釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

歴史が現代を語る

2015-02-13 19:15:52 | 歴史
韓国の時代映画を見ていると、豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵の時代を描いたものがいくつかある。映画では朝鮮側に二分する政争があり、日本の武力を軽視していたことが朝鮮王朝が首都を逃れなければならないほどに日本軍に敗退した要因として描かれている。古来、日本と朝鮮半島の間には争いが絶えなかった。『古事記』・『日本書紀』は神功皇后の3世紀の新羅出兵を記しているが、神功皇后の事跡とされるものは邪馬壹国の卑弥呼やその宗女の壹與の事跡である。中国史書『三国志』魏志倭人伝はそのことを伝えている。また高句麗の好太王碑は4世紀末から5世紀初にかけての朝鮮半島での日本との戦いが記されている。『日本書紀』は4世紀後半から6世紀後半まで「任那日本府」が朝鮮半島南端にあっとする。しかし、中国や朝鮮の史書ではそれは確認されていない。いずれにしろ、日本がこの時期も朝鮮半島に一定の支配力を持ってはいたようだ。663年には白村江の戦いで唐・新羅連合軍と倭国・百済遺民の連合軍が衝突し、倭国は惨敗する。この時まで、朝鮮半島に武力を持って支配力を確保しようとして来たのは九州に王朝を築いていた倭国である。敗れた九州王朝は王の薩夜麻が唐の捕虜となり、8年間抑留されたため、急速に衰退し、これにとって変わったのが701年からの近畿の王朝の日本国である。それ以前に朝鮮半島に関わった日本の勢力はすべて北部九州中心の勢力であった。白村江の戦いは日本では決定的な王朝の交代をもたらした。9世紀から11世紀にかけては逆に朝鮮半島から日本の北部九州への侵攻が繰り返される。1274年と1281年には蒙古、中国南宋、朝鮮の高麗によるいわゆる元寇による被害を日本が受けている。南北朝時代の14世紀から秀吉が登場する16世紀までは朝鮮半島に対して海賊行為を繰り返した倭寇が登場する。秀吉は海賊行為を禁じるとともに、自らは朝鮮半島を足がかりに、中国の明を征服し、さらには欧州にまで手を伸ばそうと構想していた。この背景には当時のスペイン帝国の脅威があった。宣教師を送り込んだ後に、その地を次々に植民地化して行ったスペインが東アジアを狙っていた。秀吉はスペインが本格的に乗り出して来る前に、朝鮮半島や中国を抑えておこうと考えた。しかし、秀吉のこの野望も自らの死で頓挫する。秀吉亡き後、徳川家康の時代となり、鎖国により対外的な戦いはなくなる。しかし、幕末の吉田松陰は征韓論者であり、松陰の門下にあった明治の元勲たちは朝鮮半島への野望を露骨に示した。1910年(明治43年)大韓帝国は日本に併合される。以来、日本には朝鮮半島への蔑視が根付いていくことになる。太平洋戦争では半島の人々は日本人名に変えさせられ、日本語教育が強制された。こうした歴史が日韓の間には長く横たわっている。日本は今、軍備を拡大し、憲法を改正してまで「戦争のできる国」になろうとしている。真っ先に日本のそんな姿に警戒心を強めるのは韓国や北朝鮮だろう。
ホオジロガモ

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