釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

原風景を満喫した遠野

2012-05-06 19:19:51 | 文化
今朝は日が射していて、小鳥たちのさえずりも聞こえ、気持ちのいい朝だった。犬たちに朝の食事を食べさせた後、花巻空港へ向かった。大阪から戻って来る娘を迎えに行くためだ。釜石自動車道へ入る少し手前でちょっと色の変わった桜が目に入って、もしやと思い、車を止めて、近づいてみると、やはり鬱金桜(うこんざくら)だった。家にも鉢植えで買ってあったが、どうも今年は駄目のようだったので、こうして目にすることが出来て、多少は喜んだ。今回も道路はさほど混んでおらず、予定時刻より20分ほど早く空港へ着いた。花巻近辺ではもう田植えが始まっており、水田に水を張っているところも多かった。桜は花巻では大部分が終わっている。娘を車に乗せて、大阪でのカウンセリングの講義の話などを聞かせてもらった。中でもちょっと、と頭をかしげる話が印象に残った。東京のカウンセリングスクールでの話だが、ある幼稚園で、子供たちが昼食を摂る前に、「いただきます」とごく普通に言っていたが、親から抗議があったそうだ。毎月、ちゃんとお金を払っているのだから、「いただきます」と子供に言わせるのはおかしい、と言う抗議だった。この抗議に対して幼稚園側は結局昼食前に子供たちが「いただきます」と言うのを止めたと言う。抗議をした親も親だが、止めた幼稚園の対応にも首を傾げる。花巻で連休など関係なく、稲を育てるために田仕事をしていた農家の人たちがいた。我々が日常口にする米はこうした人たちの手で長い時間をかけて作られている。自然の恵みの一つでもある。米が口に入るまでには親の働きも含めて、多くの人の支えがある。そうした人たちや自然への感謝を込めて「いただきます」と言うのは実際に言葉を出すかどうか、は別として大事なことではないだろうか。小さな子供たちであれば、それを言葉に出すことも場合にはよっては必要だと思う。親自体がそのあたりをまったく理解しておらず、お金を払った、その対価として昼食を食べることは当然だと言う考えしかない。幼稚園側に対して有り難く「いただきます」と言わせている、としか考えていない。抗議を受けた幼稚園側も、何故、「いただきます」と子供たちに言わせて来たのか、十分理解していない。現代はこうした事例が幼稚園や学校でずいぶん増えて来ているのではないかと思う。こうした短絡的な発想しか持ち得ない親が増えて来ているのではないか。人の社会の基本的な部分が崩壊しているように思う。そんな話をしながら遠野まで戻って、遠野の猿ヶ石川沿いの桜並木で車を止めて、少し歩いた。とても気持ちがいいのでどこかでのんびり昼食を摂ろうと言うことになり、遠野の市街地まで戻って、弁当を買い、先日見つけた早瀬川沿いの桜並木へ行った。タンポポが咲く休耕田のそばに車を止めて、車の窓を開けるといい風が入って来る。目の前には桜の並木が続き、ウグイスや雉(きじ)の鳴き声まで聞こえて来る。誰も人のいないこれだけの景色をたっぷりと味わえることにそれこそ感謝したくなる。都会ではとても味わえないだろう。都会に仮にこれだけの環境があれば、人で一杯になってしまっているだろう。食事後もしばらくそこでのんびりしてから、青笹の喜清院の枝垂れ桜と荒神社を娘に見せてから釜石へ帰って来た。釜石は朝とは打って変わって雲がたくさん出ていて、そのうち雷が激しくなり、雨になった。
遠野猿ヶ石川沿いの桜並木

遠野猿ヶ石川沿いの桜並木

遠野早瀬川沿いの堤の桜並木 緑の絨毯にタンポポが色を添える

遠野青笹の喜清院の枝垂れ桜

遠野青笹の荒神社 まだ田植えの準備がされていなかった

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