一昨日一日降った雪も昨日のうちに平地は大部分融けてしまった。職場の方の話ではこの時期は内陸は雪は降らずに沿岸部の方がよく降るのだそうだ。それが毎年のことで春が来る証でもあるようだ。しかしそれにしても三月も末になって降る雪と言うのはさすがに東北なのだと感じさせられる。雪のせいで気温もまだ上がらず寒さが続く。日射しだけは着実に春を感じさせてくれるが。日本の古代について書かれた史書としては712年成立の古事記と720年成立の日本書紀が古いものとして知られているが、両者はわずか8年の差しかなく、何故、8年くらいの歳月の差であえて日本書紀が編纂されたのか疑問が多い。古事記と日本書紀では記述内容にも相違が見られる。古事記は南北朝時代の写本である真福寺本が最も古いもので原本は残されておらず、古事記につてはその写本が発見されるまで存在すら知られていなかった。8年後に成立した日本書紀にすら古事記については一言も触れられていない。日本書紀は古事記は存在しないものとして記されている。これは何故なのだろう。古事記は天智天皇(中大兄皇子)の第四皇女であり、天武天皇(大海人皇子)と持統天皇の子・草壁皇子の正妃である女帝元明天皇に献じられている。一方、日本書紀はその元明天皇と草壁皇子の子である初めての独身女帝元正天皇に献じられている。古事記成立の40年前の672年には教科書でも記されている壬申の乱が起きている。この乱は天智天皇の弟である天武天皇が天智天皇の第一皇子である大友皇子による自分の暗殺に抵抗して起こしたものと日本書紀は詳述している。元来天智天皇の後を継ぐものは大友皇子であるはずのところ、天武天皇が継いだ、その正統性を述べている。ところが古事記では本文には日本書紀のように壬申の乱についての詳しい記事はなく、その序文に触れられているだけであり、内容も日本書紀とは全く異なる。日本書紀は天武天皇が止む終えず大友皇子から皇位継承権を奪った形で述べられているのに対して、古事記は単に天武天皇が占いで自分が天皇位につくことを知ったとされているだけである。従って天武天皇は自らの意志で天皇位を簒奪したと言うことになる。天武天皇の後継者たちにとって古事記の記述は世に出てては困るものであったろう。天皇位後継の大義名分がなければならないからだ。しかし事実は663年(中国史書では662年)の白村江の戦いで疲弊した九州王朝へは8年間に渡る唐より派遣された郭務宗らによる占領軍が駐留しており、その占領軍の力を借りて、また九州王朝下にあった残存勢力の協力も取り付けて天武天皇、大海人皇子は謀反を起こしたと考えるのが妥当と思われる。そしてそこに古事記に代わって日本書紀の成立の必然性があったと考えられる。
一昨日木々に降り積もった雪が昨日の晴れ上がった空を背景にまぶしく光っていた
一昨日木々に降り積もった雪が昨日の晴れ上がった空を背景にまぶしく光っていた