釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

規範のない自由

2009-08-05 07:09:50 | 文化
主に江戸時代に始まる儒教の影響で日本では第二次世界大戦が終わるまで家長制度が維持され、太平洋戦争下では隣組制度により生活面の規制が行われていた。戦後それらが一斉に廃され、人と人を繋ぐ規範らしきものがなくなった。各自各様に処する形で過ごしているがこれが本当の自由と言うものだろうか。先日米国に住まわれたことのある複数の方々のお話をお聞きしたが、米国で一軒の家に住むと日本などとは比べものにならないほどルールが厳しいそうだ。道路に面する庭の芝の長さが決められ、花壇の位置まで決められていると言う。その決まりから外れると手厳しく近隣から指摘されるそうだ。近所のパーティに呼ばれたり、呼んだりの交流もあり、呼ばれた場合は必ず出席しなければならないという。折り合いが上手く行かない相手だと呼ばなくてもいいそうだ。日本にいて想像する米国の地域社会とはひどく違っていて驚いた。米国には世界中から人が集まり、様々な国の習慣を持った人々が住む形になるため逆にルールを設ける必要を生じるのかも知れない。自由の国米国は自由を確立するするためのルールを必要としたのだろう。今の日本には自由だがルールが欠如している。このルールは法律ではない。むしろ法律は過剰なくらいだ。市民のルールが欠如している。釜石のような地方の小都市はまだいい方だろうがTVなどのメディアを介して大都市との差もこの面では少なくなって来ているのではないだろうか。乗り物や人が多く集まる場所で子供が他人に迷惑をかけていても平気でいる親や、並んだ列を無視して先頭に堂々と割り込む大人たち、いつも記している後続車を考えない右折車の在り方などを見ると基本的に考慮されなければならない公共の場での他人への配慮が欠けている。この公共の場での他人への配慮は人が生活するための基本となる一種の秩序だと思うが戦後の日本には新しいそうした秩序の軸がなくなっている。社会で人が生きて行くためには自由に伴って必ず規範が存在しなければ自由は不自由にもなりうる。規範のなくなった日本はこれからますます住みづらくなるのではないかと危惧する。

百合 小学生の集団がこの花ではなく自分たちを撮るようにピースをして通り過ぎた

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