和田家文書では、日本列島に最初にやって来たのは阿蘇部族であり、彼らは基本的に狩猟民族であった。次いで列島にたどり着いたのは津保化族であった。津保化族はバイカル湖近辺から東方へ進み、ベーリング海を越えて、アメリカ大陸へ移動した。その一部が故地を求めて、引き返し、巨大な筏に馬も載せて、西進したが、日本列島に流れ着いて来た。その地が青森県であった。現在も都母(つも)の名で地名として残されている。阿蘇部族も津保化族もともに日本列島を北から南へ広がって行ったと思われるが、阿蘇部族は狩猟民であるため、定住せず、獲物を追って、常に移動をしていたと思われる。津保化族の方は三内丸山遺跡に見るように集落を作り、定住していた。食料となるものの栽培も行い、巨大な木柱を使った建物を建設し、ストーサークルを作るなど、文化では阿蘇部族に優っていた。次第に阿蘇部族は津保化族に融和して行ったと考えられる。ストーサークルは北海道から九州まで分布しており、津保化族が日本列島に広く住み着いていたのだろう。津保化族の作ったストーサークルはユーラシア大陸の西方で生まれ、次第に東へ伝わって行ったとされる。バイカル湖を起源とする津保化族にも当然伝わったものだと考えられる。ただ、アメリカ大陸には現在のところ、ユーラシア大陸や日本列島で見られるようなストーンサークルは見出されていないようだ。アメリカ大陸で発掘された石器や先住民の遺骨のDNAからはユーラシア大陸からの進出は明らかとなっているが。バイカル湖を離れて、アメリカ大陸へ渡った津保化族の先祖たちが自分たちの文化であるストーサークルを作らなかったとは考え難い。未発見なのか、あるいは実際にも作らなかったのか。日本列島全体に定住するようになった津保化族が縄文人の実態だと思われる。北部九州で初めて稲作を行って、間も無く北東北でも稲作が行われている。彼らはいずれも津保化族の血を引く人たちであったろう。そこに北部九州では中国の寧波からやって来た天照たちが侵略を行った。金属武器を持つ彼らには縄文人は太刀打ち出来なかった。縄文人の地域国家であった出雲王国も天照たちの傘下に入る。ストーンサークルは祭礼と墓の機能を持つ。前者では大きく、後者では小さい。しかし、いずれも神として見ていたのだろう。死者を神として祀る考えはこの縄文人に始まる。天照らは支配下に置いた縄文人の風習を取り入れて、以後、支配者が亡くなると神として祀った。
水中の餌を探すオオバン
水中の餌を採るオオバン