釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

人の生活と自然

2009-07-31 07:08:15 | 自然
先日寺沢高原で会ったキャンピングカーで名古屋からこられた方が紫陽花が岩手でこの時期に咲いているのを見て、やはり北にある地域は花の咲くのが遅いのだと思われたようだった。確かに桜などの春先の花は20日位遅く咲き始めるが紫陽花やツツジなどは咲き始めが若干遅くなるだけでむしろ岩手の花は咲いている期間が長い。もちろん花の株そのものの咲き始めの違いを含めてだが。今の時期はどこへ出かけてもヒグラシの声が聞こえるがヒグラシの姿そのものはまだ見たことはない。そこで岩手の蝉について調べてみると岩手では約10種類の蝉がいるようだ。愛知県にいたときはどこへ行ってもクマゼミの声ばかりで地元生まれの方に聞いても、近年特にクマゼミが増えたという話だった。東京でもクマゼミが増えたという話がそのころあった。クマゼミは乾燥と暑さが生育に必要で都市化が進んだ地域にはクマゼミが多く繁殖するそうだ。ヒグラシもほぼ日本全土に生息するが関東以南だと涼しさが備わる高原や山でなければ見つけられない。岩手だと平地から山にかけてどこにでも見られる。クマゼミは東北と北海道には生息しないそうだ。たぶん日本の蝉の中ではクマゼミが一番大きいのではないかと思う。岩手に来てからは子供の頃過ごした四国で見て以来めったに見ることのなかったヤンマやハグロトンボ、赤トンボも見かけるし、この間根浜海岸に咲く浜茄子の花を見ていると大きなカブトムシがいたりした。全国で見られる各地の都市化は動植物や昆虫の生態を大きく左右してどんどん見られる場所が少なくなって来ているが岩手は幸い都市化が進まないことがかえって自然環境の保全に繋がっている。ホタルが自然に飛ぶ環境がまだ残されている。名古屋で定年まで過ごして定年後に御夫婦で訪れるところが豊かな自然の残る東北なのだ。東北の気温と地勢が自然界に最適な生育環境をもたらしているのだろう。釜石の交通の不便さはその意味では我慢する方がいいのかも知れない。交通が便利になってもその恩恵は都市部に住む人しか与らないという統計データがあるようだ。ただそうなると逆の発想も出来るかも知れない。交通の便が良くなりますます人口が都市へ集中し、地方は廃れる。つまり地方は自然がさらに豊かになる。ただ問題はその時人々の暮らしはどうなるかだ。

甲子川沿いに咲くコスモス コスモスも萩と同じく秋の花なのだが

五郎沼の蓮が本格的に咲いた

2009-07-30 07:05:26 | 自然
7月25日に蓮まつりを終えた五郎沼にまた蓮を訪ねた。橋野から笛吹峠を抜けて遠野に出る。遠野から大迫、石鳥谷を抜けるいつものコースを辿った。山間では薮萓草より山ユリが目立つようになり、萩も咲いている。ごく一部には葛の花も見られた。凌霄花と合歓の木の花もまだ盛んに咲いている。橋野や遠野、石鳥谷の稲の緑が雨で霞んだ背景の中で色濃く新鮮だった。五郎沼に着くとちょうど何台かの車がそろって立ち去るところだった。誰もいなくなった蓮池を一人でゆっくりと見て回った。今回がやはり一番花が多く咲いていた。来月初めくらいまではまだ十分見られそうだ。そのうち何人かの方が訪れ、また帰って行く。前回お会いしたこの蓮池の関係者の方が親子ずれの方にこの五郎沼の歴史を語られていた。蓮の花がきれいなので親子の方が感心していると関係者の方が中尊寺よりもこちらの方がきれいだと言っておられた。蓮まつりにこられた中尊寺のお坊さんがそう言われたそうだ。中尊寺の蓮も元をただせば五郎沼にあった蓮なのだから五郎沼自体に咲く蓮の方が蓮に合った土地に咲くだけにきれいなのは当然なのかも知れない。帰りに五郎沼の駐車場から道路へ出ようとした時、沼に鳥が二羽いるのが目に入り、よく見るとヨシゴイだった。去年来た時にも何羽か飛んでいたが遠くてよく確認出来なかった。ここにはヨシゴイが生息しているようだ。沼の小島にはかなりの数のカルガモも居残っていた。一旦遠野へ戻り、住田を抜けて大船渡へ出て、越喜来から小石浜へ向かった。今回は蓮ではなく泰山木の花が目当てだった。残念ながら二つ程の花が終わりかけているだけで後はまだ蕾だった。それでも近くへ寄るといい香りがする。子供の頃庭にあった大きな泰山木の木によく上って遊んでいたのでこの香りは懐かしくもある。家の近くまで戻ってから近所の泰山木も見てみたがこちらはまだ蕾さえ出ていない。木もちょっと小さい。花が咲くのは8月に入ってからだろう。


きれいに咲いた五郎沼の800年前の古代ハス

日本の政治状況

2009-07-29 07:00:18 | 文化
来月30日に総選挙の投票が行われる。巷間では民主党優勢が伝えられる。民主党には新自由主義の急先鋒のグループが存在する。自民党であれ民主党であれ政策に大きな違いはない。現在の日本の政治状況はある意味米国のそれと同じである。保守二大政党の争いだ。米国はかっては二つの政党にも相違が見られたが近年ではほとんど差異はない。まして日本ではさらに差異がない。細川内閣以来導入された小選挙区制が目論見通り二大政党を作り出した。米国型二大政党は成ったが同時に1票の重みにも格差が付いた。小選挙区制は5割弱の得票で7割を超える議席を獲得可能にした。自民、民主ともに米国追従型であり、国民一般などという不特定多数よりも明らかな大企業に重点を置いている。目先の経済政策のやり易さも手伝ってのことだろうが。しかし米国も日本も実質的に企業優先の二大政党だけになることで今後ますます国力を低下させるだろう。過去を振り返っても労働者優先だけの社会と同様企業優先だけの社会には活力は失われ、いずれ自滅の道を進む。かっての日本や米国は無論、現在の北欧を見ても教育と福祉医療の充実が相対的になされた社会の方がずっと国は栄える。未来を提示できるからだ。現在の米国や日本には暗い未来しか見えて来ない。弱肉強食の市場原理主義つまりは新自由主義の蔓延により格差社会となり、持てる者が勝ち残る世襲制をも蔓延させている。相対的に平等な競争社会は失われている。持たざる弱者は駆逐される。そうした社会には未来など望むべくもない。

凌霄花(のうぜんかずら) 平安時代に中国から伝わった寿命の長い木だそうだ

遠野市となった旧宮守村

2009-07-28 07:08:57 | 歴史
遠野には宮守地区があるがここは以前は宮守村として遠野とはまたひと味違った地域であったようだ。現在のところ日本最古になる8~9万年前の旧石器時代に当たる金取遺跡(かねどりいせき)が1983年に発見されており、阿曽沼氏時代の館(たて)も何か所かにあるようだ。1886年から50年の歳月をかけて完成された国会議事堂の議長応接室の暖炉に使われている紫雲と呼ばれる大理石は何と達曽部から産出された大理石だと言う。宮守は岩石の宝庫と言われる程岩石の種類が豊富なのだそうだ。石碑も多く中でも少しめずらしいのは風の神が祀られている。塚沢の田下と言うところにある石碑で風鎮 級長津彦神と両神 級長戸辺神塔と書かれているが古事記と日本書紀でやや異なる。古事記では伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の神より生まれた風の神であるとされる。日本書紀では伊邪那美尊が朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命(しなつひこのみこと)という神が生まれ、これは風の神であると記述している。女性の神のようだ。宮守では風と雨の神様として祀っているそうだ。前九年の戦いでは八幡太郎源義家が安倍貞任とこの宮守で戦い、苦戦した際、見晴らしの良い砥森山で戦勝祈願したと言われているそうだ。貞任を倒した義家が宮守に社を造ったことからその宮を守ると言う意味で宮守と地名が付いたと言う。江戸時代には宮守から多くの相撲取りも輩出されたようだ。雲の上作太夫と言う名の力士が南部公の怒りを買って達曽部にある磔峠の由来となったようにこの峠で処刑されたという伝承もある。樹齢450年以上の江戸彼岸桜や400年以上のかやの木など古木も見られ、固有の歴史ある地域のようだ。

達曽部の石碑群 遠野の農地にはタバコがよく栽培されている

高原で過ごした一日

2009-07-27 07:02:25 | 自然
釜石には木蓮科の泰山木 (たいさんぼく)の木が見当たらないので遠野で探すついでにまた附馬牛の大野にある蓮の水田に向かった。仙人道路を下りていつもの旧340号へ入りのんびりと車を走らせながら各家の木を見て行った。蓮の水田に着くまで結局泰山木は見つけられなかった。蓮を見てから釜石、遠野近辺の高原ではまだ寺沢高原だけ行っていないことを思い出し160号に沿って馬越峠の手前を左折して寺沢高原に向かった。今はどこも山間では糊空木がたくさん咲いている。高原には馬や牛が放牧されていて緑の草を食べていた。平地では32度まで上がり汗がじっとしていても吹き出して来る。高原はさすがに涼しい。海抜1000mと書かれた展望台に登るとすばらしい眺めだ。まさしく360度の展望が可能だ。北に早池峰山、西には岩手山から鳥海山まで、南は種山、東は六角牛山をそれぞれ見ることが出来る。涼しい風に吹かれながらしばらくはその眺望から離れられなかった。展望台下に名古屋ナンバーのキャンピングカーが止まっており、庇を出してチェアーに座った60代後半位の方がおられたので声をかけてみた。東北を御夫婦で回っておられて花巻から前日遠野に着き、風の丘の駐車場で一晩を過ごされたそうだ。遠野市街地が暑くてここへ逃れて来たそうだ。遠野から釜石へ出てその後45号を北上する予定だという。8月10日には名古屋に帰らなければならいのでそれまで回れるところを回りたいとのこと。30分程話し込んでしまった。帰りは宮守方向へ下り、途中で寺沢四十八滝の一の滝を見て遠野に戻り、時間があったので高清水高原へ向かった。ここでも糊空木があちこち咲いている。高原の展望台から眺めるとたくさんのトンボが飛んでいるのが見えた。ここから見ると六角牛山もいい形をしている。遠野の青笹の荒神神社の近くには月見草の草原があるので見たかったが月見草が開くのを待たなければならないので諦めた。

寺沢高原展望台から雲のかかった早池峰山を望む

寺沢四十八滝の一の滝

高清水高原から遠野の街と六角牛山を望む 雨雲が垂れ込め、この後雨が降り出す

大賀ハスと浜ユリ

2009-07-26 07:21:50 | 自然
千葉県の落合遺跡という縄文後期の遺跡から丸木舟が1948,1949年に発掘された。約3000年前の縄文人が使っていたもので櫂も一緒に発掘されている。その時ハスの果托も発掘されたことを知った古代ハスの研究者大賀一郎博士が地元中学生の協力を得て1951年にそこから3粒のハスの実を発見された。それを発芽させたものが現在大賀ハスと名付けられたもので2000年を超える眠りから覚めた。その株分けされたものが国内はもとより米、独、中国などへも贈られ、古代ハスとして観賞されている。国内の一つは町田市の薬師池公園で育ち、そこからさらに株分けされたものが最初は大船渡の越喜来(おきらい)小学校のそばに植えられたが土壌の関係か数年で育たなくなり、現在はもう少し大船渡よりの小石浜駅近くの新沼さんという個人の水田で育っている。大船渡には歌手の新沼謙治が出身であるように新沼姓が多く何らかの繋がりがあるのかも知れないが。昨年もこの新沼さんのところにある大賀ハスを見るため何度も足を運んだが今年も二度目の足を運んだ。今回はハスが何とか咲いていてくれた。先日の800年前の五郎沼のハスとよく似ている。シオカラトンボがたくさんハスの上を飛び、睡蓮も少し咲いている。天気予報がはずれてすっかり晴れ上がり、気温も30度を超えて確かに暑いが東京や愛知と違い風も吹き、恐らく湿度も低いためかどこか清々しい。ヒグラシもうるさく鳴くが時々ウグイスの声も聞こえる。道路沿いの山裾にはヤマユリが自生し、ヤブカンゾウと競って咲いている。帰りはついでにお決まりの場所を何カ所かチェックしてハマユリの自生を確認した。ハマユリは浜ではなく海岸の岩場に咲く。これまで見たものはすべて岩に少し残る土に根をはって咲いていた。吉浜漁港、荒川漁港、両石漁港、愛の浜、根浜海岸での自生が確認出来た。

2000年以上の時を超えて蘇った大賀ハス

山裾に咲く山ユリ

荒川の海岸の岩場に咲く浜ユリ

日本の神話の扱い

2009-07-25 07:09:47 | 歴史
昨日一部に日本の神話について記したがあらためて日本の神話について記したい。日本の歴史学では古事記・日本書紀などの正史以外の書にも記されている天孫降臨神話などをすべて史実としては捉えられておらず、日本の歴史を神武からとしている。しかし日本各地に古来より各神社が多くのその神話に登場する神々を祭神としており、これはある意味で民間伝承に当たると言えるだろう。誇張や創作部分も確かにあると思われるが神話のすべてを創作と捉えて無視する歴史学の在り方は多いに疑問がある。天皇の立場から記された正史や和歌集には何らかの意図があり、その意図の下で編纂されていることを踏まえた上で読み解く必要があるのは言うまでもないがそこに登場する人々の存在のすべてを否定することには納得いかない。神話や伝承には歴史上の事実の一部が述べられている可能性があり、歴史的に古くなればなるほど特に文字による記録はないわけであるからそうした神話や伝承こそが重要になる。研究者の役割はその神話や伝承と現実の遺跡との照合などを通じて古代の史実を掘り起こすことにある。日本の古代史ではまさにその役割を歴史学が放棄してしまっているがためにかえって民間の歴史家が熱心に取り組むという奇妙な現象を生じている。あまりにも教科書的な日本史には謎が多すぎ、しかも歴史学がそれらの謎に背を向けたままなのだ。また日本の歴史学の悪弊は隣国の歴史書を無視することにもある。古代の記録はかえって文字文化の早かった隣国にこそ残されているがそれらもまた隣国の都合に合わせて作られた史書であるという理由で無視されている。自然科学にあっては混沌とした森羅万象の中から規則性を掘り起こし理論を構築して行く。社会科学にしても同じである。対象が異なるだけだ。

夏の花 木槿(むくげ) 槿花一朝の夢 と言われる如く朝早く開いて夕方にはしぼんで終わる

岩手の地から郷里の古代史を知る

2009-07-24 07:03:10 | 歴史
岩手のこの時期車で走っていると周囲の山々には雲が垂れ込め、尾根を越えて流れ落ちる。緑は深く、野辺には夏の花々が咲き誇る。内陸の田園地帯は群馬の田園風景にもよく似ている。ただ建物はかなり様相が異なる。何と言っても岩手の農家の建物は豪壮だ。以前にも記したが岩手の農家は基本的に城郭のような佇まいを見せる。そうした田園地帯を走りながら古の岩手に思いを馳せる。安倍氏の遺跡や奥州藤原氏の遺跡を思い、その時代の岩手の風景を想像する。と同時に最近は自分の生まれた愛媛県の古代にも関心が及ぶようになった。不思議なものでこれまで九州、中国地方以外はすべて住んだことがあるがどこへ住んでも意外に地元の人は基本的に地元の歴史や自然に興味を持たない。考えてみると自分も同じで郷里の歴史を顧みることがなかったように思う。しかし岩手の歴史を調べている中で日本の古代史の謎に触れ、やがて自分の生まれた伊予の国の歴史に行き当たり、そこでも同様に歴史が歪められていることを知った。特に父の生まれた愛媛県今治市の越智氏が物部氏出身であり、天孫降臨の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の子孫に当たること、また瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が娶ったのが大山祇神の娘である木花之開耶姫(コノハナノサクヤビメ)であるが大山祇神社は愛媛県今治市の大三島にあり、今治市に隣接する北条市は古代風早国と言われ、国生み神話に言われる伊予二名洲に当たることが分かって来た。先代旧事本紀では饒速日命は瓊瓊杵尊の兄で天爾瑞宝十種を授けられ、天照大御神の詔により瓊瓊杵尊よりも先に降臨したとされている。いずれにしろ自分の郷里が古代神話に深く関わった地であることを新ためて知った。

遠野達曽部の稲荷穴の由来である稲荷神社 向かって左は巻物、右は宝玉をキツネがくわえている

岩手は良くも悪くも長閑だ

2009-07-23 07:04:08 | 文化
今月初旬に紫波町の五郎沼の蓮の花を見に行った時は花の数が少なかったのでもう一度五郎沼へ出かけた。曇りの予想だったが少し雨も降った。今月25日に蓮まつりをやるためか蓮の周囲の整備が行われていた。歩道もしっかりとした板が張られ、歩き易くなっていた。蓮の数は少し多くなっていたがやはり一斉に咲くにはもう少し経たなければならないようだった。前回と同じく石鳥谷から102号へ入り大迫から396号へ戻ったが、沿線には意外と多く合歓の木が自生しており、凌霄花(のうぜんかずら)の花と合歓の木の花が目立った。達曽部を抜ける160号へ入るとこのあたりもやはり遠野らしい風情があり、牧場などもいくつか見られた。ついでに稲荷穴へ立寄り、稲荷穴からの清水を人がポリ容器に汲んでいるのを眺めてから紅葵荘とある手打ちそば屋さんに入って蕎麦を食べた。池に虹鱒と岩魚が泳ぎ、近くには清水を利用してワサビも栽培されている。蕎麦は蕎麦粉をそのまま使ったような素朴でいて美味しい蕎麦だった。ざる蕎麦だと本ワサビが付いて来るようだ。馬越峠は霧になっていた。峠を下ってから附馬牛の大野の蓮の水田にも寄って見たが午後になっていたせいか開いた蓮がなくみんなすぼんでしまっていた。遠野の田園地帯では今稲の他にホップとタバコが大きく育っている。遠野の市街地を避けて340号を通って仙人道路へ出たがこの仙人道路で途中の60Km/hr制限を50Kmで走る車のために延々と続く渋滞に出くわしてしまった。岩手の人たちは他人に対して優しい人が多いが、車の運転だけは疑問が多い。自分が渋滞の原因になっていてもマイペースで走り続ける。しかも確かにはみ出し禁止のラインはあるが後ろに続く人たちも素直に後に続いている。誰も追い越しをしないから大渋滞が出来てしまう。制限スピードをいつも10Kmくらいはオーバーしているだろうに何故か追い越しだけはみんなしない。対向車線に車がいなくてもだ。釜石の市街地へ入ってからも右折車がセンターラインへ寄らないためにまたまた後続車が延々待たされる。遵法精神にもため息が出てしまった。

800年の眠りから覚めた五郎沼の蓮の花

高齢者と自然

2009-07-22 07:09:04 | 文化
何日か前に近所を歩いていると丹精に庭の花を手入れされている古老がおられたので少し話をさせていただいた。80代半ばという年令をお聞きして驚かされた。10歳は若く見えた。古老のお話では甲子川は以前は暴れ川で南北の山で挟まれた平地を縦横無尽に流れ、そのため鉄道を造る時に現在のような位置に川筋を決め、平地には砂利を敷いて宅地を確保したのだと言う。平地のどこでも3~4m掘ればかっての川床の砂が出てくるそうだ。製鉄所がかなりこの平地造りに関わったようだ。大きな企業が入れば人が集まり、その集まった人たちの住む場所が必要になる。釜石のように平地面積の少ないところでは地形も変わり、住宅も密集せざるを得なくなる。しかし企業が去り、漁業もかってほどの魚が獲れなくなると最初に影響が出るのは若者の移動だ。若者が少なくなり、高齢者が残る。企業が来れば自然が壊れ、企業が去れば街が壊れる。地方都市は大なり小なりこうした同じ問題を抱えているが東北のように豊かな自然のあるところではそれが尚顕著に現れる。釜石には3本の川が太平洋に注がれている。北から鵜住居川、甲子川、片岸川だ。鵜住居川や片岸川は少し海岸から離れると山間の農家の風情が見られる。そしてそこに人が住む環境を見出してしまう。甲子川沿いは余りに人が密集しすぎてとても地方の小都市の住環境とは思えない。どちらにしても今後は勢いのある企業が誘致できるような日本の経済状況ではなくなってきており、釜石の人口はますます減って行くだろう。高齢化率も40%を超える可能性も十分ある。豊かな自然は高齢者に最適で、釜石には是非この自然と高齢者を生かした町づくりを考えて欲しい。それが釜石の生き残る唯一の方法ではないかと思える。

朝顔 祖母が朝顔を見るとよく 朝顔に釣瓶取られて貰い水 の句を言っていたのを思い出す