釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

阿弖流為(あてるい)

2013-11-09 19:40:07 | 歴史
風邪がまだ抜け切らないので、今朝はゆっくり起きた。雲のほとんど見られないとてもいい天気になった。庭のモミジの一つがとてもいい感じに紅葉して来た。野紺菊と藤袴が咲いている。庭でのんびり犬と遊んでやり、日射しを楽しんだ。午後遅くになり、犬の餌を買わねばならないことを思い出し、遠野へ出かけた。ついでにいくつか買い物をした後、久しぶりに、そば粉にこだわりのある店によって蕎麦を食べて帰った。暗くなった空には星がたくさん出ていて、三日月状の月もとても綺麗だった。明日もよく晴れてくれるようだ。 『日本紀略』では京都の清水寺の大規模な建立を行なった征夷大将軍坂上田村麻呂が802年に胆沢城を築城し、蝦夷の阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)を降伏させ、京へ連れ帰り、二人の首を討つことで30年来の蝦夷討伐を終えたとする。しかし、『和田家資料4』「北斗抄 十三」の四から九にかけて書かれている坂上田村麻呂と阿弖流為両者の関係は『日本紀略』とはずいぶん違っている。当時の荒覇吐五王の中心は日本将軍(ひのもとしょうぐん)安倍國東で、阿弖流為は荒覇吐五王の一人で、母礼とともに安倍國東の四天王の一人であった。延暦二年(783年)、安倍國東は「国領を武蔵に拡め、その住居を移し」た。そのため、胆沢の住居を阿弖流為を「留守居に任じ、その知行を委せた」。「陸奥の拡領を委せたるは、阿弖流為の他、磐井母礼、飽田鬼振、閉伊悟理貴、庄内勘太、黒川頼貴、磐城松蟲等なり。是を束ねたるは阿弖流為なり」。田村麻呂は奥州へ入るのに兵を大挙して入れば、坂東に移った安倍國東の応戦は免れないと考え、「寺大工及び仏師、僧侶、織部、鍛冶、薬師、ト部らのたぐい」を連れ、「防人少かに五百人」であった。朝廷は奸計を持って、田村麻呂に「朝賜ありとて京に上洛をすすめ」させ、「その郎党五百八十六人、主なる阿弖流為及び母礼を宮中参召とて、郎党より離しめ、捕へて斬首し、河内の社山に残りし郎党もことごとく討取」った。しかし、「九死に一生を得て脱走せし磐井無津加里と称せる阿弖流為の臣、他三人、京師にさらさる阿弖流為及び母礼の首級を奪ひて、急挙坂東に走りて、鹿島神社に在りき、日本将軍安倍國治(東)に届け告げたり。」安倍國東は「大いに怒り」、首級を鹿島神社に葬り、奥州の倭人を追放し、「日本(ひのもと)領を更に東に西に押詰めて、東、安倍川より、西、糸魚川に至る地峡を日本領とて堺をなせり」とある。一方、朝廷は「その報復怖れて、坂上田村麻呂を再任候へて陸奥に赴かしむを詔を以て召せども、田村麻呂、是を辞し候。」。「倭朝奸策に怒れるは安倍氏耳ならず、田村麻呂も亦、怒りて官位を辞したり。」「安倍川より越の糸魚川に長蛇の陣にその要処に楯垣、逆茂木を施し候。」「亦、北湊の軍船、鹿島及び砂潟の津に集い候。」「蝦夷」は朝廷軍に対し万全の備えを敷いていた。「北斗抄 十三」の八で「阿弖流為及母礼之祖は山靼人なり。彼の祖は興安嶺満達に候へて、騎馬首領たり。日本将軍安倍安國に依りて帰化相成り、一族百四十人、老若男女、羽に渡り陸奥人と相成り候。爾来、安倍氏の臣とて騎馬軍師たり。」と書かれている。「北斗抄 十三」の九では阿弖流為の「幕下諸将」として母礼を含む17人の将の名が「阿弖流為軍艦」と題して書かれている。そこに「閉伊魹崎(とどがさき)十二神 荒覇吐丸」の名がある。兵の数は合わせて二万三千人と書かれている。戦わずして奸計で下したことが田村麻呂にも後味を悪くさせたのだろう。平泉町の達谷窟毘沙門堂は田村麻呂が清水寺と同じ高床式の建造物として建立している。田村麻呂所縁の毘沙門堂がいくつか東北にのこされているが、いずれも北への防備のためと説かれている。しかし、これはむしろ、田村麻呂の阿弖流為はじめ蝦夷(えみし)への鎮魂の意ではないだろうか。現在鹿島神宮の宝物殿には阿弖流為(悪路王)の首像と首桶が祀られている。阿弖流為は日本将軍である安倍國東に胆沢の地を任されたが、現在その地には奥州市埋蔵文化財調査センターがある。しかし、ここでも「アテルイ」については『続日本紀』や『日本紀略』という勝者側の記述にそった解説しか載せていない。地元に残された伝承や古文書によって、東北自らの「アテルイ」像を構築しようとする意志はなさそうだ。
庭の色付いて来たモミジ


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