釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

古の曲水の宴

2009-05-22 07:06:54 | 歴史
庭園内を流れる小川にそって座し、上流から流れて来る杯が自分の前を流れ過ぎるまでに一首を詠む、これが曲水の宴と呼ばれるもので中国の東晋(317-420年)に始まったとされる。日本では日本書紀には485年3月に宮廷の儀式として行われたとされているが、曲水の宴の記事は続日本紀の728年の記事まで途絶えている。現代では九州の太宰府天満宮と東北の平泉毛越寺(もうつうじ)でこの曲水の宴が古式に則って行われている。もともと中国では庶民の間で行われたものが宮廷で行われるようになったものだという。従って日本へは宮廷で行うものとして入って来たもののようだ。ところでこの曲水の宴の遺構が発掘された遺跡が二カ所ある。九州久留米市の筑後国府跡とされる遺跡と東北の多賀城跡である。前者は10~11世紀ではないかとされる。後者は8世紀初めとされる。久留米市の場合筑後国府跡とされるところから発掘されていることから時代を10~11世紀とされたと思われる。しかしそもそも曲水の宴が地方国府で行われるものなのか。曲水の宴は9世紀以後は関白藤原道長のような高級貴族も行ったようだし、958年には九州太宰府でも行われたようだがこれは小野妹子を祖とする公卿小野好古が始めたものだ。とても一国府で行える儀式ではない。太宰府も本来九州の王朝があった場所の可能性が濃厚であり、多賀城跡も724年に築城されたとされているがそのころに曲水の宴が開かれたとは思えない。もともと多賀城のようなものがあったのではないか、そこで曲水の宴が行われていた可能性がある。宮城県はなぜ宮城と呼ばれるのか。宮城の由来を調べてみると多賀城が「宮城」と呼ばれていたというものがある。また鎌倉時代の古今著聞集によれば平泉衣川柵で源義家に追われた安倍貞任が馬上で義家の投げかけた下の句 衣の盾はほころびにけり に対し 年をへし糸の乱れの苦しさに と返し、敵である義家を感服させ、義家は弓を納めたという説話があるがこれなども安倍貞任に曲水の宴の心得があったのではないかと言われている。

追記:釜石市に住まわれているSHIRONEKOさんのページと許可を得てリンクさせていただきました。釜石の情報や楽しいお話が書かれています。是非訪問してあげて下さい。左欄のブックマークからリンクしています。


遠野の石碑のそばで咲いていた菖蒲

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