新羅連合軍と倭国・百済遺民の連合軍が衝突し、倭国は惨敗する。この時まで、朝鮮半島に武力を持って支配力を確保しようとして来たのは九州に王朝を築いていた倭国である。敗れた九州王朝は王の薩夜麻が唐の捕虜となり、8年間抑留されたため、急速に衰退し、これにとって変わったのが701年からの近畿の王朝の日本国である。それ以前に朝鮮半島に関わった日本の勢力はすべて北部九州中心の勢力であった。白村江の戦いは日本では決定的な王朝の交代をもたらした。9世紀から11世紀にかけては逆に朝鮮半島から日本の北部九州への侵攻が繰り返される。1274年と1281年には蒙古、中国南宋、朝鮮の高麗によるいわゆる元寇による被害を日本が受けている。南北朝時代の14世紀から秀吉が登場する16世紀までは朝鮮半島に対して海賊行為を繰り返した倭寇が登場する。秀吉は海賊行為を禁じるとともに、自らは朝鮮半島を足がかりに、中国の明を征服し、さらには欧州にまで手を伸ばそうと構想していた。この背景には当時のスペイン帝国の脅威があった。宣教師を送り込んだ後に、その地を次々に植民地化して行ったスペインが東アジアを狙っていた。秀吉はスペインが本格的に乗り出して来る前に、朝鮮半島や中国を抑えておこうと考えた。しかし、秀吉のこの野望も自らの死で頓挫する。秀吉亡き後、徳川家康の時代となり、鎖国により対外的な戦いはなくなる。しかし、幕末の吉田松陰は征韓論者であり、松陰の門下にあった明治の元勲たちは朝鮮半島への野望を露骨に示した。1910年(明治43年)大韓帝国は日本に併合される。以来、日本には朝鮮半島への蔑視が根付いていくことになる。太平洋戦争では半島の人々は日本人名に変えさせられ、日本語教育が強制された。こうした歴史が日韓の間には長く横たわっている。日本は今、軍備を拡大し、憲法を改正してまで「戦争のできる国」になろうとしている。真っ先に日本のそんな姿に警戒心を強めるのは韓国や北朝鮮だろう。
ホオジロガモ

ガン(雁)

2015-02-12 19:20:04 | 自然
今朝はさほど寒くはなかったが、空には雲も流れていた。職場の裏山で今日はリスが木々を渡り歩いているのを見つけた。もう冬眠から覚めているのだ。とても嬉しくなった。春はもう間近なのだろう。 釜石ではカモ類や白鳥は見ることがあるが、ガンを見ることはほとんどない。一昨年、偶然1羽のマガンが甲子川の堤にいるのを見つけたのが唯一だ。先日遠野へ行った際にも、やはり偶然一羽だけマガンが混じっていた。ガンは古代から日本へやって来ていた。万葉集には66首詠まれている。ガン雁は万葉の時代には「かり」と読まれた。その鳴く声を「かり(雁)がね(音)」と詠んだ。それが次第に「かり」そのものを指すようにもなって行く。万葉集第十五巻に遣新羅使の作として「天飛ぶや雁を使に得てしかも」と歌がある。天平8年、736年に現在の福岡県糸島郡志摩町に停泊している時に新羅へ向かう使いが詠んだ歌とされる。一般には「空を飛ぶ雁を使いに得たいものだ。奈良の都に言伝をしてもらおう。」くらいの意味にとられている。この作者が新羅からやって来て、北部九州で詠んだとすれば、この時代にはガンは九州にまで飛来していたことになる。しかし、現在のガンの飛来の南限は日本海側では新潟県北部までであり、太平洋側では岩手県までである。白鳥は現在も島根県まで南下している。日本気象学会によると、奈良時代後半から平安時代前半にかけては気候は比較的温暖であった。現在よりも気温は低かった。ガンも恐らくは現在よりもさらに日本の南までやって来ていたのかも知れない。少し不思議なのは万葉集には白鳥を詠んだ歌が2首しかないことだ。しかも「白鳥」は「しらとり」であり、ツルやサギも含まれていた可能性があると言う。万葉時代には白鳥はどこまで飛来して来ていたのだろう。ガンは小学生でも名前を知るだろうが、自然の中で見るガンは、今の日本ではほんとうに限られた地域でしか見られない。ガンが家で飼われるようになったものはガチョウと呼ばれている。
遠野で出会った真雁

体力のいる写真撮影

2015-02-11 19:27:52 | 文化
今朝はー1度であった。曇天で風も少し出ていた。風は昼過ぎには止んで、夕方近くからは小雨が降って来た。釜石で雨が降る時には内陸は雪だ。庭の椿や蝋梅もまだ蕾のままで膨らんでは来ていない。立春は過ぎたがまだまだ東北の春は遠い。しかし、日増しに少しづつ日が延びて来ている。それだけでもありがたい。夕方が真っ暗だと気持ちも何かしっくり来ない。天気が良ければ出かけて写真でも撮ろうかと思っていたが、曇天なのでやめて家でゆっくり過ごすことにした。しかし、先日オークションで落札した、今はソニーに吸収されたミノルタの古いレンズを試したくて、庭の木を少しだけ撮ってみた。400mmと言う望遠レンズだが現代のそのくらいの望遠レンズとは異なりとても小さく軽い。持ち歩くにはとても便利そうなので、落札してみた。ただ写りが気になっていたが、ネットで見る限りは悪くはなさそうだ。何より最近は小さく軽いレンズやカメラに惹かれる。年のせいかもしれない。それなりに体力をつけるようには気をつけているが。何しろ、現代の望遠レンズを抱えて、写真を撮っていると、手にはかなりの重さがかかり、次第に支えきれなくなることもある。写真を撮るには体力が必要だ。先日の北上の大堤での水鳥の撮影も、かなり苦労をした。手に力が入らなければ、レンズを支えられなくなって、振れてしまう。せっかくのチャンスを逃すこともある。気付かずにかなりの距離を歩いていることもある。いい写真を撮るにはそれなりに身体も鍛えなければならない。
左が現在のレンズで右が古いミノルタのレンズ

ミノルタレンズの写り

映画

2015-02-10 19:22:38 | 文化
今朝は-5度で今冬一番の寒さになった。庭で水をこぼすと瞬く間に凍ってしまった。当然水落としをした庭の水道もお湯をかけなければ出ない。犬の水入れはこの冬一番の氷の厚さになった。内陸は雪のようだが、釜石は午前中は晴れていて、昼頃から空を薄い雲が多い、小雪も一時舞ったが、また青空が戻って来た。しかし、日中も気温は1度にしかならず、コートを着ていても寒い。今日も川には白鳥の姿を見ることが出来なかった。昼休みに職場近くの空き家の前を通ると黄色い花が目に入った。福寿草が今年も咲いて来ていた。我が家の庭では蝋梅の黄色い蕾が見えたまま、まだ膨らんで来ない。これだけ寒いとさすがに開くのは遅くなってしまうだろう。 子供の頃から映画が好きで、これまでもたくさんんの映画を見て来た。以前は映画館へも出かけてスクリーンで見ていたが、釜石には映画館がない。宮古市や北上市まで出かけるしかない。しかも最近の映画館はずっと以前に比べてスクリーンもかなり小さい。映画を見たい時には仕方がないので、少し遅れるがレンタルのDVDで見ることになる。以前はそうしたDVDをパソコンに入れて、そのパソコンを家庭としては大きなスクリーンに画像を投影出来るプロジェクターに接続して、映画を見ようとした。実際にスクリーンやプロジェクターも購入したが、考えると、音響もそれなりに臨場感のあるものにしたくなる。いわゆるホームシアターだ。そうなると今度はそれなりの部屋が欲しくなってしまった。そこで行き詰まって、結局は中途半端にやめてしまった。現在は単純にプレーヤーとテレビモニターで見て過ごしている。洋画も見るが、前にも記したように韓国や中国の時代ものを見ることが多く、特に最近の中国の映画はハリウッドの技術がふんだんに取り入れられ、とてもレベルの高い映画になった。世界の映画市場でも米国に次いで2012年には日本を追い越してしまった。中国の映画作品が国際的な賞を獲得している。ハリウッド映画にも中国の資金が投入されるようにもなっている。こうした中国の映画の急速な進展はやはり香港の存在が大きい。中国映画は香港が発信地と言っても過言ではないだろう。日本の映画は久しく斜陽産業と化しており、資金や俳優に枯渇が見られる。かっては国際的な評価を受けた監督や俳優がいたが、今の日本の風土はそうした人たちを生み出せる風土ではなくなってしまった。あまりにも短期の結果だけが求められるようになったため、優秀な監督や俳優を育てる余裕をなくしてしまった。これは今の日本の芸能一般にも言えるのではないだろうか。次々に現れては消えて行く。芸能に関係する企業がまさに使い捨てによってコスト削減を図っているように思う。現代はコンピューターによる映画作りは不可欠で、その面でも日本は遅れをとっている。ハリウッド映画はコンピューター技術を縦横に駆使しており、コンピューター・グラフィック、いわゆるCGがふんだんに取り入れられている。現実にはあり得ないことがスクリーンではいとも簡単に実現されている。そこに未来の予想も加わって、楽しみを与えてくれる。中国はいち早くそのCGをハリウッドから取り入れ、ハリウッドに比肩し得る映画を作り上げている。こうした技術面だけではなく作品として深みのあるものにも一方で中国はとても熱心に取り組んでいる。それだけ監督の層も厚くなって来ているのだろう。2013年には21世紀フォックス傘下の英国のTV放送局ブリティッシュ・スカイ・ブロードキャスティング(British Sky Broadcasting)は2020年までに中国映画市場がハリウッドを抜いて世界最大になると予測している。中国にはすでにユニバーサルやパラマウントを合わせた以上の世界最大規模の映画村、横店がある。
今年も寒さの中で咲いて来てくれた福寿草

アラハバキ神

2015-02-09 19:15:18 | 歴史
今朝は-2度で水たまりは厚い氷が張っていた。風も昨夜から強く、今日の日中は-2度のまま経過し寒い一日となった。今日も川には白鳥の姿がなく、小さな水鳥たちがいただけだ。昼休みに寒い中を例年蝋梅が咲く家にまで行ってみたが、剪定されていて、花や蕾も見られなかった。今日はがっかりさせられる昼休みであった。時々小雪が舞い、釜石も今冬一番の寒さとなった。内陸はもっと気温が下がっていただろう。 和田家資料2「丑寅日本記 第三」に「荒羅覇吐之由来」がある。長保庚戌年八月十六日 日本(ひのもと)将軍 安部頻良(ただよし) の記録となっている。長保庚戌年はなく、安部頻良の時代とすれば長保庚子年の間違いだろうと思われる。西暦で言えばちょうど1000年になる。安部頻良は奥州安部氏最後の頭領である安部貞任の祖父になる。「古代紅毛人国のシュメールと曰ふ国あり。ルガル神を一統信仰せる君民は、ギルガメシュ王の叙事詩になれる神にてアラハバキ神あり。主趣はアラとは獅子神、ハバキは龍神にて地母神とも崇まれ。神の子に誕生せしはアラハバキ神と曰ふ。 此の神の流布せるはトルコ国トロヤ、エジプト国カイロ、ギリシア国オリユンポス、エスラエル国エルサレムなり。此等の国に興りしギリシアのカオス、エジプトのラアー、アメン、エスラエルのアブラハムらの神々にぞ、何れの基たる神の神格は、シュメール王ギルガメシュの叙事詩になる土版語印に遺れしアラハバキ神の神格より神格分岐せしものなり。・・・・・・・・是の神布の域は天竺にも及びアラハバキ神とてヤクシヤア神、ヤクシー女神、シブア神の神格となれり。更には支那に西母即ち、西王母、女媧、伏羲とて伝はり、蒙古にてはブルハン神とて伝はりぬ。 吾が丑寅日本国に伝はるは是の如き諸々の分岐各々渡り来たりきも、吾が国のエカシらは、大元なるアラ神、ハバキ神たる太古シュメールになる神号を神格とせり。依て、茲に銘言す。世界の諸民族に渡れる神の起源になれるは、古代ギルガメシュの叙事詩より起りぬ。世々国々になれる信仰の源には、メソポタミアに起りきものなり。是れ即ち、アラハバキ神の事如件。」アラハバキ神とはシュメールのアラ神とハバキ神を言い、世界の主要な神の元となった神だと述べている。シュメールは紀元前3500年頃に中東メソポタミアに突如として現れた世界最古の文明とされて来た文明だ。東北にはシュメール語も残されていることが後の「古言抄 一」に少し書かれている。津軽に江戸時代の時点で残された「マデにせよ」と言う言葉は「マデ」がシュメール語で「葦を刈りて、木を用いず葦のみにて造る住居の事なり。」とあり、「シュメールにては家をマデフと称し、マデとは大切なる意趣なり。」とある。即ち、「マデにせよとは大事にせよ、または全部と曰ふ意趣なり。」と書かれている。太古のシュメールの神がかって東北に伝わったなどと言うのはとんでもない話に思えるだろうが、これはかなり史実性が高いと考えている。ドイツ人医師で江戸時代の1690年に長崎出島でオランダ商館付の医師となったエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)が最初に日本とシュメールの結びつきを指摘し、大正時代には現在もバビロン研究の第一人者とされる弁護士原田敬吾が日本人はシュメールに起源するとする説を唱えている。日本各地にバビロニア語の地名があり、1986年には下関市の彦島の彦島杉田遺跡にある磐座に刻まれた文字がシュメール文字であったことが明らかにされている。日本国内よりもむしろ米国で注目されたようだ。日本の正史とはあまりにもかけ離れているために、既存の学会ではほとんど無視されている。しかし、地方に残された言語や文化、古文書は正史以上に史実の足跡を残しているのだ。
一昨日、遠野郷から見えた早池峰山

ミコアイサ

2015-02-08 21:00:07 | 自然
昨日は晴れて気温も低くはなく、あまり寒くはなかったので、また北上の大堤へ白鳥たちを見に行った。しかし、残念にも行った時には白鳥は1羽もいなかった。他の小さな水鳥たちはたくさんいたのだが。仕方がないので、明るくなった日射しを受けながら、ゆっくり大堤の周りを歩いた。前回来た時にはかなりの範囲に氷が張っていたが、昨日は溶けていて、一部に残っているだけであった。その氷上にやはりたくさんのカモたちが休んでいた。それにレンズを向けて見ているうちに、白っぽい鳥に気付いた。ほぼ全身が白い水鳥は珍しい。ひょっとしてと思いながら、何度かシャッターを切った。カメラのファインダーでは小さ過ぎて、鳥の種類がはっきりしない。しかし、全体に白く見えるのは間違いがないので、おそらく間違いなくあの鳥だと確信していた。愛知県の佐鳴湖で一度だけ見かけた鳥だ。さらにレンズを通して見ていると真っ白に見える個体が3羽確認できた。その雌らしき鳥もやはり3羽確認した。白鳥には出会えなかったが、貴重な鳥に出会えて、嬉しくなった。一通り撮り終わって、堤を引き返していると、3羽の白鳥が戻って来た。親子のようだ。ちょうど餌のパンをやりに来た人たちがいたので、白鳥や他のカモたちもそこへ集まって来た。ここのカモたちは何度も人から餌をもらってるので、人への警戒心があまりなく、パンを投げる人の足元まで接近している。白鳥ももっとたくさんいるはずだが、恐らく田畑の雪の下の餌を探しに出かけているのだろう。夕方には戻ってくるといいが。家に戻って、現像してみると、やはりあの白い鳥は思った通り、ミコアイサであった。野鳥ファンの間ではパンダの顔で知られている鳥だ。ほんとうに何年ぶりかで、この鳥にまた出会えた。そのうちにもう一度行ってみたい。ミコアイサが立ち去らないうちに。
珍しいパンダ顔のミコアイサ

氷がかなり溶けてしまった

餌をもらう白鳥親子

子白鳥