釜石の日々

海を渡った縄文人

久しぶりに晴れた日に遠野に出かけた。だいたい犬たちの関係のものを買う必要が出て来たときに出かけている気がする。さすがに遠野は釜石よりもはるかに雪が多い。遠野に来るとやはり青笹の荒神神社を見たくなるが、こちらへ来ると尚、雪景色が北海道に似て来る。走っていて一瞬錯覚することもある。一面に真っ白な広がりを目の前にするとまさしく北海道そのものになる。1987年に古田武彦氏の『倭人伝を徹底して読む』が出版され、1992にはそれが文庫本にもなった。そしてさらに昨年末にはミネルヴァ書房から「古田武彦・古代史コレクション6」としても新たに一部加筆されて出版された。魏志倭人伝には「裸国・黒歯国」の記述があり、古代史の学会でもあまり取り上げられていなかったが、古田武彦氏は旅程から それらが中南米に当たることを考えられ、後に米国スミソニアン博物館のエバンズ博士夫妻の論文を読まれさらにその確証を強められた。エバンズ博士夫妻たちは中南米で発掘された土器を調査し、それらの土器が日本の縄文土器に酷似していることを発見された。古田武彦氏はエバンズ博士が亡くなられた後、エバンズ博士婦人であるメガーズ博士から相当量の論文資料を送られた。昨年末に出された『倭人伝を徹底して読む』ではその送られた資料を参考に古田武彦氏の考察が記されている。紀元前2000年ころに日本列島の2カ所で火山性の大爆発があった。鹿児島の南の硫黄島と関東の箱根山の2カ所である。これらの大爆発はそれぞれ鹿児島南西部と関東南東部の縄文人たちを逃げ場として海へ追いやった。海に逃れたそれらの縄文人は海流に乗って中南米へたどり着く。エクアドルとチリ北部だ。エバンズ博士らの土器の詳細な比較研究と愛知県がんセンターの田島和雄氏の中南米インディオと日本列島太平洋岸の日本人のウィルスタイプの一致から論証されている。相変わらず学会はエバンズ博士の論文すら無視しているようだ。さらに古田武彦氏はエクアドルとチリ北部の地名に残る太古の「日本語」の遺残にも注目されている。ただこのあたりになると私の理解を超えるところがあるので省略させていただく。これは何も奇想天外な展開になっていると言うことではない。あくまでもこちらの能力の限界で、古田武彦氏が最近述べられている言素論なるものが理解できないでいるためだ。
荒神神社と早池峰山 (By Carl Zeiss Jena)

コメント一覧

隠居
地震お見舞い申し上げます
大した被害がなければよろしいのですが……。
取り急ぎお見舞い申し上げます。
横町の隠居
【補足,その1】
知人から“古代史”研究に必備の書物を尋ねられて,そのことを具体的に解説する必要が生じ,実際に現物に当たってみた。

○『誰でも読める・日本古代史年表』吉川弘文館。
というものがある。

比較的近年(2006)の刊行で,記事本文中の漢字に全て[ふり仮名付き]という一般に取っては,まことにうれしいもの。

しかしながら,丹念に読むとと言っても,いくつかのカンドコロがどうなっているかを確かめれば,その書物が信頼に値するものか,そうでないかが判明するのだ。

本書の場合,確かめるべきは2箇所。

(1)607年の“遣隋使”派遣問題をどう扱っているか。
(2)645年の“大化”年号をどう扱っているか。

驚いた事に,『日本書紀』になく『隋書』倭国伝にのみ登場する600年(推古天皇8年)の遣隋使を[最初の遣隋使]と記述している。

しかしながら,607年の“遣隋使”については[2回目]と記していない。

ここで思い合わされるのは,同じ吉川弘文館から刊行された『國史大辞典』第五巻(1985.02)における[遣隋使]についての説明(執筆担当,鈴木靖民)との整合性である。

『國史大辞典』の説明は,600年~614年までの間,都合[6回]派遣されたとの説を取っている。そういう意味では,本年表との整合性は取れている。

しかしながら,『隋書』倭国伝の冒頭の倭国の地理についての記述,
①東西南北を各(オノオノ)海に囲まれた山島の国。
②その島には阿蘇山がある。
という2点を無視した,支離滅裂な見解。

さらには,近年の高校日本史でこの問題をどのように教えているのか知らないが,少なくとも私が習った時には,第一回の遣隋使派遣は607年であった。

だからこそ,2007年に[遣隋使派遣1400年]を記念して,様々な行事が行われたのである。

[600年説]が一般的になっているなら,[遣隋使派遣1400年]を記念した行事は,2000年に行われていたはずである。

しかしながら,今手元にある『日本の歴史』講談社の熊谷公男が執筆した03『大王から天皇』(2001.01)を見ると,やはり『第1回の遣隋使を『隋書』によればとして,600年のこととしている。

学界の趨勢は,[600年説]のようである。

ここまでくると,彼らのやっている事は“歴史の捏造”である。(続く)
管理人
ご教授ありがとうございます
中小路駿逸氏の「『日本書紀』の書名の「書」の字について」の論文は知りませんでした。是非入手して読んでみたいと思います。「遣隋使」については私自身は倭国と大和日本国の双方が派遣したのかやや疑問をもっています。いずれにしろ明晰な論を記入いただきありがとうございました。大いに参考になりました。今後ともご教授のほど宜しくお願いいたします。
横町の隠居
一部訂正
先ほどの私の文中に“音素”論とあるのは,“言素”論の間違いでした。訂正いたします。

なお,音の一つ一つに,それなりの意味があると言ったのは,富士谷御杖(フジタニ・ミツエ)だったかと記憶しています。

長々と綴り,失礼しました。
以上,取り急ぎ要用にて。
横町の隠居
学問の世界にも“制度”疲労が
たしかに古田氏の“音素”論は変ですね。あまりにも恣意的です。既に江戸時代の国学者が同じ失敗をしています。

◆以下は一昨日(25日)あいば達也氏の『世相を斬る』と『日常の活動日記』に転載の同じものにコメントしたものです。(一部加筆)

プリント・アウトしてお読みいただけますと,幾分か分かり易かろうかと存じます。
============================http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/c66c6472489001bf23fe3193575df346?guid=ON

http://blog.goo.ne.jp/capitarup0123/cmt/1da9aececb7d5c0c117ac77e238e76d1?guid=ON

◆『既存の枠組みの全てが,制度や組織的に疲労を起こしている』というのは,私も同感です。

しかしながら,そのことはなにも政治の世界だけでなく,“学問”の世界でも起きているように思われます。

◆それは昭和44年(1979),在野の史学者古田武彦氏が『史学雑誌』に発表した『邪馬壱国』(※“壱”は旧字体) という論考がきっかけだったと思われます。

これは,従来の日本史の通説(後年,中小路氏が“日本史”一元通念と呼んだもの)は,論証を経ていないという大変なことを指摘したものだったのです。

これに対し,研究者の誰も簡単・明瞭に反論出来る者がなく,まさに“有史以来”の画期的な事件の始まりとなったのです。

氏は以後も様々な著作を世に問い,“九州王朝説”を展開しています。

しかしながら,現在に至るまで“傍証”は提出するものの,遂には自らの手で以て“仮説”を証明する事は出来ていないのです。

◆ところが,それから十余年を経た1988年(昭和63),古田氏の提出した“仮説”を見事なまでに証明された方が現れたのです。

当時大阪府は茨木市にある追手門学院大学(文学部)にお勤めの中小路駿逸氏でした。

氏が同大学の紀要に発表された「『日本書紀』の書名の「書」の字について」の論考は発表された当時,それを読んだ人々からは何の反応もなかったようですが,実は大変な内容を含んでいたのです。

古田氏の“仮説”を独自の方法で見事に証明されたものであると同時に,松下見林また本居宣長以来の“日本史”一元通念が完全に無効であるという事を証明したものでもあったのです。

こうして,有史以来の“事件”にも幕が下ろされたのです。

◆しかしながら,この論考には次のような表現はありませんが,つまるところ【20世紀末日本の人文科学界に“パラダイム・シフト”が起きた】という事を指摘したものでもあったのです。

ということは,この論考が発表された事により,日本の人文科学研究の世界が“リセット”されたという事です。

大変なことが起きたのです。

◆以上を簡明に示す事柄があります。

それは607年の“遣隋使”派遣問題です。

これまでは,【607年に/[聖徳太子]が/小野妹子を/隋に遣わし/有名な「日出処天子~」の国書を持って行かせた】と言われてきました。

その事柄を記した史料は2点あります。

(1)『日本書紀』と(2)『隋書』東夷伝倭国の条(一般的に『隋書』倭国伝。なお,“倭”字,正しくは人偏に“妥”)です。

(1)は国内史料,そして,(2)は国外史料です。

(1)には,
607年に/[推古天皇]が/小野妹子を/[大唐]に遣わしたとありますが,[国書を持って行かせた]とは記されておりません。

一方,(2)には,
607年に/[倭国王・阿毎多利思北(比)孤]が/使い(不明)を/隋に遣わし/「日出処天子~」の国書を持って行かせたことが記されており,両者には顕著な違いが見られます。

決定的な違いは,王の性別です。

607年時点,大和では推古天皇。“女帝”です。片や“男の王”。

というわけで,明治以来学校教育では(1)と(2)を足して,2で割った,【607年に/[聖徳太子]が/小野妹子を/[隋]に遣わし/有名な[国書]を持って行かせた】と教えてきたのです。

そして,国書の文言(日出処天子~)の故に【聖徳太子は“対等”外交を行なった】と主張するのです。

しかしながら,大きな問題は,その大事な国書のことが,わが国の正史『日本書紀』に記されていないことです。

◆(2)には最初に倭国の地理が書かれています。

“東西南北,各(オノオノ)海に至る”とあり,この国が島であるという事を明示しています。

さらに,中ほどにこの国にある山の名が記されています。

なんと,“阿蘇山”ありとあるのです。

つまり,あの有名な国書を持って行かせた王は(大和のある本州島でなく)【阿蘇山のある“九州島”に住んでいた】のです。

これは,いったいどういうことなのでしょう。

◆実は,古代(7世紀末)の日本列島には複数の国(大和日本国と九州倭国と)があり,607年に,それぞれ別に“遣隋使”を派遣したということなのです。

そして,日本国のは『日本書紀』に,九州倭国のは『隋書』倭国伝にそれぞれ記事が残ったということです。

2つはまったく別な事件だったのです。

◆さらに『隋書』倭国伝には,600年にも遣隋使を派遣したことが記されています。

つまり,607年の遣隋使は大和日本国では1回目,九州倭国では2回目だったということなのです。

なお,『隋書』倭国伝の末尾には“此後遂断”とあり,九州倭国が滅亡したことが記されています。

九州倭国は,663年の朝鮮半島の“白村江の戦”で百済と共に敗れ,百済は滅亡します。

九州倭国も以後国運が傾き,697年8月,大和日本国に併合されたのです。

その事を裏付けるものはいくつもありますが,中国側の史料(『旧唐書』)には,「倭国」伝と「日本国」伝の2つの伝が立てられています。

しかし,『新唐書』では「日本国」伝のみで,「倭国」伝は姿を消すのです。

◆結局,我々がこれまで正しいと思ってきた日本の歴史は,根拠のない“大本営”発表だったということです。

義務教育という制度も,言わば国家の手になる“クロスオーナーシップ”なのです。

“メディア”同様,国民をマインド・コントロールする事が可能なのです。
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