釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

ブログについて

2009-09-30 07:01:03 | 文化
職場の近所を歩くとそこここでいい香りが漂って来る。金木犀の季節がやって来たのだ。気温もやや下がり長袖がちょうどいい感じになってきた。上着を着て歩くと少し汗ばむ。愛知県にいたころ撮り溜めていた写真を使って初めて自分のホームページを立ち上げた。パソコンの知識はそこそこあったのでいつでも立ち上げられる状態ではあったが元来の無精で周囲に言われてやっと立ち上げた。しかし釜石へ引っ越して来てからはむしろこの釜石、岩手のすばらしさを友人たちに知らせたいという気持ちが強く、積極的に自分からこのブログを立ち上げることにした。ブログというのは言ってみればインターネット上の公開前提の日記ということだが更新期間にしても内容にしても各ブログ様々だ。このgooのように無料で使えるブログが多くなり、gooだけでも130万を超える人が利用している。1日のアクセスする人の数も1万人に達するブログさえある。インターネットは様々な利用が可能だがブログが開発されてからは受け身の利用から積極的な参加の利用に大きく変化した。個々人が自己の何らかの主張を表明する場となった。参入者の数が爆発的に増えることで情報量が格段に増え各地の地域情報などが特に得られやすくなった。また同種の趣味を持つブログをネット上で探して趣味をさらに磨くことも可能になった。遅れて写真に興味を持つようになった家人は今新たに自分のブログを立ち上げる準備をしている。ネット小説に嵌っていた家人だが他人のブログをも見るようになったのか、写真を活用したいためなのか急にブログを立ち上げる気になったようだ。ただいくつかパソコン操作に慣れていないところがあるので助けを求められ近日中にまずその特訓をすることになった。せっかく教えても長く活用してくれないと無駄になってしまうのでただただ長続きするのを願うばかりだ。

金木犀 かなり離れたところまでいい香りが漂って来る。香りと花がマッチしない気もするが

三陸はいつまでも奇跡の海であってほしい

2009-09-28 17:14:19 | 自然
最近 奇跡の海三陸 という本を読んだ。三陸沖は寒流と暖流が出会う海だということは知っていたがその寒流はただの寒流ではなくアムール川に端を発する栄養豊かな海流だという。暖流は逆に栄養は少なくそのため透明度が高くなり黒く見えるところから黒潮と呼ばれるそうだ。この暖流と寒流が出会う潮目を海洋前線というらしいがこの前線が千葉県の銚子沖から北上し、三陸沖を通り北海道の十勝沖に達し、そこからまた南下するという流れを繰り返すため三陸沖は長い期間豊かな魚種と魚量に恵まれることになる。この海洋前線を先導するのがあのマンボウなのだそうだ。さらにリアス式海岸はアワビ、毛ガニなどの他、ワカメ、マツモなどの海藻類を与え、沖合10~20kmで水深200mになる三陸は冬の季節風が深海から栄養豊かな深層水を表層に運び一層豊かな海を作り出しているという。これだけ豊かな漁場は国内にはなく、世界的にも珍しく、世界三大漁場と言われることになる。三陸の海がこうした背景を持っていることを知り、ますます岩手の自然に感動する。ただここで三陸のこれだけすばらしい海を控えた近くに何故核燃料の最終処理場を造ってしまったのか多いに憂慮せざるを得ない。海流を見ると津軽海流が六ヶ所村沖を通り三陸へ南下している。しかも六ヶ所村の処理施設は沖合3kmの海底で廃液を流すことになっている。現代の科学レベルでは核処理は完全に放射能をゼロにできない。そういう技術は基本的に導入すべきではない。人間がコントロールしきれない。廃液は微量の放射線であっても海の中で何年もかけて蓄積され必ず海を汚染してしまう。元へ戻すには気の遠くなるような年月がかかってしまう。いずれ奇跡の海は失われてしまうことになるだろう。

吉浜正壽院の彼岸花 たくさんの彼岸花が植えられているがもう終わり頃のようだった

海の民の信仰

2009-09-28 07:03:36 | 歴史
この季節の晴れた青空の見える日はほんとうに気持ちがいい。爽やかという言葉がそのまま感じられる。三陸沿岸部を見て回っていると金比羅大権現と書かれたり金比羅と書かれた祠や石碑があちこちで見られる。四国の生まれなので香川県の金刀比羅宮へは何度か行ったことがある。ここの祭神は大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)である大物主神となっている。農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つとされる。神仏習合により金比羅大権現と呼ばれるようになり江戸時代に全国に信仰が広まったようだ。特に船に関係する人々の間では信仰が熱かった。しかし三陸沿岸部にはそうした金比羅信仰よりも古いと考えられる信仰があったようで船が木で作られたことからその木を切り出す山の神への信仰も強く、新しい船を造る際には山の神への礼拝を行ったという。三陸は海岸部まで山が迫っていて海で暮らす人たちも同時に山ともともに暮らしていた。船の材料である大きな木を与えてもらった山への感謝とむやみに切ると水害を起こす山への恐れの気持ちを込めた祈りを上げたのだろう。毎月12日は山の神の日にあたりこの日は山へ登ったり、木を切ったりしてはならいそうだ。また正月の12日には特に船造りに関係する職種の人々は木を切り出す人々も含め一所に集まり山の神を祀った。船が完成されて初めて海に浮かべられるとお船霊様に祈りを捧げて湾内を漕いで回って戻って来ると船頭に水をかぶせたり船頭を海に投げ込んだりする風習があったようだ。お船霊様は女の神様なので人間の女性への嫉妬を恐れて女性が船に乗ることは禁じられていたが初めて船を海に出すときだけはお船霊様を祀る飾り付けを船主の娘などが行ったそうだ。こうしてみると山の民や海の民、土の民の信仰は自然への恐れと敬いを元にしているがあえて対比すれば現在の宗教は人への恐れや敬いを元にしているように思える。そして現代はあまりに自然への恐れや敬いを忘れてしまっているように見える。科学という知識への過信のせいだろうか。

根浜海岸の岩場にほんとうにひっそりと立つ水神の石碑

釜石での野鳥写真

2009-09-27 07:05:48 | 自然
釜石の自然の豊かさはいつも感心させられるが植物が豊かで昆虫も当然多くなり、野鳥も豊富になる。以前近所を歩いていると1軒の家の軒先に竹で編んだ鳥かごに入れられたヤマガラがいた。ちょっと可哀想な気もしたが可愛くて飼っておられるのだろうと思いそのまま通り過ぎた。子供のころは山へ行って霞網を仕掛けてメジロを獲ったり瓦屋根に登って雀の子を獲ったり結構いたずらをしたものだが今は鳥たちが自然の中で自由に飛んでいるのを見るのが好きだ。毎朝のように相変わらずイソヒヨドリがやって来て可愛い声で鳴くしセキレイはやや高い声でさえずる。カワラヒワやメジロも来ることがある。以前きたミソサザエは最近はすっかり姿も声もなくなった。ちょっと寂しい。野鳥の写真も釜石へ来てからはほとんど撮っていない。道具だけはいろいろ揃えているが今ひとつ出かける気にならない。どうしてか考えてみるとどうも山へしかも野鳥のいそうな場所となるとクマが心配なのだ。専用の迷彩テントの中でじっと野鳥の来るのを待ち構えるわけだからわずかに開いた穴以外は周囲の様子を見ることができない。クマ除けの鈴を鳴らすわけにもいかない。愛知県だとクマの心配がまったくいらなかった。せいぜいかなり山奥へ行けばイノシシがいるぐらいだった。きれいな羽のカケスやオオルリ、サンコウチョウなどがいるのはわかったがなかなか山へ一人で入ることができない。釜石にはこっそりと野鳥を獲る人もいるようだが仕掛けで獲っているのだろうからじっとそばにいる必要はない。しかし写真となるとじっとそばで待たなければならないし下手な音も出せない。なかなか困ったものだ。そのうち何とかこのへんを解決して釜石でも豊富にいる野鳥の写真を撮りたいものだが。

冬に薬師公園で見かけたアトリ

人も動物も味覚の秋がやって来る

2009-09-26 07:04:49 | 自然
近所の柿の木の実が色付いて来た。釜石に限らず岩手で見る柿は小粒で小さい。渋柿しか生らないらしい。遠野ではそれすら育たなかったようだが近年は温暖化のせいか遠野でも同じ小粒の渋柿が育つようになったそうだ。やはり気温の関係で粒の大きい甘柿は育たないようだ。小粒の渋柿しかない釜石は昔から独特の甲子柿として渋を抜いた柿が作られている。収穫された柿を柿室と呼ばれる室の中で煙に燻して1週間かけて渋を抜くそうだ。温度はだいたい25度位を保つ。ケヤキや山桜の木を燃やして煙を出すという。1週間燻された柿は渋が抜けるだけでなく色も鮮やかな赤みを帯びたオレンジの光沢のある柿に仕上がる。味も口の中で蕩けるような甘さで独特の味を味わえる。来月末くらいから市場に出て来る。この小粒で渋のある柿は一方で熊の好物でもあり山裾の柿の木は毎年熊がやってくる。職場の裏山にも柿の木とクルミの木が並んで立っていてここにも毎年やってくるそうだ。昨年は偶然日中にクルミの木に上った熊を目撃することができたが夜も結構来ているらしい。クルミはリスと熊の両方の好物のようだ。今年は天候が不順のため山の木の実のできが悪いらしく熊が里に出やすい可能性があるようだ。これからますます色付いて行く柿は熊にとって絶好の食べ物になる。それだけ人と接触する機会が増えることが予想される。法律では里の柿に近づいた熊を猟銃で撃ったりできないそうなので柿の木がある山裾の家は大変だ。ともかく熊との遭遇を避けるのが第一になる。味覚の秋は人だけでなく野生の動物たちにとっても冬を控えて大事な栄養の蓄積期間になる。北海道では一時川の鮭の遡上を下流で止めたためヒグマが餌不足になり民家に出るようになった。岩手の月の輪熊と違いヒグマは巨大なので被害に遭うとまず命を落とす。その後ヒグマのためにいくつかの川は鮭を遡上させるようになった。人にとっては秋はキノコの季節でもあるので楽しみはさらに増える。

近所の色付いて来た小粒の渋柿

遺跡と記紀神話

2009-09-25 07:05:42 | 歴史
昨日は久しぶりに青空が広がり気持ちいい秋日和になった。残念ながら平日なのでその日和を十分は味わえなかったが。周囲の山々はまだまだ緑一色だが近くの桜の木や楓の葉は結構色付きを見せて来ている。ただまだ時期が早いせいかあまりきれいには見えない。全国の古代遺跡を見ると縄文遺跡は東日本に弥生遺跡は西日本に多い。また東日本の縄文遺跡も遺跡の密度で見ると関東が最も高く、仙台周辺がそれに次ぐ。恐らく当時の関東にも三内丸山のような大集落があったのではないかと思われる。現在までにそうした集落跡は発見されてはいないが。関東には縄文期の説話と考えられるものがいくつか残されており千葉の阿久留王伝説が有名だ。鉄が採掘されたと思われる千葉県君津市の鹿野山には日本武尊と戦い敗れて八つ裂きにされたとされる阿久留王が祀られている。弥生遺跡では鳥取県の大山の麓で発見された妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)が現在注目されている。西暦150年頃のもので現在までに発掘されたものの中で最大規模の弥生遺跡だ。何が最大かというと住居遺跡の数だ。まだ遺跡の10分の1ほどしか発掘されていない(吉野ヶ里遺跡の5倍の面積がある)がそれでもすでに竪穴住居跡420棟以上、掘立柱建物跡500棟以上、墳墓34基が発掘されている。有力者らしき者の住居跡のようなものはあるが今のところ吉野ヶ里遺跡のような周囲を巡る堀や儀式を行う建物のようなものは発掘されていない。今後の発掘の進みが楽しみな遺跡だ。これまでの発掘された縄文・弥生の遺跡を見る限り大和やその周辺では現在全国的に注目されているような大規模な遺跡は発掘されていない。少なくともその事実は大和やその周辺は縄文から弥生にかけての中心地ではあり得ないことを語っている。古事記や日本書紀に記された神話時代の出来事がこれらの遺跡を見る限りすでに大和とその周辺の出来事ではないことをはっきりと示している。神話は作られたものとして逃げている考古学者や歴史家がこれらの整合性をいつまで無視できるだろうか。

東北の彼岸花ーイヌサフラン 東北は赤い本来の彼岸花があまり見られない

郷里のまつり

2009-09-24 07:02:31 | 文化
5連休もとうとう一日中すっきり晴れ上がる日がなく過ぎてしまった。ほんとうに今年は夏からこの9月にかけて天候が不順だ。釜石の冬の晴れ上がった時の空の青さはまるで心が洗われるようなすばらしい青なのだが他の季節でも昨年は見られた。今年は梅雨時期から雨はさほど多くはないが曇天が多い。それでも今近所ではまだ百日紅や朝顔が咲くところがあり、我が家の額紫陽花も最盛期に比べずっと花が小さいが開き始めた。あきらめていた彼岸花もかなり伸びて来た。先週は遠野のまつりが平日行われたので見ることができなかった。来月には釜石の祭りがある。秋は各地でまつりの季節だが子供のころまつりになると学校が休みになり友人たちともらったお小遣いをもってまつりに出かけた。愛媛県新居浜市のまつりは今では全国から観光客を集めるにぎやかなまつりになってしまったが以前はあくまで市内住民だけのまつりだった。それでもまつりに集まる人の数は多かった。どこの地域にもある通常の神輿に添えられた太鼓台が徐々に単独で大型化して神輿がなくなり巨大化した太鼓台だけのまつりに変貌したのが新居浜市のまつりだ。高さが5mを超え、神輿にあるようなかき上げ棒の長さが11mもあり重さは2.5トンもある。かき手だけで1台に150人を必要とする。ごとに1台の太鼓台があり天幕その他の色彩が異なり一宮神社という郷社に20台近くの各地の太鼓台が集まって来る。宮参りというが昔はこのとき互いの太鼓台同士がぶつかり合うけんか太鼓が酔った勢いで行われていた。当然死者も出たりするのでその後は禁止された。舟渡りでは大きな舟1隻に4台の太鼓台を乗せて海を渡る。太鼓台の側面は豪華な錦糸を使った刺繍が施され豪華絢爛といった感じだ。10月半ばの稲の穂が垂れる頃に行われる。

太鼓台を通常より高く持ち上げてかき比べをしている。 勢揃いした太鼓台は見応えがある

交通の不便な釜石だが

2009-09-23 07:08:55 | 文化
隣接地の建物にまっすぐに這い上がる蔦の葉がきれいなグラーデーションを描いて色付いて来た。今年はだめかと思っていた我が家の彼岸花も二輪だけ芽を出してかなり伸びて来た。気温も日中は最高23度で気持ちいい秋の気温になってきた。夜は半袖だと少し寒く感じるようになってきた。庭では夜昼関係なくコオロギが鳴く。残念ながらせっかくのこの5連休も天気はすっきりしない。雨は降らないが日射しも中途半端だ。岩手は県の面積が四国四県の広さがあり内陸と沿岸部は連なる山々で隔てられている。かっては鉄道だけが交通機関だったが今は車が中心で内陸と沿岸部は東西に走る283号線を、沿岸部は南北に走る45号線にそれぞれ自動車道ど呼ばれる半高速道路が建設中だ。片側1車線のため最高速度が低めに設定され追い越しも限られる。鉄道はこれまた単線のためと利用者が少ないため便数も少ない上スピードも遅い。要するに便利はよくない。釜石港があっても漁業以外では大型貨物用の岸壁だけで客船は航路になっていない。民主党が政権についたが岩手県知事も民主党の支持を受けた人だし党幹事長の小沢氏が岩手出身だからひょっとして自動車道の完成が早まるかも知れない。国内の移動はすべて花巻に出なければ新幹線や航空路にアクセスできない。車で1時間半かかる。自動車道の完成で30分位は短縮できるだろう。今のところ格別の用がなければ新幹線や飛行機も利用するこたはないのでさほど不便は感じない。岩手自体が東北の中心部にあるので東京との距離を考えても1時間半余分にかかるだけで大差はない。東京都内でのサラリーマンの通勤を考えればこの1時間半は問題にならないだろう。かえって便利になり過ぎると釜石がよくない方向へ変貌する危険性が生まれるのではないかと心配になる。この5連休も天気がすっきりしないのであまり出かける気にもなれずおかげで普段読めない本をまとめてたっぷり読むことができる。

花虎ノ尾 北米バージニア州が原産で大正時代に日本へ

犬は可愛さだけで飼っては犬がかわいそうだ

2009-09-22 07:09:29 | 文化
我が家には小型犬が2頭に大型犬が2頭いて、釜石へ引っ越してきたとき大型犬2頭を連れて公園に散歩に行くと犬は公園内に入れてはいけないことを知った。公園内に犬を入れてはいけないというのは釜石が初めてであった。一方で甲子川に沿って犬と散歩していると他の散歩している犬を見かけるがほとんどが犬の糞の後始末をしていない。これも釜石が初めてだった。公園内に犬を入れてはいけないことにした理由が良くわからないがこの犬の糞の後始末をしない人が多いことが原因なのかもしれない。しかし犬の糞だけが原因ならば公園内で見かける猫については考えられていないのではないかと思う。確かに犬を飼う人が今は多くなったが犬の飼い方の基本が分かっていない人が多いためにこういうことになってしまったのだろう。そもそもペットショップが劣悪な環境で犬を管理しているところが多く、単に商品としてしか見ていないために売る際にも飼う人の基本的なモラルの指導もしない。また飼う人も他人への配慮などを考えない人が多い。その点では残念ながら都会地の方がしっかりしている。犬はただ可愛がればいいというものではなく家の一員であり、社会の一員でもあるのでそれなりにマナーを教えなければならない。一般には生後3ヶ月までは親犬の元で育てて兄弟たちと遊びやけんかのマナーを学ばなければならない。現実はペットショップが生後2ヶ月やひどい時は1ヶ月あまりで販売している。3ヶ月で飼い主のところへやって来たとしてもそこから家族の一員、社会の一員としての過ごし方を教えて行かなければならない。やっていいことと悪いことを主に生後6ヶ月くらいまでに教え込まなければ家族として、社会の一員として問題のある犬になってしまう。初めて犬を飼う家庭やこれまでそのへんを考えずに犬を飼ってきた人たちは訓練士に預けるのも一つの手だ。都会ではそうした訓練所が必ずある。ともかく子犬のときにちゃんとしたしつけを教え込んでいないと犬が一家の主人になってしまったり他人に迷惑かけてしまうようになってしまう。結果として結局飼い主の怠慢のために犬が駄目になってしまう。

いまだに咲く紫陽花

古田史学一考

2009-09-21 07:08:53 | 歴史
江戸時代末期から明治、大正、昭和前期にわたり日本の歴史は言ってみれば万世一系の皇国史観が連綿と続いて来たが第二次大戦後も日本史の学会も教科書も基本的にそれは変わらず続いている。しかし古事記や日本書紀などの日本の正史とされる古書と中国史書である三国志や漢書・隋書・唐書などとの比較からその矛盾点や単純な疑問から日本の古代史の探求に入り込まれた方がいる。元昭和薬科大学教授の古田武彦氏である。今年83歳になられるが非常に精力的で全国を今でも旅して回られる。古田武彦氏のいわゆる古代史三部作『「邪馬台国」はなかった』 『失われた九州王朝』『盗まれた神話』によって日本の古代は九州に王朝があり大和の王朝はその分派であることを明らかにされている。さらに関東や東北にも独自の王朝としての国家形態が存在したことを仮説として説かれている。当初は学会誌でも発表され井上光晴、家長三郎、松本清張などとも論争を展開されておられるが基本的に一元史観に立つ学会はほとんど無視する形となっている。文献の厳密な照合と自らの足で現地を歩く実証的な研究姿勢をもち素人の単純な疑問を重視する。学会のあまりにも恣意的な解釈を退け、あくまでも文献の記述そのもにそって解釈を進めて行く。その真摯な態度が多くの古代史に関心を寄せる人々に好感を与え、次第に全国各地に自然発生的に研究会が立ち上がり古田史学の会として多くの研究発表を行っている。教科書に馴らされた目から見ると驚きの連続だが書かれた内容は十分納得に値するものが非常に多い。当然粗雑で揚げ足取りのような稚拙な反論を見ることがあるが基本的に正面から取り組んだ反論を目にすることが無い。釜石は日本の自然のすばらしさを改めて知らせてくれたが自然だけではなく東北の歴史への関心を目覚めさせ、正史では埋もれてしまっている歴史の掘り起こしの必要を気づかせてくれた。そしてその埋もれた歴史を見事に掘り返しているのが古田史学なのだろうと思う。

秋色のはじまり