晴れると日中の日射しの中では暖かいが、朝晩はめっきり冷え込んで来た。この寒さが紅葉にどう影響するだろう。1954年、山形県飽海郡遊座(ゆざ)町吹浦(ふくうら)の三崎山遺跡から刀身も柄の部分も一体鋳造である26cmの青銅刀子(とうす)が発掘された。2001年にこの青銅刀子の鉛の成分が古代中国の殷文明の遺跡から発掘された青銅刀子と同じであることが科学的に証明された。三崎山遺跡からは縄文時代中期から後期のの土器や石槍などが伴出している。中国の殷王朝は紀元前17世紀から11世紀にかけて栄えた太古の王朝である。殷墟や甲骨文字、奴隷の生け贄などで知られ、異邦の土地を通るときは、邪霊を祓うために異民族の生首を掲げて進んだことから、首が進むと書いて「道」という漢字が創られたと言う。殷(商)は青銅器の製造技術が進んでおり、現在まで日本国内でのこの時代の青銅器製造の史実的な証拠は見られないところから山形県三崎山遺跡出土の青銅刀子は殷(商)で造られたものと見られている。日本国内最古の青銅器である。このことから少なくとも紀元前11世紀には東北に青銅器を持つことのできる首長がいて、大陸とも繋がりを持っていたことが分かる。中国最古の地理書『山海経』(せんがいきょう)で「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」ある、倭は後の倭人のことではないとする見解が強いそうだが、紀元前12世紀から紀元前3世紀まで存在した燕の時代であれば、三崎山遺跡出土の青銅刀子を考えれば、十分後の倭、つまり、倭人の国であることが理解できる。日本の太古は正史では語られない豊かな史実を有している。それだけに正史のみを頼みとする史観は自ら歴史を狭めており、結果的には日本の歴史を歪める。正史によれば紀元前11世紀の東北には金属器を持つ首長など存在しない。しかし、山形県下には「越」国の王を祀る古四王神社が20以上ある。
甲子川のカルガモ
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