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釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで17年6ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

人と犬の老老介護

2017-06-17 19:24:28 | 文化
昨年は東北の梅雨入りは6月13日だった。今年は6月に入り、ほとんどが雨や曇天で、一昨夜は激しい雨と雷があった。昨日も日中に一時的に激しく雨が降った。今日は曇天だ。ここのところ連日のように釜石では熊の目撃情報が流されている。山よりも里近くが簡単に食物が得られることを知った熊が毎年出没するのだろう。人は熊を恐れるが、熊もまた人を恐れる。互いの恐怖心が事故に繋がる。 我が家の1頭だけ残った犬、ベルジアン・タービュレンは14歳と9ヶ月になる。大型犬としてはかなりの高齢になる。今年の1月まではそれまでと何ら変わりなく見えていた。しかし、2月に入ると突然のように後ろ足の筋力が落ち、足の運びが悪くなった。それでも4日前まではとても遅い歩行でいつもの散歩コースを歩けていた。それが4日前にはようやく家の周囲を回る程度しか歩けなくなり、翌日にはそれすら歩けなくなった。食欲だけは少し落ちてはいるが維持出来ている。雷が激しくなった一昨日には寝返りもままならず、夜半に何度も起こされた。全くの寝たきり老犬になってしまった。犬の様子を見ていると、老化は人と同じだと痛感する。最初に足に来る。犬だと後ろ足になる。動けなくなった大型犬は、重さがあるので、こちらも力を強いられる。人と違って、何をして欲しいのか理解出来ないことが、また介護を難しくする。これまでいつも心を和ませてくれて来た家族同様の存在なので、最期まで面倒を見てやるつもりだが、何を欲しているのか分からないと、十分な介護とは言えない。一日に可能な限りの寝返りやオムツやシーツの交換をしてやる程度しか出来ないが。たまに自力で寝返りを打とうとするが、結局は出来なくて、諦めたその目がとても哀れに見える。何度か腰を持ち上げて、立たせてもやるが、腰に手を添えてやらなければ、すぐに倒れてしまう。一説では犬は1年を過ぎると、毎年4歳ずつ年を重ねると言われる。3ヶ月が人の1年に相当することになる。それだけに老化の進みも人以上に早いのだろう。
クリオネに似た連鷺草(つれさぎそう)

82歳のゲームソフト開発者

2017-06-06 19:18:57 | 文化
子供が小学校へ入り、パソコンを使うようになり、子供のために家でも初めてパソコンを買った。Windows95の時代だ。以前から友人にパソコン、特にMac、Macintoshを勧められていた。しかし、子供が学校ではWindowsを使っていたので、Windowsにした。子供の使い方は乱暴なので、すぐにパソコンが動かなくなってしまう。止むを得ず、本を買って、パソコンの知識を得ることにした。修復が出来るようにはなったが、次第に使いやすいと勧められていたMacに惹かれ、自分用にMacを購入した。使ってみると、確かにWindowsよりもMacの方が使いやすく、不具合も簡単に修復出来る。たちまちパソコンの虜になった。撮った子供たちの写真を加工して、子供に見せると、とても喜んでくれた。パソコン熱が高じて、自分でもパソコンを組み立てることまでやってしまった。最近はその熱もかなり冷めてしまったが、82歳の女性がiPhone用のゲームソフトを開発した、との記事を読んで、驚かされた。米国時間6月5日からApple社が世界開発者会議「WWDC2017」を開催する。世界中から5000人を超える開発者が集まり、Apple社が開発中のソフトウエアの情報や今後の技術的な問題解決計画について共有する年に一度の重要な会議だ。1500ドルの参加費を要するが、Apple社は開発者を伸ばすためにその参加費を免除するスカラシップ(奨学金)制度を設け、毎年百人以上を免除して来た。今回はそのスカラシップを受けた最年少が10歳のオーストラリアの少年だ。最高齢が日本の82歳の女性である。彼女は高校を卒業後、銀行勤めをして、親の介護のために退職し、介護の合間を自分の時間として使うために、60歳で初めてパソコンに触れ、独学で知識を習得し、やがてMicrosoftの表計算ソフトExcelを使って、日本の編み物模様を描き出す、Excel Artを生み出し、Microsoftに賞賛された。今回のApple社のイベントに参加出来るきっかけとなったゲームソフトは、プログラミングを習って、わずか5ヶ月で作り上げた高齢者でもiPhoneで楽しめるゲームソフトだ。パソコンを習得する傍らで、ネットを介して、高齢者が集えるコミュニティーの立ち上げでも中心になっている。これからも高齢者が使いやすく、楽しめるパソコンやスマートフォンのソフトを開発したいと、意欲を見せている。Apple社のCEOも高齢者への視点を改めて認識させられたようだ。
アヤメ

選択、決断

2017-06-05 19:17:43 | 文化
5月は素晴らしい五月晴れも見られたが、下旬になると、曇天や小雨が多くなり、6月に入ってもそんな状態が続いている。週末、近所を散歩していると、あちこちの家々でアヤメが咲いていた。ある家の庭先では山藤が何本か植えられており、その1本が花を開かせ始めていた。市が植えた街路樹にも花を咲かせるものがあり、この時期はハナミズキとそれに似たヤマボウシの両方が咲く。一見すると、よく見かけるハナミズキのようだが、花びらを見ると、違っている。ハナミズキは花びらに丸味があるが、ヤマボウシは花びらの先端が尖っている。日本の山野に古来からあるのはヤマボウシだ。しかし、一般には家庭ではハナミズキの方が多く植えられている。 仕事でも家庭でも日常的に人は何がしかの選択や決断を迫られている。ほとんど無意識にそれを行なっていたり、迷ったり、悩んだりした後にそれを行うこともある。選択も決断も結果は一つであり、その他は失ったり、捨てることになる。唯一の時間に複数同時に進行させることは出来ない。選択も決断も共に厳密には責任を伴う。結果はうまく行かないかも知れない。しかし、たとえうまく行かなくとも、その結果を受け入れるしかない。自分にとって重要であれば、あるほど迷ったり、悩んだりもする。それでもどこかで選択や決断を迫られる。迷いや悩みをいつまでも引きずってはいられない。いくつもの視点から状況を考え、時には人の意見をも考慮し、最後は自分の責任で、選んだり、決断するしかない。失うものや捨てるものがとても重いこともある。それを知りながらも、どこかで決着を付けざるを得ない。新たな前進のためには、避けて通れない。時はもう同じものはやって来ない。風景写真を撮っていても、それをよく感じる。いくつかのポジションを試して、撮る瞬間はベストのポジションだと決めて撮る。しかし、撮った写真を後で見直して見ると、後悔することもある。後悔しても撮った時間には戻れない。撮ってしまった写真だけを受け入れるしかない。失った、捨てたポジションがベストである可能性があったとしても。迷いや悩みをいつまでも引きずることに比べれば、新たな選択、決断により得られるものの方が積極的になれることは間違いないように思う。
早池峰薄雪草(エーデルワイス)

充実した週末

2017-05-29 19:11:25 | 文化
27日土曜は釜石では小雨から曇天であったが、住田町の赤羽根峠にある産直で、「かっこ花祭り」があるため、娘と出かけた。住田町ではカッコウが鳴く頃に咲く敦盛草(あつもりそう)を「かっこ花」と呼ぶ。毎年5月最後の土曜日に開かれている。住田町が力を入れている敦盛草の保護繁殖の一環で、敦盛草の直売と育て方の実践講習が行われる。旧居で育てていた敦盛草が4年目で芽を出さなくなってしまった。株分けを怠ったためかも知れない。新たな敦盛草を購入し、再度挑戦することにした。小さな産直だが、娘はむしろこちらを楽しんでいた。住田町側へ少し下った所の山野草専門店にも立ち寄った。そこでも2~3の山野草を購入し、釜石へ来て初めて住田町の滝観洞へ向かった。洞窟はあまり好きではないが、娘のたっての希望で付き合うことになった。滝観洞は通路が狭く、水滴がかなり落ちても来るため、洞窟へ入る前にヘルメットと長靴、合羽を貸し出してくれる。奥行きが700mほどで、地下の水路が長い時間をかけて、岩を侵食して洞窟となった。何億年前かの化石もいくつか出ている。最奥には「日本一」とされる洞窟内の滝がある。実際にはさらに奥が続いているが、大震災時の地震で崩れてしまった。そこは再開の目処が立っていない。途中の岩場に何度もヘルメットをぶっつけてしまった。滝は、しかし、思ったほどには大きくはなく、寒さが応えて、帰路は早足で歩いた。洞窟を出て、ヒグラシがもう鳴いている清流をしばらく眺めていた。名物の「流しそば」を食べることにしたが、水の流れる筒が金属であるのが、興ざめであった。以前は竹の筒だったそうだが。ここはそうめんではなく、以前から蕎麦が使われているようだ。昨日28日は、平泉の毛越寺へ出かけた。毛越寺で午後1時から行われる「曲水の宴」の前に、毛越寺近くのいつもの曲水亭で娘の好物である「前沢牛の柳川定食」を食べた。昼食後、毛越寺につくと、すでに多くの観客と報道陣が詰め掛けていた。東北で発掘された貴重な「曲水の宴」遺構だが、残念ながら、そこでの衣装は京の平安貴族のそれであった。奥州藤原氏の遺構として、当時の奥州藤原氏の衣装が京と同じとは思えなかった。京よりもはるかに国外との取引が盛んであった藤原氏は京とは異なる衣装ではなかったろうか。金の産出を背景に京と並ぶ都市を築いていた。「曲水の宴」の後、毛越寺に近い、娘がお気に入りの達谷窟(たっこくのいわや)へも立ち寄った。坂上田村麻呂によって、断崖の洞窟に毘沙門堂が建立されたとされる。洞窟には悪逆を尽くした蝦夷の悪路王が住み、それを田村麻呂が成敗し、鎮魂のために清水寺と同じく、支柱を使った高床式の毘沙門堂が建立された。おそらく悪路王とは阿弖流為(あてるい)であったと思われる。京の朝廷側に立って、悪者扱いされたのだろう。
敦盛草の育て方を講習してくれている

小さな赤羽根産直

滝観洞

滝はさらに上から落ちて来ている

流し蕎麦

対岸で行われる毛越寺の「曲水の宴」

「曲水の宴」

十二単の女官

達谷窟の毘沙門堂

岩をくり抜いて建てられている

近くの断崖にも仏像が彫られている

杜若(かきつばた)と弁天堂

老犬

2017-05-27 19:21:02 | 文化
2002年9月に生まれた我が家のベルギーシェパードは今年2月に入り、急激に後足が弱ってしまった。今は自力では立ち上がれない。腰を持ち上げてやると、ようやく立って、歩くことが出来る。立ち上げてやると、朝晩の散歩は可能なので、まだ良い方なのかも知れない。人も動物も加齢とともに足が弱まるのは同じようだ。一度は獣医に見せたが、効果は何もなかった。いつまでも立った姿勢ではいられないので、楽な姿勢で横になると、もう自力では立ち上がれない。こちらが家にいる間は良いが、いない時は悲しい声で啼いている。夜間も水を飲むために動こうとするが、やはり立ち上がれない。毎晩、夜中には吠え声で起こされる。今朝も3時半に起こされてしまった。そんな時間に起こされると、もう眠気も失せて、そのまま起きてしまった。いつものように腰を持ち上げて、立たせてやると、水をたくさん飲んでいた。しかし、しばらくすると、また横になって、休んでいる。動物も長く飼っていると、もう家族の一員だ。悲しく啼く声を聞けば、放置は出来ない。人の場合は、家族が介護出来ない状況だと、介護施設がある。とは言え、本当は本人にとって、そうした施設よりも、自分の住んでいた家で家族に介護されるのが一番良いのだろうが。ここ数年、米国をはじめ、「老化」の研究が急速に進んで来てはいる。遺伝子レベルで老化の原因も明らかになりつつある。マウスの実験での若返りも観察されている。何年か後には人も若返りが可能になるのかも知れないが、仮にそれが可能だとすると、それはそれでまた人類は大きな問題を抱えることになる。地球は人口の増加による食料問題が解決されていない。エネルギー消費にも問題がある。そして何よりも人の生き方を大きく左右するだろう。急速にやって来た犬の老いに戸惑いながら、自分の老いや人の老いを考えてしまう。
犬と同じ目線で接する娘

SL銀河

2017-05-15 19:13:07 | 文化
ここ数日、毎日小雨が降り続いている。今日は小雨だけでなく、周辺の山々には霧がかかっている。小雨になると夜間も気温が下がる。一時は暖房も必要がなくなっていたが、小雨が続くとやはり暖房を入れざるを得なくなる。遅い山桜も散り始め、すっかり新緑の五月になってしまった。職場の裏山では小雨の中で、新緑の陰で3匹のリスが木々を渡り歩いていた。 JR東日本はC58 239を復元した「SL銀河」を2014年から花巻〜釜石間に運行するようになった。震災復興の一助としたのだろう。今年も4月29日に盛岡を出発して花巻に至り、その後は主に土日を使って、土曜は花巻から釜石に向かい、翌日は釜石から花巻に向かうスケジュールで運行が始まった。家にいても汽笛が鳴ると、郷愁を覚える。もともと釜石〜花巻間のJRは多くの山間部を走り、とても時間がかかる。雨や風が少し強いと、すぐに運行が停止される区間だ。たまには熊や鹿のために停車して、余計な時間を要することもある。とてもローカルな鉄路で、各駅停車が多く、周囲の自然を楽しみながら、のんびり出来るのがいいのかも知れない。釜石市街を走る「SL銀河」はあまり風情を感じさせることがないが、さすがに遠野の田園地帯を走ると、とても趣がある。はるか昔にタイムスリップしたような気分になる。東北はかって、次男以下の多くの男性がこうしたSLに乗って、何時間もかけて東京へ出て行った。中には集団就職する組もあった。遠野を走るSLを見ていると、そんな人たちを載せて、この田園地帯を同じく走っていたのだろうと想像してしまう。当時は終着駅は上野であった。それを歌った歌謡曲もあったように思う。「SL銀河」の車窓には小さな子供の姿がある。ゲーム世代の子供にとって、SLはどのように感じるのだろう。五月のこの時期は各所の畑地で菜の花が咲く。風に乗って、その菜の花の香りが漂って来る。
遠野の田園地帯を走る「SL銀河」

旧道

2017-04-28 19:13:54 | 文化
釜石の海岸に近い旧商店街から遠野の旧市街地まで、旧仙人峠を通って行くと43Kmある。2007年3月に18.4 kmの遠野住田ICと釜石西IC間が開通するまでは、その43Kmを利用していた。個人の利用する自動車が普及する前はその道を人が徒歩で行き来していた。家の近くには「定内の一里塚」がある。5~6mの土盛りがされており、ほぼ原型が留められている。里程標の始まりは、奥州藤原氏による。全国的に整備されたのは江戸時代になってからだ。徒歩での旅では、距離を里程標を確認することで、どこまで進んだかを知ることが出来る。現在の車の旅では進行距離は無論、道筋までナビゲーションしてもらえる。「定内の一里塚」は国道とは違った住宅街を走る道路ぎわにある。この道路が旧道である。甲子川沿いの両岸に住宅街が広がるが、この住宅街がある位置も、かっては川であった。川筋は時代ごとに変わり、従って、遠野に続く道も時代ごとに変化していた。今でも釜石は陸の孤島と言われる時があるが、自動車道がない時代にはなおさらその感が強かっただろう。舗装道路が整備される以前の旧仙人峠は難所の一つであったようだ。特に冬季の往来は大変だったと思われる。平地でこそ釜石は雪が降らないが、山中では必ず積雪が見られたはずだ。先日、遠野からの帰りに、もう雪も溶けた旧仙人峠越えで、釜石へ帰って来たが、暗くなっていて、一瞬動物が目前に迫ったが、とてもブレーキが間に合わず、はねてしまった。狸であったようだ。これまでは轢かれた狸だけを見て来たが、自分でもとうとうやってしまった。遠野側でもやはり轢かれた狸を見ていたのだが。猫もよく轢かれているのを見ることがあり、狸も猫も行動が似ていて、一瞬、すくんでしまって敏捷に回避出来ないようだ。徒歩の時代であればこうした動物の被害もなかっただろう。東北は自然が豊かだが、その豊かな自然の中で生息する動物たちには身近な危険が隣り合わせだ。岩手のような広い土地では山中を走る道路はたくさんある。その道を通らなければ隣の市へも行けない。その点ではトンネルの多い自動車道が出来たことは動物たちには、少しはいいのかも知れない。もちろん自動車道でもたまには轢かれた動物を見かけるが。道を行くこと一つを考えても、便利さと命の引き換えがある。
岩団扇

三陸沿岸

2017-04-18 19:11:26 | 文化
三陸沿岸部はかっては閉伊郡と呼ばれる地域であった。明治期の閉伊郡には北は普代村から南は釜石までと遠野も含まれていた。797年に完成した『続日本紀』(しょくにほんぎ)では715年の記事に「閇村」があり、840年に完成した『日本後紀』(にほんこうき)では811年の記事に「幣伊村」の記事がある。山田町の荒神社には1220年没とされる閉伊頼基の墓所がある。頼基の出自については定かではなく、源為朝の三男と言われたり、源頼朝による奥州藤原氏の滅亡に論功のあった宇多源氏の流れを汲む佐々木氏の一族ではないかとも言われる。支配領域が閉伊であったためにその地の名を名乗ったのだろう。現在、このかっての閉伊の地域内である山田町、大槌町、釜石には伝統民芸として、虎舞が伝わる。明らかに沿岸部であり、漁師の民芸である。この虎舞に対して内陸では遠野、花巻、奥州市などに鹿踊(ししおどり)が伝わり、農民の民芸である。虎舞は他にも大船渡市や宮城県気仙沼市にも伝わるが、これらはやや舞に違いがあるようだ。釜石などの虎舞の由来は閉伊頼基が兵士の士気を鼓舞するために舞わせたとするものや、大槌町では江戸時代中期の沿岸部の豪商で、吉里吉里善兵衛で知られる前川善兵衛助友が近松門左衛門の浄瑠璃「国姓爺合戦」から独自に創作した舞だとも言われる。鹿踊にしても虎舞にしても民俗芸能はその由来を記したものが残されておらず、発祥が定かではない。東北は古くは「蝦夷」の支配地であり、その後に和人が侵入したため、様々な歴史が曖昧であることが多い。ある時期には無法地帯ですらあった。2011年の地震と津波と同規模であったと思われる869年の貞観地震(じょうがんじしん)ではおそらく沿岸部は壊滅状態になっていただろう。従って、その後には他地域から新たな人たちが移り住み、以前の沿岸部の伝承が薄れたりもしただろう。人為的な滅びと自然による滅びの重なった地域がある意味で三陸の沿岸部であると見ることが出来る。そして新たに移り住んだ人たちによって支えられて来たとも言える。釜石などは太平洋戦争でも艦砲射撃で壊滅的な打撃を受けているが、それでも再興され、一時期は県下でも最高に栄えていたのだ。
翁草(おきなぐさ)

釜石の名所

2017-04-10 19:14:46 | 文化
週末は曇天でが続いたが、今日は朝から日射しが出て、青空が広がり春めいた陽気になった。家の近所を散歩していると、家々の庭先に梅が咲いている。よく見ると、桜の木がない。個人の家の庭先も住宅地では狭いため、大きくなる桜よりも比較的小さく留められる梅を植えるのかも知れない。塀のない家では、庭に網をかけているところがある。夜間に鹿たちが住宅街へも入り込み、庭の植物を食べてしまうためだ。昨日は久しぶりに遠野の風の丘や遠野市上郷の夢産直へ行ってみた。もう山野草のいくつかが出ていた。自動車道の一部開通で、風の丘には立ち寄る人も少なくなるのかも知れないと思っていたが、以前と変わりなく、たくさんの人たちが来ていた。風の丘からは遠野を流れ、北上川につながる猿ケ石川を見ることが出来るが、その川岸には名所の桜並木がある。早ければ、釜石では今週末くらいに桜が咲くだろうが、遠野は県内では一番遅くなる。桜や山野草のことを考えていると、再び釜石の観光のことを考えてしまった。遠野は伝統民俗や農家が多いせいで、こうして風の丘のような産直を上手く観光に役立てている。しかし、釜石はせっかく自然に溢れているにもかかわらず、その自然を活かせていない。釜石大観音や鉄の歴史館があるだけであり、世界遺産となった橋野の遺跡もさほど観光には期待出来ないだろう。ただ遺跡があるばかりだ。釜石周辺の山には未利用の広大な牧場跡がある。こうした土地と植物に適した気候を利用すれば、多くの人を惹きつける花木や山野草の一大センターを作ることが出来る。福島には個人が長い時間をかけて作った花見山がある。今では毎年自家用車では近づけないほどの混雑を見せる観光地となっている。冬以外は常に季節の花が咲き、そこを訪れば、山海の食も味わえるような名所が作れるだろう。住民にも菊や五月を見事に育てる方々もいる。何よりも東北は花が長く咲いている。2019年のラグビーのW杯開催に向けて、自動車道が急ピッチで作られているが、それが終われば、もうめぼしいものがなくなる。食と花の名所が出来れば、自動車道を利用して県内だけでなく、県外からさえも多くの観光客を期待出来る。町興しは地元の利点をフルに利用したものでなければ、永続しない。観光はリピーターが期待出来るようなものである必要がある。釜石周辺には豊かな海と山の幸がある。釜石の気候の中で育つ豊富で珍しい山野草もある。花木のほとんども見事な花を咲かせる。これほど条件が揃っていて、地元の人が気付いていない。釜石の伝統民俗である虎舞などもそこの会場で舞えば、観光客にも興味を持たれるだろう。いつか釜石が気付いてくれることを期待したいが。
薬師公園の梅

冬の暖房

2017-03-22 19:13:11 | 文化
もう春の到来を告げる陽気になって来たが、この冬は暖房について色々考えさせられた。職場が用意してくれた新居はオール電化で、暖房も深夜電力を利用した電気暖房だ。おかげで四六時中暖かい。石油ストーブとは異なり、部屋の空気も変に乾燥していない。しかし、あくまで電力に頼ったもので、震災直後のように電力が断たれると、機能しなくなる。電力はやはりソーラー技術のさらなる開発で、1軒の使用電力の全てを賄えるような状態になって欲しい。風呂や給湯もやはり夜間電力を使っているが、これらも電力が断たれると、同じく機能しなくなる。現在、世界でもまだ石油や天然ガスといった化石燃料を使った火力発電が主流だが、この火力発電の発電効率は平均で50%程度とされる。それに対して、ソーラー発電は20%前後に留まり、太陽エネルギーを十分に生かし切れていない。新エネルギー・産業技術総合開発機構の太陽光発電ロードマップでは、2020年までに25%の発電効率実現を目指すとしており、液晶パネルで失敗したシャープでは、変換効率30%を超える太陽光パネルの開発がすでに研究段階で達成されていると言う。さらに、現在はまだ半導体を使ったソーラーパネルが主流だが、量子を用いたパネルの研究も行われており、発電効率が40%に達するソーラーパネルの実現も視野に入って来てるようだ。太陽エネルーギーを電気に変換するパネルや、変換された電気を伝え、蓄えるコードや蓄電器などの効率化も進められれば、10年くらいで、安価で効率の良いソーラーパネルを使った家庭用電力が実用化される可能性もあるだろう。その一方で、暖房では、震災時に味わった薪ストーブの暖かさも忘れられない。薪ストーブもやはり、空気が必要以上に乾燥することがない。輻射熱によって空間が温められる。薪を燃やし始めて、部屋が暖められるまでに時間を要するが、一度暖められると、長く暖かさが保たれる。薪を準備すると言う手間がかかるが、人間が暖をとる最も原始的で、かつ人間が長く接して来た暖房手段にも近い。薪ストーブは利用者が少ないために、コスト的には決して安くはない。しかし、改良されたいくつかの薪ストーブも作られているようだ。暖房に関しては、環境に優しいソーラーパネルよりも、薪ストーブに惹かれる。夜間電力による電気暖房は便利だが、存在感がなさ過ぎるように思う。
紅梅