釜石の日々

新元号を前にして

来週水曜、5月1日から新元号、「令和」となる。現在の世界で元号を使うのは日本だけである。元号は中国で始まった。時の支配者の正統性を示すものとして設けられた。紀元前2世紀の前漢の武帝の時代の「建元」が始まりとされる。以後、中国では満州国の「康徳」を最後に1945年に元号が廃止された。日本の元号は古事記や日本書紀の記述から、645年の「大化」が元号の始まりとされている。女帝、皇極天皇の時代だ。記紀では後の斉明天皇と同一人物とされる。「大化」の後、「白雉」が続くが、その後は654年〜686年まで元号がなく、686年に「朱鳥」がわずか2ヶ月だけ使われ、再び、686年〜701年まで元号がない。701年には「大宝」となる。以後は1300年代まで安定して元号が使われている。しかし、平安時代後期に作成されたものを元に、鎌倉時代後期に作成されたと言われる『二中歴』では、すでに517年〜521年の「継体」から元号が続き、695年〜700年までの「大化」まで途切れることなく、元号が記されている。日本史ではこの『二中歴』に記された元号は「私年号」として、日本の統治者の元号ではないとしている。古田武彦氏は、まさにこれらの年号は、700年まで続いた九州王朝の年号だとされる。主に北方から日本に入って来た縄文人に対して、南方の九州北部にやって来た弥生人たちは、九州に定着し、後の「邪馬壹国」通称邪馬台国に発展し、さらに九州王朝へと続いたのだ。中国の史書に記された「邪馬壹國」や「邪馬臺國」、「卑弥呼」は古事記にも日本書紀にも書かれてはいない。大陸に近い九州北部には文字や仏教も早くから伝わったはずであり、万葉集の原本となるものも含めた書物も多く記され、本来は残されていたはずだ。しかし、701年以後に成立した近畿王朝は、それらの書物を日本書紀や続日本紀に記されるように「禁書」として抹殺されてしまった。このため、日本の貴重な歴史が闇に葬られてしまった。科学的な年代測定に基づき、九州の遺跡を綿密に調査すれば、明らかになることだ。また、古田氏も主張されていた天皇陵の発掘が行われれば、さらに日本の歴史は覆されるだろう。宮内庁は頑なに天皇陵の発掘を拒否し続けている。単に修復のための発掘しか認めない。明治維新で、天皇統治の日本を作り上げ、その前提が現在までも基盤となっている。明治に決定された天皇陵の指定がそのまま踏襲されている。科学的な調査は一切されていない。明治に唱えられた「万世一系」が暗黙に現在までやはり踏襲されている。しかし、記紀の記述を見ても、「万世一系」などとは言えないだろう。作られた歴史が明治以来現在も維持されているのが日本の歴史である。日本人はどこからやって来て、どのような文化を築き上げて来たのか、歴史的事実の探求が妨げられている。日本の考古学もとても閉鎖的で、学会の重鎮達が主導し、異見は無視される。古代史はいまだに土器編年が使われてもいる。経験が重視され、科学的手法が排除され、あくまでも古事記・日本書紀の記述が前提とされる。古事記・日本書紀が勝者の歴史書である、と言う発想はない。日本人として生まれた以上、命あるうちに日本の古代の真実を知りたいのだが。
木瓜(ぼけ)の花
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