釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

自然の脅威はまだ過ぎ去ってはいないのだが・・・

2011-04-30 12:49:54 | 文化
庭に植えたマムシ草や浦島草が数を増やして細い筍のように伸びて来た。思ったより植物たちは元気そうだ。あれだけ平年より厳しかった冬の寒さの中でもう駄目なのではないかと思ったのだが。釜石は海も山も豊かだ。暖流と寒流が交差するため魚種も多い。リアス式海岸はさらに魚たちに絶好のえさ場を与える。落葉樹の多い山は肥沃な土壌を植物に提供して山菜や野草を育む。これほど自然豊かな東北に大陸からやって来た古代の人たちが住着き、荒覇吐王国が栄えたという話もうなずける気がする。生まれた四国や、その後仕事で住んだ関西、関東などにいた時はこの東北の自然の豊かさなど知りもしなかった。実際に釜石へ住んでみてはじめて知った。恐らく一観光者として訪れただけでは分からなかっただろう。しかし釜石の自然の豊かさの半分が今回の震災で破壊された。海が回復するには相当の時間がかかるだろう。青森県の十三湖のあるところもかっては安東水軍が栄えた十三湊(とさみなと)があった。海外からの商人たちが行き交い、たくさんの立派なお寺が建ち並んだ大都市だった。それが津波で一瞬のうちに水没してしまった。何万人もの犠牲者が出たのだ。残念ながらこの歴史的な事実も東北で起きたことの故に歴史家たちにも重要視されていない。東北は自然が豊かなだけに自然からの脅威にもさらされて来た。三陸の津波の歴史も地元ではよく強調されている。避難地区の標識が以前から記されていたことに最初は物珍しくさえ感じられた。今回の津波はその標識に書かれた避難地域をも越えてしまった。自然にとっては人の勝手な「想定」など何も関係がない。自然の脅威は常に「想定外」と心得ていた方がいい、と言うことだろう。4月に入って余震の揺れの回数は変わらないが揺れの強さが一時弱まったいたのだが、ここ2~3日また揺れが強くなって来た。たいていは地震の前に独特の地鳴りがするが、時には地鳴りがしないでいきなり強く縦に揺れたりすることもある。家の中ではちゃんと片付けても、何度も落ちるのでもう下に置いてしまった物もある。塀のブロックも二カ所が崩れた。灯籠も崩れたままにしてある。いつ余震が治まるのか予想もつかない。予定では職場のインフラは来月一杯でおおよそ機能しそうなので、従来通りの仕事が可能になるのは6月からということになる。ただ心配なのはそのインフラの重要部分がまた建物の1階部分に設置されることだ。再び津波が来る可能性がまだある。しかし、職場のある建物が市の建物であるため基本的に口出しが出来ない。どうしてももどかしさが残ってしまう。
噴き出す枝垂れ桜 染井吉野より少し遅れて咲く

窮状に利を得る人もいる

2011-04-29 12:59:42 | 経済
昨日は昼頃から雨が上がったが一日中強い風が吹いていた。夕方の帰宅時には路上に散った桜が広がっていた。今年の釜石の桜は十分堪能する間もなく終えて行くようだ。被災地には物資の供給が行き渡るようになり、とりあえずの日常生活が続けられるようになったが、中にはそうした避難所での生活をできるだけ長く続けたいと考える人もいる。物資や食料を供給されれば生活は可能だからだ。働く必要も無い。もともとあまり働きたくない人にとってはある意味では確かにいい環境と言えるのかも知れない。国際的な経済面でも同様の人がいる。悪名高いヘッジファンドというものがある。日本の災害に付け込んで多額の利益を得ようとする。今回の震災の「復興」には16兆円から25兆円を要すると内閣府は試算しているが、ここには福島原発の問題にかかわるものは含まれていない。米格付け会社のスタンダード・アンド・プアーズでは「復興」に30兆円、最大では50兆円を要すると見ている。現在日本の国と地方を合わせた長期債務は869兆円に上り、国内総生産(GDP)の200%近くになる。他国であればとっくにデフォルト(債務不履行)になっているところだ。これまで日本は民間の保有資産と国際収支の黒字などが国際的な信用を落とさないで済んで来たために経済が維持され、国債の発行も消化されてきた。しかし今回の震災は大きくこの環境を変化させてしまった。3月の貿易黒字は8割も減ってしまっている。国内資金も「復興」のために飲み込まれており、主要銀行3行が受けた国内融資要請額は7兆円に達している。国債の消化に回る資金が危ぶまれている。政府自体も「復興」の資金を捻出するのに苦慮している。どこからその資金を捻出するか。国債のさらなる発行は極めて厳しい。増税論も浮かび上がって来ている。経済が低迷する中での増税は消費の冷え込みに繋がる。経済は悪化する可能性が強くなる。外国のヘッジファンドは確実に国債は暴落し、日本はデフォルトに陥ると読んで、それに賭けているところもある。『マネーゲーム』という言葉があるがヘッジファンドなどを見ているとまさにいい得ていると思われて来る。人や国の窮状すら賭けの対象になるのだ。それが現代の資本主義と言うものなのかも知れないが。
木瓜 (ぼけ) 実が瓜に似ていることから「もっけ」と言われていたのが「もけ」、「ぼけ」になったと言う

のど元過ぎれば・・・

2011-04-28 12:47:45 | 文化
ここのところ梅雨の時期のように雨の降る日が多い。せっかくの桜も晴れた日にゆっくり楽しむ間もなく散って行きそうだ。この続く雨のせいで川も増水している。津波の後海岸沿いの地盤が釜石では70cm下がったので大潮の時には甲子川を海水が大きく逆流するようになった。大槌町のような比較的平地の多かったところでも海水が陸地に入り込んでいる。水深の深い釜石湾には流された瓦礫や遺体が沈み込んでいて、一部の遺体が大船渡まで流されていたりしたようだ。三陸の主要産業である漁業の回復は相当長い時間を要するだろう。津波が襲って来た時にちょうど漁に出ていた船がいて、昔から海上で津波に会った時には津波に向かって舵を取るようにという言い伝えがあり、その通り大きな段差のある津波に向かって進み何とか助かったという人がいる。津波の段差を越えてみると海上はまったく平だったそうだ。今回の津波のように東日本で津波を生じる地震は震源がこの日本列島が乗る北米プレートではなく太平洋プレートにある時に生じるようだ。太平洋プレートは北米プレートの下に潜り込むようになっていて、その深いところから上に向かって跳ね上げるように歪みを修正しようとするために津波が起こってしまう。相変わらず毎日のように余震が続くが、日本気象協会の地震情報では昨日も1日で27回の地震を記録している。震源地を県別で見てみると太平洋側の県が多いのは無論だが山形、長野、富山と言った日本海側や内陸の県でも震源となっている。27回のうち12回は福島県が震源なのだ。岩手県と茨城県がそれぞれ4回でそれに次ぐ。太平洋側では岩手県から千葉県まですべての県が震源となっている。中でも問題の原発のある福島県が最も多いことが気になる。今回の地震は1000年に一度の巨大地震だと言われるが以前にも記したように869年に起きた貞観三陸地震は今回の地震と類似している。地質調査からその規模はマグニチュードM 8.3~8.6とされるようだがやはり大きな津波を生じており、震源域は岩手県から茨城県までに及んでいる。日本のこの800年代には概ね10年周期で日本列島にマグニチュード7以上の大地震が起きている。日本人は地震大国に住みながら何度も地震災害から立ち直ってはいるが、現代にそれらの教訓が生きているのだろうか。
庭の山荷葉(さんかよう)の花が咲き始めた

明らかな人災

2011-04-27 12:47:32 | 文化
震災が起きてからもう1ヶ月半が過ぎようとしているが、今心配なことが二つある。一つは再び大きな地震と津波が起きる可能性があること、二つ目は福島原発のことである。時間に余裕が出てくると、特に後者は気になって来る。東北では津波の被害のあった地域に東京電力の福島原子力発電所だけではなく宮城県の東北電力が建てた女川原子力発電所もある。女川原発はしかし福島原発と異なり、無事原子炉を停止できている。被害が少なかったせいだが、同じように海岸沿いにありながら何故女川原発は被害が少なくて済んだのか。最も大きな要因は波に対する位置のようだ。福島原発は正面から波を受ける位置にある。それに対して女川原発は海に向かってせり出した半島の北岸に位置するため、波を正面から受けることがなかった。さらには海側には小さな山を持つ半島部分が出ていて波を弱めてくれた可能性がある。平安時代の869年に三陸沖を震源とするマグニチュード8.3以上と考えられる大地震が起きており、その時に生じた津波は内陸の4Kmまで入り込んでいる。二年前の2009年6月に政府は耐震性評価のための専門家委員会を開いたが、その前にまとめられていた中間報告では津波の想定基準として1938年の福島県沖を震源とするマグニチュード7の塩屋崎沖地震による津波しか想定していなかったために、出席していた地質学専門の産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの岡村行信センター長は貞観地震の津波を考慮するよう繰り返し求めた。しかし、経済産業省に属する原子力安全・保安院も東京電力もともに今後の検討課題だとして考慮しなかった。しかもその後に提出された報告書案には「(貞観地震と同規模の揺れは)想定内」とし、現在の耐震構造で問題ないとした。しかし、その根拠となる資料は提示されていない。マグニチュードが1違うと地震のエネルギーは32倍になる。さらに技術者からは地震や津波があっても電力を必要としない非常用復水器という原子炉冷却装置が必要だという指摘もあった、と諸葛宗男東大公共政策大学院特任教授(原子力政策)が発言している。津波は自然災害であるが今回の福島原発を見ているとむしろ人災と言える。原子力と言う一つ間違えば途方も無い長期間の災害をもたらす技術だからこそいくら安全策をとってもとり過ぎることは無い。原子力発電所を設置するために電力各社や国は設置する地元に多額の補助を出している。その一方で安全装置が安く上げられてしまっている側面もあるのではないか。
雪柳 中国原産で別名は「小米花(こごめばな)」

震災の教訓は活かされるのだろうか

2011-04-26 12:52:08 | 文化
庭に植えた山野草が次々に芽を出して来てくれたが、発砲スティロールでの栽培をすすめてもらった貴重な敦盛草 (あつもりそう)が芽を出していなかったので心配していた。しかし今朝覗いてみると小さな芽が出て来ているのを認めた。翁草も元気に葉を伸ばして来ている。震災の厳しかった状況の後ではこうして同じ自然の優しさと生命力に出会うと気持ちが和んで来る。最近は店でも避難所でも物資面ではかなり充足して来ており、震災で車を流された職場の職員の方たちも最初は車が入手できず、自転車やバイクにみんなが殺到し、これらも入手が困難になっていたがここに来て中古自動車がかなり三陸に回って来ているようだ。ただ工場の機械関係の入手が困難なようで東北には自動車の部品生産などの工場もあり、自動車部品の供給が滞っている。ガソリンや灯油などの油関係も潤沢に回るようになってきた。仮設住宅への転居がはじまったところも出て来たが、目標の数にはまだまだ至らない。同僚の方が以前から国の仕事もやっていた関係で来週早々に優秀な元事務次官をされておられた方が釜石へ来られ、同僚の方とともに被災状況を見るとともに新たな構想で仮設住宅造りを考えられておられる。仮設住宅だけでなくそこに保健婦や臨床心理士を常駐させ、商品の販売所なども設ける考えのようだ。同僚の方から娘にもお誘いいただき、娘も今週末には再び釜石へ来ることになった。娘も心配していたゴスペルのチャリティーコンサートで無事被災地の状況を話してそこへの支援を呼びかける役割を果たし、昨日はラジオでの収録も終えたようで大阪での他の予定の目処も付けたようだ。現在の被災地は職を無くした人たちの長期の就職先が問題になってきている。今回の津波で東北の太平洋沿岸部にあった主に中小の企業の67%が被災した。そこで従事していた人たちの職が大部分失われてしまった。漁業に従事していた人たちも漁ができなくなっている。雇用創出のため各自治体が瓦礫除去の就労者を募ったが出足はあまりよくないようだ。瓦礫除去の仕事はいずれも期限付きの就労となるためみんな躊躇しているのだ。長期間就労することの出来る仕事が欲しいのだ。当然だが安定した仕事に就きたいのである。岩手県は建築基準法第39条により災害危険区域の指定を各自治体に指示した。基本的には津波の被害を受けた地域には住宅の建設を制限するというものだ。従ってこの法律では企業のそうした地域での再建は制限されない。企業の再建は非常に望ましいことなのだが災害危険区域での再建となると疑問を感じる。これだけの被災を受けながらその教訓を活かさない「復興」には大いに問題がある。広島原爆の400倍の放射性物質をすでに放出していると言われる福島原発にしても、この事故を教訓とすることがなければ結局は住民自体がその付けをいずれ払わされることになる。
瓦礫のそばで咲く桜

道路だけは瓦礫が撤去されたが道路以外はほとんどそのまま未だに瓦礫が残っている

甲子川の河口に近いところではまだ自衛隊のヘリが川の捜索を続けていた

片栗の花

2011-04-25 12:49:33 | 文化
今日は風もなく晴れた穏やかな春らしい天気になったが、昨日は晴れてはいたが結構風が強かった。川は続いて降った雨で増水していた。桜はちょうど見頃なのでこの機会を逃すと釜石では桜のいい状態が見られないと思われたので午前中からカメラを抱えて出かけた。最初は甲子川沿いの道路を川上に向かい、釜石では桜の名所の一つになっている県立病院のそばの桜並木へ行った。思った通り満開で、甲子川のせせらぎの音を聞きながら見事に咲いた桜をカメラに収めた後、ゆっくり眺めていた。桜を見ながら並木にそって歩くと気持ちがいい。遠くにはまだ雪を戴いた愛染山が見える。小鳥たちのさえずりもよく耳に入って来た。小川の体育館へも出かけてそこでも満開の桜を堪能した。駐車していた神奈川県警の車両から降りて来た警察官が気持ちよく朝の挨拶の言葉をかけて来た。釜石には今神奈川県警の他にも警視庁や長野県警、富山県警、などいくつかの県警が来てくれている。釜石警察や消防署本部が津波で被災して機能しなくなったからだ。消防も他府県からの応援で維持されている。午後はホームセンターとスーパーに買い出しに行ったが、もう商品は潤沢に流通しているようで、以前のように空いた棚は見受けなかった。一通り買い物をしたその足でかっての釜石郷の総鎮守であった八雲神社の上にある大天場山の公園に向かった。そろそろカタクリの花が咲き始めているのでは、と思ったからだ。車では通行しにくい細道を登って小さな公園の路上で車を降り、下の斜面に行ってみると運良くちょうどカタクリの花が一面に咲いていた。時々日が射して来るその日射しの中でカタクリの薄紫の可憐な花が輝いていた。時折何人かの人も花を見に来ていた。カタクリの花はたいていは俯きかげんに咲いていて、花の中心部は見にくい。それでも斜面の下から覗き込むようにして見ると花の中心に独特の模様が描かれている。ここでも風が結構吹いて来て、そのたびに花が激しく揺れる。家の庭に植えたカタクリはだめだったようだ。その代わり外国産の黄花のカタクリが咲きそうだ。やはりこの薄紫の山野でみかけるカタクリの花が一番いい。1年に一度はこのカタクリの花を見たい。
釜石の大天場山の斜面に群生するカタクリの花 上では桜も満開だ

可憐なカタクリの花

それぞれの可能な支援

2011-04-24 12:49:47 | 文化
今朝起きた時には曇っていたがその後晴れて日が射して来た。この2~3日雨が降り続いて、昨晩など豪雨に近い状態だった。久しぶりに晴れたので庭をよく見てみると、もうだめだろうと思っていた花たちが次々に芽を出していた。こんなことにも大いに感動させられてしまう。四月に入り少しづつ気持ちにも余裕が出て来たので空いた時間にはまたカメラ関係のオークションや歴史の本も覗くようになった。たまたま以前から気になっていた何十年も前の古いドイツのカメラがオークションに出ていて、落札金は震災に寄付するとなっていた。迷わず落札してしまった。出品者の方からメールが届いた。この方は関西に住む著名なファッション関係の方で、これまでに伊勢湾台風、諫早台風、白川洪水など3度も命拾いをされた経験があり、その上、心臓手術も5回もされて、今年の1月には腹部大動脈瘤の手術までされた方だ。こうして何度も危険な状態になられて命を救われているだけに、今回の震災では直ちに100万円の寄付を決意されて、コレクションとして大事にされていた800点のカメラを処分することにされた。すでに50万は寄付ができたとのこと。「今も生きているから活動が出来ることを神に感謝の念でいっぱいです。」と書かれていた。大阪にいる娘も実はコンサート直前に出場を悩んでいた。基本的にはもうあの震災の当時を思い出したくない気持ちがあるのだと思う。それでも電話で自分でしか語れないことを素直に話すよう伝えておいた。昨日の小さなチャリティコンサートでは家人が娘の撮った被災地の写真を担当し、弟は歌い、娘も何とか語ることができたようで寄付金も15万弱集めることができたと喜んでいた。月曜には関西のラジオの収録にも出る気持ちになったようだ。それぞれがそれぞれの立場で自分の出来る範囲で出来ることをやることで支援は成り立っている。特に今回の震災は長期にわたる支援が必要なので各自が無理な支援をする必要はない。むしろ可能な支援を長期にやることが大切だと思う。被災者も非被災者もともに他力ではなく自力で、今自分に何が可能なのか、を考えることが大事なのだろう。
釜石市の小川にある体育館そばの桜 ちょうど味の匠の方が散歩中だった
体育館前では東京から焼き芋屋さんが支援に来ており、仮設住宅の工事も始まっていた

危うい街の再建

2011-04-23 11:05:10 | 文化
予報通り今日も冷たい雨が降り続く。4月ももう下旬だというのに東北は未だに暖房が必要だ。庭にあった二つの石の灯籠も地震のために崩れて一部は割れてしまった。余震が続くためそのまま放置してある。大型犬たちもさすがに余震には慣れることがないようだ。現在は主な道路上の瓦礫は撤去されたがその道路の歩道部分にはまだ瓦礫が残されている。当初自衛隊は遺体の発見と道路上の瓦礫の撤去に早急に取り組んでくれた。しかしその自衛隊も今月一杯でとりあえずの目処が付いたとして縮小されるようだ。隊員たちも普段の訓練で1週間程度のテント暮らしには慣れているだろうが1ヶ月以上に及ぶテント暮らしはさすがに辛いだろうと思う。気晴らしをするようなものもなく、寒い外気が続く中でのテント生活は心身ともに疲労するだろう。ただ現状で自衛隊が縮小されれば瓦礫の撤去だけでも自治体や民間ではかなりの時間が必要になる。大槌町では瓦礫撤去に職を無くした人たちを雇用するということだが、労働経験がなければ効率も悪いだろう。職場の敷地にあった瓦礫は盛岡の建設業者がきれいに片付けてくれた。しかし民間であるからには費用もかかる。職場機能が十分ではないのでこの費用も実際には大きな負担になる。収入が制限されていて出費だけが重む状態だ。それでもまだ余力のあるところはいいが、まったく借金だけが残っているような企業もたくさんある。再建のためにも瓦礫の撤去はどうしても必要だがその費用すら負担し切れない中小の企業が三陸沿岸部一帯にはたくさんある。釜石には今回被災した地域に旧の商店街があり、商店主たちは年齢によって今後については様々なようだ。高齢の人たちはもう再起の気力を失っている。若い世代の人たちは何としてもこの地で再起したいと考えており、商店街の中心にある青葉通りで仮設の店開きを考えているようだ。しかし中小の企業にしても商店にしても被災した同じ場所で再起するというのはうなずけない。職場に隣接する著名な醤油工場も再建してくれるのはうれしいが、同じ場所でというのが納得出来ない。今回に限ってもまだ大きな地震や津波の可能性が言われているし、将来的にも津波は十分あり得る。再び同じ過ちを犯すことになる。本来であれば市当局が市の再建に向けた図面を作成して津波対策の十分講じられた方針で復興をさせるべきなのだが、現場は生活のためにそんなものを待ってはいられないのだ。震災直後から心配していたことが現実となりつつある。
冷たい雨の中で桜と一緒に満開の庭の薮椿

自らの手で津波を逃れた子供たちの行動

2011-04-22 17:35:34 | 文化
今週は雨と曇天が続く。昨日の余震は日本気象協会の情報では23回になっている。数回は体感できる強さだった。今朝職場の職員で仮設住宅に入れることになった人に話を聞くと仮設住宅には日赤からの寄付でエアコン、TV(36インチ)、洗濯機、炊飯器、ポットが備わっているという。2年間の限定された居住になるそうだが喜んでいた。光熱費だけは払わなければならないそうだが、職を失った人にとってはその光熱費すら払うのが大変だろうと思う。今回の震災で釜石市では鵜住居地区が平野部があるだけに被災がひどかった。その鵜住居地区では小中学生に釜石市教育委員会と連携して平成17年から群馬大学大学院工学研究科の広域首都圏防災研究センターが被災時の教育訓練を行って来ていた。「想定、とらわれるな」、「最善を尽くせ」、「率先し避難せよ」の3原則を元に普段から生徒たちが自主的に啓蒙DVDを作成したり、安否札を住民に配って歩くなど、さらには、「こども110番の家」にならって「こども津波ひなんの家」を募って、災害時に避難して来た子供に協力してもらえる家を準備していた。平成21年からはこの地区の釜石市東中学校でEASTレスキューという防災学習を実施して『自分の命は自分で守る』、『助けられる人から助ける人へ』の意識を育んで来た。3月11日14:46に大きな揺れが5分間続いた後釜石東中学校では終業後に校舎内や校庭に残っていた生徒たちが自らの判断で校庭に集まり、教師の一人が「逃げろ」と声を叫ぶと決められていた500m山側のグループホーム「ございしょの里」に向かって駆け出した。近くの鵜住居小学校では児童全員が残っていて津波を避けるため一旦3階へ避難していたが、中学生たちが駆け出して行くのを見て、すぐに中学生たちを追って避難することにした。ございしょの里で小中学生は全員いることを確認したが、建物のそばの山が崩れていることを生徒たちが見つけたため、生徒たちはさらに高いところへ避難することを教師に進言した。教師はさらに500m離れた高台にある介護施設を確認した後、そこへの避難を指示した。中学生は小学生を助けながら高台に向かい、さらに途中で鵜住居保育園の避難する園児たちをも手助けして避難した。その高台に着いて点呼をとっている時に津波は防波堤を越えて来た。次々に家や校舎が津波にのまれて行く姿を見ながら、さらに高いところにある石材店へ避難した。結局津波は介護福祉施設の100m手前で止まり、最初に避難したグループホーム「ございしょの里」は津波にのまれてしまった。一晩を歩いて移動した旧釜石第一中学校体育館で過ごして翌日手配された車で釜石の甲子小学校・中学校へそれぞれ移った。生徒たちのすばらしいところはその避難所となった場所でも自ら率先して毎朝の清掃をし、それを見た大人たちが見習って参加しはじめたことだ。鵜住居小学校361人、釜石東中学校222人は自らの手で津波を逃れることが出来た。
鵜住居地区の地図(群馬大学大学院工学研究科広域首都圏防災研究センター作成)

アフリカからの祈り

2011-04-21 12:24:31 | 文化
今日は昨日までと違い少し気温が上がって来たが日が余り射さない。昨日までの雨や雪で庭の杏の花が少し散ってしまった。椿の花も庭と塀の外の通り道へもかなり落ちている。それでも椿の花は今一番たくさん開いている。その椿の花の蜜を吸うためにヒヨドリが集まって来る。甲高い賑やかな声が聞こえる。釜石に偶然いて震災を経験した娘は今大阪で大きなギャップを感じているようだ。大阪の店舗にはたくさんの品が溢れ、空いた棚がないことに違和感を覚えると言う。様々にかけてくれるねぎらいの言葉にも中にはやはり違和感を覚えるようだ。今週末のゴスペルコンサートで震災のためのチャリティーをやるのだが、そこで釜石で経験した震災について語り、支援を訴えることになっている。他にも知人で震災支援のためのラジオ番組をやることになった方からも出演を依頼されている。しかし娘はあまり震災当時のことは思い出したくないという気持ちもあり、どう語るか悩んでいるようだ。この気持ちはよく分かるような気がする。自分でも釜石以上に被災状態のひどい大槌町や山田町へはどこか行きたくないという気持ちが強かった。自然の威力で人が完璧に打ちのめされた状況はあまりにも正視するに耐えない。生と死を目前にするだけでなく、生ですら生に値しない状況に立ち置かれてしまう。今回は非被災地である大阪にいれば、ギャップはさらに大きいだろう。TVの被災地番組や有名人の被災地視察はそれはそれで少しでも支援にはなるのだが、一方でどこかやはり正直違和感を感じるところがある。娘が昨日メールで教えてくれた海外からの動画の支援の方が何か心を動かされるものがあるような気がした。特にアフリカのケニアの80万人が住むと言われる世界最大のスラム、キベラの小学校の生徒たちの歌には感動を覚えた。3年前のケニアの暴動で親を失った子供たちも恐らくいるのではないかと思う。涙を流す少女には日本の被災地で命を無くした人々の姿が自分の体験と重なったのではないか。子供たちの歌には生と死を体験したものの共感が感じられるように思う。
Prayers from kibera for Japan ~祈り~ キベラから日本へ