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釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで17年6ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

クルミ

2017-08-28 19:20:35 | 文化
先週金曜と土曜は今夏としては珍しく、気温が30度を超えた。久しぶりの快晴であった昨日は30度を切った。今日は昼の26度が最高だ。最近は朝晩は20度を切ることが多く、裏の空き家の庭では夜になるとお盆前からコオロギが鳴いている。朝晩の風はもうすっかり秋の風になっている。ススキの穂も風に揺れるようになった。夏らしい夏はほとんどなく過ぎてしまった。街路樹のナナカマドも赤い実が目立つようになっている。職場の裏山では花の盛りの百日紅が緑の中で目立つ。木々の中に5〜6本のクルミの木があり、その1本にはリスが巣を作っている。よく見ると、クルミがたくさん実を付けている。職場の駐車場でも風か雨で落ちたクルミの実を見つけた。日本で自生するクルミはほとんどがオニグルミで、その変種であるヒメグルミの2種になる。クルミは野生動物ではリスとネズミだけが食べるそうだが、以前、裏山で子グマがクルミの木に登っているのを見つけたことがある。クマもやはりクルミを食べるようだ。縄文人もクルミは食用として活用しており、三内丸山遺跡からはクルミを栽培していたことが明らかになっている。現在、一般に食用に使われているクルミは別種で、シナノグルミとかテウチグルミと呼ばれるクルミが使われている。オニグルミは殻が非常に固く、表面に凸凹があり、鬼の面にたとえて付けられた名だと言う。クルミは重量の半分が多価不飽和脂肪酸でリノール酸とαリノレン酸を多く含む。αリノレン酸はオメガ3脂肪酸の一種で、ナッツ類ではずば抜けている。αリノレン酸の一部はEPAやDHAに変換され、脂質異常や血圧、血糖を改善し、血管を健康に保ち、老化を予防する。最近では認知症や乳癌、肺癌、大腸癌などの癌の予防にも効果が報告されている。さらにクルミにはビタミンE、カロテノイド(βカロチンなど)、メラトニン、ポリフェノールのような抗酸化成分がたくさん含まれており、やはり体の老化を抑えてくれる。人の病は9割は毎日の生活から来るものだろう。食事、運動、睡眠、入浴、ストレスなどが問題となって、何らかの病を生み出してしまう。老化と言う体の現象は止めることは出来ないが、遅らせることは可能だろう。かって日本人は身近に得られるものを食べて、健康を維持していた。身近な自然界には人の体に有用なものがたくさんあった。
オニグルミ

河川敷の鹿

2017-08-25 19:21:52 | 文化
冬は山には餌が少なくなるため、鹿たちは住宅街まで入り込んで来る。新居の裏の空き家の庭で何度か鹿を見かけた。夏になっても甲子川の河川敷だけはよく鹿を見かける。夏草が茂り、楽に餌を摂ることが出来るからだろう。日本には北海道から沖縄までニホンジカが生息するが、日本に固有の種ではない。中国、ロシア、北朝鮮などの鹿と基本的には同じである。しかし、日本では北から南までの地域により7つの亜種がいる。北の鹿ほど大きく、北海道のエゾジカが最大で、最も南の沖縄県の慶良間諸島に生息する亜種、ケラマジカの5倍の体重がある。釜石で見る鹿よりもエゾジカはずっと大きい。鹿はおそらく大陸から分離し、日本列島が形成された初期から列島に生息していたのだろう。列島を次第に南下して分布するようになり、南下するに従い小さくなって行ったと思われる。沖縄の鹿は江戸時代に移入されたようだ。縄文人は食用動物として、鹿と猪を狩っていた。しかし、猪の方は霊的な存在と見ていたようで、猪の土製像が発掘されている。鹿はもっぱら生活の糧であり、肉だけでなく、内臓や骨、皮全てが利用されている。鹿が霊的な存在となったのは弥生時代以後のようだ。アイヌ語では鹿はユクYukと呼ばれるが、本来は肉食の対象となる動物全てを表していたようだ。肉はカムkamと言う。日本では鹿を「シシ」とも言う。「ししおどし」「ししおどり」など。この「しし」は本来肉を表す。鹿肉は「かのしし」、猪の肉は「いのしし」と呼んでいたそうだ。従って、鹿は「か」であり、猪は「い」である。縄文時代は肉は主に鹿の肉が多く、アイヌ語の肉を表すカムkamが「か」の語源ではないだろうか。和田家文書では、かって日本列島へ最初に阿蘇部族がやって来たが、後に少し文化の進んだ津保化族がやって来て、支配を広げている。この津保化族の言葉がアイヌ語に残されているのだと思う。東北に残るアイヌ語名とされるものもやはり津保化族の言葉であるように思う。四国と九州の鹿は亜種のキュウシュウジカである。万葉集には68首の鹿を詠んだ歌がある。この万葉集は本来九州王朝の歌集である。柿本人麻呂も万葉集で鹿を詠った歌がある。「夏野行く、牡鹿の角の、束の間も、妹が心を忘れて思へや」。人麻呂は「柿本朝臣人麻呂」であり、「朝臣」は臣下では最高位である。『古今和歌集』では正三位とされる。にもかかわらず、人麻呂は古事記や日本書紀の正史には登場しない。人麻呂は九州王朝の臣下であった。夏の雄鹿の角はまだ短く、短いわずかの間も妻の気持ちを忘れてはいない。当時は釜石のように全国どこでも身近に鹿が見られていたのだろう。
河川敷に3頭の鹿がいた

長寿と長寿と生活

2017-08-03 19:17:16 | 文化
100歳以上の健康長寿者が多い長寿村と言われる地域が世界に3箇所ある。黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス、パキスタン北部のフンザ、南米のビルカバンバである。いずれも人々が自然と共生した地域で、現代人のストレスとは無縁である。しかし、標高1500mのアンデス山中にある南米エクアドルのビルカバンバは自動車道の開通などで、大きく環境が変化して来ている。外国からの移住者も2割以上になり、欧米の食物が増加し、かっては120歳、130歳の健康な人がいたが、そうした人たちが減りつつある。北で中国やアフガニスタンと接する辺境の地であるフンザは面積が秋田県くらいの地域で、1974年までは小さな王国であった。美しい景観のフンザ渓谷に春は杏の花が咲き乱れる。人々の豊かさは、その杏の木を何本所有しているか、で決まるそうだ。一説では宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」の「風の谷」のモデルとも言われる。旅行者には「桃源郷」として知られる。ここに住む人たちは杏の種を食べるようで、それが長寿をもたらせていると考える研究者がいるようだ。自分の住む土地に必要な食用の植物を植え、その実りを糧とする。日本の平均寿命は確かに伸びて来たが、問題はこれら3つの地域と異なり、高齢化とともに癌を代表とする病気を抱える人も多いことだ。長寿村では単に長寿であるだけではなく、みんなが元気で健康なことだ。特別高度医療施設も必要ではない。人間の本来の寿命は120歳だとする研究者もいる。だとすると、その本来の寿命を長寿村のように、健康に全う出来ないのは何故なのか。多くの研究者が指摘するのは、やはり食べ物とストレスフリーの環境である。日本人の平均寿命の伸びは、栄養と医療によってもたらされた。しかし、同時にストレス社会と欧米の食べ物が導入されたことで、病気を持つ人も急増して来た。適度な肉体的疲労が欠如していることも影響しているだろう。今、研究者の間では長寿遺伝子の研究が盛んになっている。近い将来、人はさらに寿命を伸ばして行くのかも知れない。ただその時に果たして、健康でいられるのかどうかが問題だ。認知症を患ったり、寝たきりになって、寿命だけが伸びても果たして生きる意味があるのだろうか。日本では寝たきりで、食事さえ自分の口では食べられなくなった人も、管を通して流動食を与えられることで平均寿命の伸びを支えている。
鬼百合

海辺と古神

2017-07-31 19:13:59 | 文化
ここ数日は曇天が続いている。今日も朝から空を雲が覆っていた。今日は室内にいるよりも外の方が風が吹いて涼しいくらいだった。職場の裏山の葛の葉がかなり広がって来た。来月には赤紫の花が見られるだろう。相変わらず今日もシジュウカラが群れでやって来た。外が涼しいせいか、今日は蝉の声も聴こえなかった。休日は久しぶりに、沿岸沿いに釜石の北になる山田町方面へ出かけた。東日本大震災で被災した地域を走ることになるが、釜石の両石地区も鵜住居地区も前回訪れた時よりもさらに復興工事が進んでいた。とは言え、まだまだ時間がかかりそうだ。震災前には沿岸部には海水浴の出来る綺麗な砂浜がたくさんあった。しかし、震災でその多くが消えてしまった。特に鵜住居川が流れ込む根浜海岸は2Kmに近い長い砂浜があった。今ではその片鱗が見られるだけになった。山田町には震災前から船越半島の荒神社のそばに砂浜のある海水浴場があった。今はやはり半島の付け根部の低地の復興工事で、砂浜への道も仮のものになっている。船越の名は全国に見られるが、その昔、半島を回る代わりに、半島の付け根で、船を陸揚げして、陸を横切って、反対の海からまた船を出していたために、船越の名が付いたものだ。帆船ではなく、手漕ぎの時代であろう。荒神社の砂浜は震災前とほとんど変わらず残されている。夏休みに入った子供達を連れた家族が幾組か来ていた。北海道ほどではないにしろ、海水温はあまり高くはないのだろう。泳ぐ人は少ない。外気温も高くはない。水は綺麗で、海底の岩も見える。少し離れたところに以前は海水で遊べる海浜公園のようなものがあったが、津波で壊されたようだ。荒神社はさほど被害を受けていないので、以前とあまり変わらない。この神社には以前からとても惹かれるものがあった。「荒神社」の名そのものもそうだが、奉納されている彩色された鉄剣に刻まれた「御祖大神 理久古円段」「正一位 荒神大明神」の文字だ。先日書いた紫波町の日本最北の式内社である志賀理和氣神社ですら852年に正五位下に叙されている。また、陸前高田の氷川神社には西宮に理訓許段神社、中宮に登奈孝志神社、東宮に衣太手神社の3社が祀られ、やはり852年に理訓許段神社・衣太手神社が従五位下に叙されている。荒神大明神の正一位の伝承は謎である。大船渡の尾崎神社も理訓許段神社とされ、式内社となっている。山田町の荒神社の理久古円段も大船渡、陸前高田の理訓許段もいずれも「りくこた」の神とされる。大船渡の尾崎神社には1200年前から伝わるイナウがあり、津波の中で被害を免れた。震災の翌年、北海道のアイヌの人たちがこの神社を訪れ、アイヌの祭祀で使われるイナウと同じものであるところから、被災を免れたイナウを前にアイヌの人たちが祭祀を執り行っている。「りくこた」の神、アイヌは何らかの関係があるのだろう。縄文時代の最後に列島にいた津保化族(つぼけぞく)の言葉が北海道のアイヌの人たちや東北の方言に残されているのではないかと考えている。
荒神社の前の砂浜

荒神社に奉納された鉄剣

荒神社境内に咲いていた藪萱草

気候と健康

2017-07-27 19:12:55 | 文化
三陸の漁場が豊かな理由の一つに暖流と寒流の双方が流れることだ。それらの海流のおかげで、天候も三陸沿岸部では内陸と異なる。夏は内陸よりも気温が低く、時には山背で寒く感じることさえある。冬は反対に沿岸部が暖かく、雪もほとんど積もらない。釜石の夏の朝は避暑地そのものでもある。清々しい風が吹き、近くからはウグイスの声が聴こえて来る。今月初めに飼っていた犬が死んだために、朝夕の犬の散歩がなくなったが、代わりに、日曜以外は毎朝30分ほど早足で歩いている。早い時間なので、とても涼しく、高原にいるような錯覚さえしてしまう。それでもウォーキングの半ばになると汗が出始めてしまうが。甲子川の流れやカジカガエルの声を聴きながら歩くと、心まで洗い流される。日中の職場の裏山ではヒグラシやニンニンゼミが鳴き、ウグイスの声が聴こえて来る。今日は日中の最高気温も26度で、日陰だと涼しい風が吹き、全く暑さを感じなかった。夕方には、仕事帰りに通る市街地の幹線道路は山のそばを走っており、やはりヒグラシの甲高いが物悲しい声が響いて来る。夜も晴天の日はたくさんの星が見え、やはり涼しい風が吹き、学生時代に長野県の高原地帯で合宿した時を思い出させる。加齢とともに自分の健康にますます気を付けるようになったが、この釜石の気候は植物や動物たちにいいだけではなく、人間にもとてもいいように思う。体にあまり無理を強いることがない。以前は植物など全く気にも止めなかった。しかし、釜石の植物が以前いた他の地域と違って、あまりにも長く咲くこと、また、たくさん咲く花の種類があることに驚かされた。人の健康維持には過度なストレスではなく、適度なストレスが必要だ。釜石の気候は、その意味でも暑さ、寒さが適度なストレスの範囲で止まっている。市街地のすぐそばまで山が迫っていて、排煙する工場もほとんどなく、空気もとても綺麗で、気持ちがいい。面積の広い岩手県では車がなければ移動に不便で、どうしても普段は車に乗ることが多い。それだけに、自分で意識して、運動に心がける必要がある。適度な筋力は体力だけでなく、免疫力にも関係して来る。足の動きは脳や心臓の働きとも関係しているとも言われる。気候を含めた釜石の自然は、加齢とともにますます健康維持には不可欠なものなのかも知れない。
庭で芳香を放つ山百合

産直の山野草

2017-07-13 19:19:04 | 文化
地方には産直や道の駅があるが、道の駅は自治体と国土交通省が絡んでおり、規模がそこそこ大きい一方で、値段は決して安くはない。いつも行くところは4箇所ほどだが、目的は野菜ではなく山野草だ。山野草も農家の個人が販売しているものや本格的に全国から集められたものを販売するものもある。山野草の種類と値段を見れば、その辺は判断がつく。釜石にも自動車道の入り口に道の駅が震災後に設けられた。その少し手前には以前から産直もあった。しかし、釜石のいつもの例にもれず、いずれもが中途半端だ。一度行けば、もう再び行く気にはなれない。遠野では上郷の夢産直と道の駅「風の丘」によく行く。夢産直はまさに農家の方が育てた山野草が中心で、値段も安い。風の丘もやはり農家の方が育てたものを中心に置かれているが、こちらは夢産直に比べてやや高い。種類は多いが。娘が好きな北上市の外れにある産直「あぐり夢くちない」は新鮮で素朴な野菜類や山野草が置かれている。ただ山野草ではたまに珍しいものが見られる程度だ。やはり農家の方が出されているものがある。少し距離があるためさほど頻回には行けないが、紫波町の396号線沿いにある峠の駅「紫波ふる里センター」は20年以上経つ産直で、ここではかなり山野草を専門にされている方が出されている。高価だが全国的にも珍しい山野草をよく見る。紫波町は果物の産地で、町内には産直が10箇所もある。未だに「町」のままで自立して頑張っている町だ。域地が広く、平野や丘陵地が多いので、気候的にも果物の生育に適しているのだろう。りんごやぶどうの美味しいものが安く買える。北上川を挟んで東西に町域があり、古い歴史を刻んだ町でもある。町が自立的なのはそうした歴史とも関係があるのかも知れない。ふる里センターの山野草は比較的種類も多く、他では見かけない山野草が多く置かれている。しかし、何分にも値段もそれなりだ。岩手に来て最初に惹かれた敦盛草も住田町の赤羽根産直と比べると間違いなく1.5倍以上の価格差がある。もちろん、それでもネットで売られている敦盛草に比べると安く思えるが。敦盛草や山芍薬に惹かれているが、山芍薬は残念ながら産直で見かけることがほとんどない。岩手に来るまでは、まさか自分が植物にこれほどまで興味を持つなどとは思ってもいなかった。あまりにも豊かな自然に強烈に打たれたのだろう。
山紫陽花「乙女の舞」 徳島県木沢村で採取されたことから「木沢の光」とも言われる

我が家のベルギー・シェパード(ベルジアン・タービュレン)が逝った

2017-07-03 19:10:15 | 文化
昨日の朝、飼っていたベルギー・シェパード(ベルジアン・タービュレン)が息を引き取った。朝、6時半には穏やかな呼吸をしていた。1時間後も変わりなかったが、8時前に呼吸が止まっていた。昨年秋に旧居から新居に引っ越す頃には元気にしていて、手伝いに来ていた娘とも遊んでいた。しかし、年末頃から後ろ足の動きが悪くなった。今年に入り、その傾向が強まり、2月にはもう歩けなくなってしまった。この犬種はとても繊細で、綺麗好きなため、シート上の排泄にとてもためらい、思うように動けない自分に苛立ちを感じていたようだ。そんな毎日に結局は胃潰瘍を発病させた。空腹となる夜間に痛みが強かったようだ。便色が黒くなって初めて気付かされた。薬を飲ませたが、気付くのに遅れてしまった。先週金曜の夜は哀れな声で鳴き続け、こちらも2時間しか眠れなかった。声が大きいので、玄関の中に入れてやった。しかし、朝になるとその痛みも消失したのか、悲痛な声で泣くことはなくなった。前日の夕方は少量しか食べなかったが、土曜の朝は全く食欲が失せてしまった。さらに午後には口に含んでやった水分さえも飲み込まなくなった。老衰に潰瘍が拍車をかけて衰弱させたようだ。それでも意識だけはしっかりしていて、そばに寄ると、目でこちらを追って来る。排泄をしたくなると、声は出ないが、吠えるような仕草をする。腰と肩の2箇所に歩行補助ハーネスを付けているので、それで体を持ち上げてやると、排泄をする。すぐに下のシートを取り替え、体の位置を変えてやる。土曜の夜にはもう泣くことはなく、荒い呼吸だけが目立った。時折、吠える仕草をした時に、体を持ち上げてやったが、わずかしか排泄出来なくなった。日曜の朝の7時半にはまだ目だけはこちらに向けていた。午後1時に、4年ほど前に亡くなったドイツ・シェパードと同じお寺に運び、和尚の読経とともに火葬された。読経が始まると、何故か自然に涙が流れ始めた。繊細な性格故に人に近い存在だったのかも知れない。一人取り残されたような気持ちになってしまった。人の死と同じく、その不在の感覚にはまだ慣れていないことに気付かされる。
道端に咲いていた桜草

犬の介護

2017-06-29 19:13:07 | 文化
気象庁の発表では、結局東北の梅雨入りは21日頃となったが、「頃」と付けて入りだけあって、区切りは曖昧だ。それ以前から小雨や曇天があったし、以後にも、今日のように晴れる日がある。日射しはもう初夏の日射しなので、その日射しを浴びると暑く、少し体を動かしていると汗ばんで来る。市街地周辺は気持ちのいい緑に包まれた。本来であれば、少し遠出をして、花の写真を撮りたいところだが、今は老犬の介護のためにそれが出来ない。後ろ足に続いて、前足も弱って来て、自力では寝返りも出来なくなった。食欲は、以前より少なくはなったが、それでもまだ十分ある。もともと犬は清潔好きなので、排尿をしてシートが濡れると、すぐに吠えて知らせる。最近は夜間にそれが頻繁になり、就寝中に4〜5回起こされることもある。シートを変えるたびに、姿勢も変えてやる。ただ体重が30Kg近いため、かなり腰に負担がかかる。一応は自分で体を移動させようとするが、思うように動けず、悲しい声で泣く。その後、こらえ切れずに、大きな吠え声を出して、こちらに知らせる。連日の介護は慢性的な睡眠不足をもたらしてくれている。ネットで見ると、こうした状態が1年続いた犬もいるようだ。ほとんど1日、同じ場所で過ごすため、先日は散歩用の台車を購入した。台車の上に底の浅いボックスを載せ、そこにクッションを置き、その上にシートを敷く。こうして連れ出すと、さすがに表情が生き生きとして来る。以前、自分の足で散歩が出来ていた頃に決まって排尿していた場所に来ると、シート上に排尿し、吠えて知らせる。一旦、道端に犬を降ろして、シートを取り替えてから、また台車に乗せる。以前、散歩時に時にすれ違っていた他家の犬の散歩に出会うと、かえって向こうがいそいそと通り過ぎて行く。哀れになった犬の姿を見たくないのかも知れない。野生の犬ならば、もう歩けなくなった時点で駄目になってしまうのだろうが、人に飼われた犬は介護されることでも長寿になる。実際、足の動きだけが顕著に低下しており、その他の機能はそれほどでもない。やはり食べられているからだろう。犬によっては認知症症状も見られるらしいが、幸い、それはなさそうだ。飼いたくて飼った犬なので、出来るだけのことはしてやりたい。
介護マット上に敷いたシートに横たわる老犬

散歩からの帰宅時

人に従順な犬

2017-06-24 19:15:28 | 文化
昨日の東京新聞に、80歳になる女性で、現役の警察犬の指導士の話が出ていた。専業主婦をしていて、「近所の家で訓練されたシェパードに出会った。伏せの状態で前足に乗せられたりんごを合図が出るまで食べるのを我慢する姿に衝撃を受けた。」それがきっかけで、訓練所を回って、弟子入りをし、32歳で指導士に合格した。その後、自ら訓練所を開き、現在まで続けている。犬の嗅覚は人の3000倍鋭いと言われる。どんな犬も訓練をすれば、人の指示通りに動いてくれる。ただやはり大型犬の一定の犬種は特にその傾向が強いように思う。犬は生まれて3ヶ月は親犬や兄弟とともに生活することが大事だ。犬としての「マナー」を学ぶ。その後、生後6ヶ月くらいから1年目くらいまでに基礎的な訓練をする必要がある。犬種によっては1年を少し過ぎても可能だが、理想はやはり6ヶ月から1年の間だろう。この期間に甘やかした犬は人の指示に従わず、家族の中の順位も自分が上のような振る舞いをするようになってしまう。他人に対しても穏やかな犬に育てるためにもこの期間に出来るだけ他人に接するようにすることが大事だ。座れ、立て、伏せ、待てなどの基本事項をしっかり身に付けさせる。伏せの状態で、飼い主の姿が見えなくなっても、じっとその姿勢を何時間でも続けられるようになる。散歩も飼い主の歩調に合わせて歩き、決して飼い主よりも前に出て、引っ張るようなことのないようにしておくことも大事だ。それらの指示を指と言葉の両方で出すしつけをしておく。しつけ中に指示に従った時には大げさに褒めてやったり、場合によっては小さなおやつを与えてやる。そうすることで、どんな犬も指示に従うようになる。犬は猫と違って、飼い主の表情、気分をちゃんと見ている。前足も力を無くした我が家の老犬は、もうすっかり寝たきりになってしまった。目も虚ろになりがちだが、水入れや餌入れを口元に運んでやると、表情を変えて、起き上がろうとする。残念ながら、自力では起き上がれず、手を添えてやらなければならない。人と同じで、寝たきりとなっても周囲への関心はあるし、自由に動けない苛立ちも感じる。この週末は荷物運搬用の低い台車を使って、それに乗せて散歩をしてやろうと考えている。生後3ヶ月で北海道にいた頃の我が家にやって来て、家族を和ませてくれた。走ればこれほど早い犬種は他に見たことがない犬だった。昨年の秋には投げたボールを追いかけてもいた。気持ちの優しい、素直な犬で、それだけに最後までしっかり世話をしてやりたい。
咲き始めて来た柏葉紫陽花

麻(大麻)

2017-06-19 19:21:18 | 文化
気象庁はまだ東北地方の梅雨入りを発表していないが、ここ数日も曇天が続く。すっかり周りが緑になった職場の裏山ではウグイスが鳴く。日増しに弱って行く老犬の介護で、連日睡眠が不足している。寒い時期を脱していて助かる。6月に入ってからは庭の山野草もほとんどが咲き終わってしまった。 若狭湾にごく近い福井県の三方湖の南岸に鳥浜貝塚がある。12,000~5,000年前、縄文時代草創期から前期にかけての集落遺跡である。貝殻だけでなく、動物の骨、木や種子、葉、土器、石器、骨角器、木製品、漆製品、繊維製品など多種のものが捨てられていた。木の実の貯蔵穴や竪穴住居跡も発掘された。その他丸木舟や網漁に用いられる縄文草創期の石錘まで発掘されており、保存状態が良好であることから、「縄文のタイムカプセル」と呼ばれる。ヒョウタン・ウリ・麻・ゴボウなどの植物も見出されている。縄文の名は土器に縄目模様を付けたところから由来するが、この縄は麻で作られていた。日本各地の縄文遺跡からも麻の種や実も多く出土している。縄文時代は日本列島の全域に麻が自生したり、栽培されていた。麻は古来、「依り代」と言われ、邪気を払い、神霊が依り憑くものとされた。そこから、「大いなる」麻として、「大麻」と呼ばれるようになる。太平洋戦争の敗戦までは米とともに食料として、全国で栽培されていた。茎から繊維が作られ、種は食用として利用されたり、油を採取し、燃料などにも使われた。現代でこそ、麻は法的に規制されているが、米と同じく長く生活に密着したものであった。北海道に住んでいた頃、わざわざ本州から自生する野生大麻を取りにやって来る人がいて、警察がパトロールしていた記憶がある。縄文時代には現代の米以上に麻は生活になくてはならないものであった。茎から作られた繊維で衣類も編まれている。麻はかっては喘息やアレルギー、痛み止めなどに効く漢方薬として使われていた。麻の衣類をまとい、麻を食用としていた縄文人にはウイルス感染が少なかったとも言われる。列島に自生し、利用度の高い麻を縄文人は生活の中で、なくてはならない植物として、むしろ崇めていた。
家の近所で咲いていたバラ