釜石の日々

東北の豊かな人の営み

今年の寒さは釜石の地元の人たちにとっても近年にない寒さだそうだ。東北の歴史を考えている時ふと昔の気温のことを思うと今の暖房の有り難さが身にしみて来る。縄文時代の東北は現在より暖かかったようだが、その後徐々に気温が下がって現在の寒さになって行く。以前北上市のみちのく民俗村で復元された縄文時代や弥生時代の住居、いわゆる竪穴式住居を見たが、確か、そうした竪穴式住居に庶民は室町時代まで住んでいたように思う。多少は形式が異なっているが要は竪穴式だった。近代に建てられた南部曲り屋ですら広い土間を見ただけで冬の寒さが想像できる。まして縦穴式の住居などは大雪が降れば雪の重さだけで潰れそうだ。古代の東北の人々はそうした自然の寒さをも自然の摂理として受け入れ、その中でむしろ争いを避け、大陸との交易に積極的に取り組み、交易の中で「丑寅日本国」の人々を知った大陸の人々が帰化して来る例も多かったと言う。青い目で赤毛の男女も帰化して来たと言う。今でも東北に伝わる美人の伝承はそうした帰化人の血を受けた人たちなのだろう。平安前期の三十六歌仙の一人で絶世の美女とされる小野小町も出生に諸説があり謎が多いが東北の生まれであるという説が有力だ。なかでも秋田県湯沢市小野が有力らしいが、秋田となれば通説の「秋田美人」の一人と言うことになる。そしてネットで見ても秋田美人の淵源にはやはり「紅毛人」の血脈が絡んでいるようだ。東北と大陸との交易は盛んで大陸にも良く知られていたため1274年のモンゴル、元の襲来である文永の役の際にも東北ではむしろ蒙古軍の物資を飢饉で苦しんでいた東北に援助してくれたと言う。しかもそれにはちょうど中国にいた『東方見聞録』の著者マルコ・ポーロの口添えもあったと言う。マルコ・ポーロが黄金の国ジパングと表現したのはまさにこの東北を指していた。大陸、山靼に赴く丑寅日本国の商人を山靼では「ヂパン、チパン、ツカロ、ツカリ、ツパング」など様々に呼称していたと言う。一方、丑寅日本国に住む人々は自分たちの住むところを「日高見、日の国、日之本」の三通りで呼んだと言う。寒いが自然も人の営みもすばらしく豊かな東北があった。(文中「・・・と言う」の表現は主に『北斗抄』より参照)
磯崎稲荷 かっては此の近くまで海が迫っていて此処が「磯崎」だった(By Carl Zeiss Jena Tessar 50mm f2.8)
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