釜石の日々

山田町に漂着したエトロフのエカシ、オモエ

全国的に「荒神」の名の付く神社は見られるが、荒覇吐神を知ってからはどうもこの「荒神」は荒覇吐神と関係しているように思えてならない。釜石にも荒神社があり、遠野は青笹の荒神神社が良く知られる。中でも和田家文書を読むと山田町の荒神社が特に気になっていた。神社の大きさといい、前面に広がる澄んだ船越湾の光景といい、人を惹き付けるものがあるので尚更だ。船越半島の付け根に荒神社があり、この半島にはとどヶ崎もある。この半島が属する山田町の北には十二神山があり、そのさらに北には「津軽石」の地名がある。『和田家資料3』の「北斗抄五」中の「諸翁聞取帳三」に次の文がある。「吾が丑寅の国を日本国と国号せるその要は、千島なるエトロフの島に神威嶽ありて、その島なるエカシ、閉伊にとど皮舟にて漂着せり。その上陸せし崎を今にとど崎と曰ふ。 エカシの曰く。吾はカムイの風にて、この地に至る。吾が国島は日輪の出づること朝早き処にて、その日の出を拝す山をカムイホノリと曰ふ。然るに、此の国に至りては、吾れ漂着せる崎こそ、日の出の刻ぞ他処より速き処なり。依て、この国、日本国と称すべしと、安日彦王にすすめたりと曰ふ。このエカシの名ぞ、オモエとぞ称し、今にしてその名を遺しぬ。エカシ、オモエが住にし跡にアラハバキ神社、今に遺りける。また、このエカシが故郷を偲びて登り、東北の海の方を眺望せし山を、十二神山と号けたるは、エカシの遺言たり。一年は十二の神に依りて、四季は移るなり。依て、この山は十二神山と号くべしとて常に曰ふまま十二神山と今に遺れり。 吾が丑寅の国、日本と国号に基せしは、千島エトロフの神威嶽なるエカシオモエの進言に依れるを知るべし。」 とどヶ崎や十二神山の由来だけでなく「日本国」(「ひのもとのくに」の読みだと思われる)の由来までも記されている。エカシ、オモエが住んだ場所に「アラハバキ神社、今に遺りける」とある。恐らくこれが現在の「荒神社」だと考えられる。この荒神社は言い伝えではかってアイヌの魚の神である「リクコタン」という神を祀っていたと言う。「リクコタン」の名は大船渡にある二つの式内社で見られる。現在の大船渡市の尾崎神社はかって延喜式では「理訓許段神社」と言われている。以前にも書いたが、「理久古多の神にささげし稲穂にも えぞの手振りのむかし思ほゆ」という歌が尾崎神社に伝わる。もう一社は氷上神社 で、延喜式では「氷上三社」と記され、衣太手神社(東御殿)、登奈孝志神社(中御殿)、理訓許段神社(西御殿)の三宮を指した。「リクコタン」は恐らくアイヌの神ではなく、ツングース系言語を使っていたアラハバキ王国の人たちの神ではないだろうか。今となっては言語が不明となったアラハバキ王国の人々の言葉がアイヌ語にされてしまっているのではないかと思い始めている。かって蝦夷には三種あり、渡島(北海道)以北の赤蝦夷、東の麁蝦夷、西の熟蝦夷に分かれていたようで、岩手には麁蝦夷がいた。いずれも倭人が名付けた呼称のようだ。これら三種の蝦夷は共通のツングース系の言葉を使っていて、その言葉の系列が唯一現在アイヌに伝わっているのではないだろうか。(「とど崎」の「とど」など表記できない文字は一部文字を修正しています)
甲子川で1羽だけでいたホシハジロ(雄) 目は赤い
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