釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

秋田美人

2019-04-02 19:11:10 | 歴史
日本の三大美人は、京美人、博多美人と秋田美人と言われている。東北へ来て、実際に言われるような秋田美人に出会ったことはないが、この釜石にも地元の方の話では、いわゆる目の覚めるような美人がいると言うことだ。和田家文書である『北鑑 第七巻』の「秋田北譜」を見ると、「古きより秋田の地に山靼の国人、能く移民し来たりぬ。秋田の国に連峯せる山また山のかしこには、金銀銅の鑛ありて、是を採鑛せしむ溶鋳の法を傳へたるは、通稱オリエントなる古代シュメールの技法なり。」とある。「山靼」は西アジアから中央アジアにかけてを指す。西方の国の人々が秋田の地へやって来て、移り住んでいる。2003年の東京大学医科学研究所の論文によれば、秋田県や青森県西部ではヨーロッパ人の系統に近いJCウイルスのタイプが見られると言う。科学的にも秋田には西方人の血が入っていることが分かっている。しかし、「秋田北譜」に書かれているようなことは、日本最古の史書である古事記・日本書紀には全く記述がない。日本書紀では、阿部比羅夫が斉明天皇4年(658年)から3年をかけて日本海側を北上して蝦夷を服属させたとある。しかし、「秋田北譜」では、「古きより鑛産と相互たるは、産馬及び漁撈の營みなり。更には海獸毛皮の商益にては、北域の民と相通ぜる物交にて交易の品を欠くことなかりき。秋田にては土崎湊、北浦湊、怒代湊を以て山靼交易とせる多し。然るにや、是を掌握せんとて阿部比羅夫、海湊を侵せども、その了に達せず敗れたり。」とある。内容は全く異なっている。そもそも日本書紀のこの斉明天皇や阿部比羅夫は大和朝廷の人物として書かれている。亡くなられた古田武彦氏は、斉明天皇は九州王朝の天子であると考えていた。私の郷里である愛媛県には、紫宸殿、天皇などの地名が残り、斉明天皇の伝承もある。北部九州を拠点とする九州王朝は、朝鮮半島に於ける新羅・唐の軍事的脅威に備え、瀬戸内海に面した愛媛の地に天皇が避難先を構えていたのだ。斉明天皇も阿部比羅夫も九州王朝の人物であり、古田氏が言われたように、日本書紀は九州王朝の事績を盗用した。その九州王朝すら、阿部比羅夫の事績を偽っていたと考えられる。東北は「山靼」との交易が盛んであった。従って、操船技術にも長けていたはずだ。しかも、「山靼」由来の製鉄技術により、優れた刀剣を豊富に持ち、産馬により馬術にも長けていた。最も古い刀剣である蕨手刀は圧倒的に東北の遺跡から発掘されている。残念ながら、こうした東北の遺跡の年代測定が、同時に発掘された土器による土器編年や、大和文化が先進であり、その文化が遅れて東北に伝播したと言う固定観念により、東北の考古学が歪められてしまっている。稲作の伝播も同じであるが、遺跡はそうした観念を打ち砕いている。科学的な年代測定が行われれば、古事記や日本書紀の記述が誤りであることが明らかになるだろう。そして、古代の東北がいかに大陸との交易を早くから行っていたことも分かって来るだろう。秋田美人だけでなく、秋田県男鹿半島のナマハゲに見られる鬼の伝承も、本来は製鉄炉で赤銅色に染まった山靼人に由来するものだと言うことも明らかになるかも知れない。京の都は、東北の方向を鬼の門、鬼門とした。東北には鬼がいる。その鬼は製鉄と密接であった。
枯れた葉の間から早池峰薄雪草の芽が見えて来た

最新の画像もっと見る

コメントを投稿