goo blog サービス終了のお知らせ 

釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで17年6ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

自分が生きている世界

2019-03-23 19:19:41 | 文化
戦後73年以上経ち、いよいよ今年で戦争を知る天皇がいなくなる。世の中はこの間、何とか生活をやり過ごして来た。しかし、今では自然も社会も大きな問題を抱え、「いつか」は分からないが、いつ起きてもおかしくない巨大な変化が起きる可能性がある時期に来ている。自然界では日本の巨大地震や巨大噴火、地球のポールシフトなど、人の力では如何しようもない事象が待ち構えている。社会では世界経済のリセットがいずれ行われるだろう。人類が経験したことのない返済不能な借金が積み上がってしまった。いずれもが起きてしまうと生活や生命さえ脅かされることになる。いつ起きるか時期を明確にできない事柄なので、なおさらメディアは報じることがなく、そのためにほとんどの人が知らないままに日々を送っている。もっとも、知ったところで個人的には準備出来ることは限られるが。10年前に愛知県から釜石へやって来て、東北の自然の豊かさに触れ、とても感動した。しかし、そんな自然の豊かさの中で、3年3ヶ月経った時に、巨大な地震と津波に襲われ、職場が多大な被害を受けた。わずかな食糧で日を過ごさねばなら時もあった。誰もがこれほどの地震や津波が来るとは考えもしなかった。四国で生まれ、地震の経験はあったが、地震に津波が伴うことなど考えも及ばなかった。地震のあった当日はちょうど、地震発生直後の15時に職場の他施設の応援に毎週行っていたため、地震が静まったと思って、車で出かけた。後から分かったことだが、その車の後から追いかけるように津波が来ていた。2〜3分遅れれば、津波に巻き込まれていただろう。自然の豊かさと、そんな自然に溢れる東北の歴史にばかり興味を持ち、社会や自然の脅威について、関心を持たなかった。震災は原発事故による放射性物質の拡散をもたらした。今住んでいる釜石も以前よりいまだに放射線量は高い。東京の一部はさらに危険な状態でもある。こうした体験が社会や自然の脅威への関心を嫌でも持たざるを得なくした。原発事故への政府の言い分はかえって不信感を募らせもした。国内で適切な情報が得られなければ、面倒でも国外の情報を得るしかない。政府はチェルノブイリ事故よりも福島の事故の方が軽いニュアンスで対応していたが、チェルノブイリでは溶けた核燃料棒はあくまで原子炉内に留まっていた。しかし、福島では原子炉さえ抜けて、溶けた核燃料棒がどこにあるかも分からない状態が続いている。深刻度はずっと高い。こうしたことは海外の情報でなければ分からない。経済となるとなおさら世界を見ざるを得ない。グローバル化が進み、マネーは世界中に動く。他の主要国で起きたことは日本にも無縁ではない時代になった。自分の体験だけでなく、年齢を重ねて来ると、なお、自分が生きている世界のことを知りたくもなった。
薬師公園の椿

節分の鬼

2019-01-09 19:15:32 | 文化
スーパーへ行くと、もう節分のための豆が鬼の面とセットになって売られている。今年の節分は2月3日になる。もともと節分は字の通り、季節を分ける意味であり、立春だけが節分となったのは江戸時代からだと言う。釜石のスーパーでは節分用の豆は殻付きの落花生だ。子供の頃、四国の実家では大豆を使っていたように思う。「鬼は外、福は内」と唱える。この鬼とは何なのか。平安時代の陰陽道では、北東方向を鬼門とした。つまり京の都から北東にあたる。まさにこの東北である。丑寅(うしとら)の方角だ。北上市には鬼剣舞の伝統があり、鬼の館が設けられている。平安の都人にとって、この東北のエミシをまさに鬼と見たのであろう。鬼の起源については諸説あるようだが、中でも古代製鉄と関係していると言う考えに惹かれる。製鉄炉のそばに四六時中いて、顔が赤銅色になれば、まさに鬼の顔になっただろう。さらに、この製鉄技術を古代東北に伝えたのは和田家文書によれば、山胆(さんたん)=アジア大陸中西部の人々である。青い瞳の人々が多く東北にやって来ている。鎌倉時代の2度にわたるモンゴル帝国の襲来、いわゆる元寇でも、今の青森県津軽地方に、嵐により船が流されて漂着したモンゴル人たちの伝説が残っている。鬼とは直接関係はないが、東北には古来、大陸の人々が想像以上にたくさん来ていた。それら偉人たちの形相は明らかに異なっており、東北の人々にとっても鬼と映ったのかも知れない。どちらにしろ、京の都にとっては、東北は忌み嫌うべき地域であり、そこに住む人々を排除する必要があったのだろう。丑寅には鉄と金が豊富にあった。遠野物語で知られる隣の遠野には鬼に娘がさらわれたと言うような昔話が残っているが、これは明らかにエミシの地域に倭人が住み着いた後の話だろうと思われる。釜石にも遠野物語で語られているような昔話が残っているが、それらの昔話は、せいぜい江戸時代のものではないだろか。つまり、その頃山中に住んでいた鬼は、何らかの事情で山中に身を隠さざるを得なかった人が、髪も切らずに長く伸びて、想像上の鬼のように見えたのではないか。古い時代の鬼は、異人に始まり、エミシに変わり、ずっと後には、山の中に隠れ住んだ者となったのではないか。鬼に豆を投げて、払う行為は、鬼に石つぶてを投げて追い払うようなイメージに見えて来る。
オオバンは目が赤い

皇室を無視する宮内庁

2018-11-30 19:16:31 | 文化
11月も末になると、さすがに内陸では最低気温がマイナスになるところが出て来る。この気温の下がりが最後の紅葉である八幡神社の大樹にも大きく影響して来る。昼休みに日射しを受けた大樹を見に行った。菅原神社も、この八幡神社も毎日目を楽しませてくれる紅葉がある。中でも八幡神社は最高の紅葉だ。至福の紅葉と言ってもいいほどだ。今日も昼休みの時間帯には誰も通る人はいない。心行くまで一人でたっぷりと堪能させてもらった。 幕末に不満と野心に溢れた若い下級武士たちが、天皇を担ぎ出して、自分たちの野望を遂げた。以後、この天皇を担ぎ出して、己の野望を遂げるパターンが繰り返されて行った。そんな中で、当然、天皇を始め皇室はそこに違和感を持つ。違和感があっても、時の勢力が強ければ、抗いようはない。時の勢力は政治家であり、官僚である。特に目立たないが隠然とした絶大な勢力を保持するのが官僚である。皇室については宮内庁になる。53歳になる秋篠宮の記者会見で、天皇が代わることに伴った皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」について、宗教的行事ゆえに政府は公費を支出するべきではないと述べている。まさに正論そのものだ。しかし、宮内庁は秋篠宮の意見を全く無視したようだ。官僚は自らの権益を強める機会を決して逃さない。1990年に行われた大嘗祭では、公費22億5000万円が投じられた。現在の皇室は天皇をはじめ、太平洋戦争への反省を共有しており、そうした反省に欠ける政治家を快くは思っていない。皇室が政治家や官僚の野望を実現するために利用されたくない、と言う意志がとても強い。皇后もこれまで何度か、現政権の憲法改正を快しとはしないことを思わせる言葉を述べている。明治から太平洋戦争敗戦まで、表向きは「天皇の命」により国家運営がなされたとして、敗戦後は天皇は象徴となり、政治への関与は出来ないことになった。天皇は政治や行政に関与出来ないが、政治家や官僚は天皇や皇室を相変わらず利用する構図は残されているのだ。秋篠宮は震災前に大槌町にあったお気に入りの寿司屋にお忍びで来ていた。残念ながら、その寿司屋は津波で被害を受け、大槌の店を閉じた。



もう秋なのだろうか

2018-08-18 19:15:02 | 文化
今日は休日で、ゆっくり寝ていようと思っていたが、普段の習慣か、いつも通りに目が覚めてしまった。庭に出てみると、青空が広がり、吹く風がひんやりして半袖だと寒さを感じるほどだった。気温は15度になっていた。空には筋雲が流れ、もうすっかり秋に変わってしまった。目の前を何匹かの赤トンボがゆっくりと飛んでいる。空を見上げていると、ふと「天高く馬肥ゆる秋」と言う言葉がよぎった。なるほど、筋雲はよく見るとまとまった白雲などよりずっと高いところを流れているし、ほとんどがその筋雲さえ流れず青空が広がっていた。確かに秋の空は高いのだと思った。何となく「馬肥ゆる秋」は食欲の秋を表すのだろうと思った。しかし、せっかく思い付いたので、調べてみようと考えた。調べてみると、原典はまるで違っていた。出典は中国の歴史書『漢書』趙充国伝の杜審言『贈蘇味道』に記された、「雲淨妖星落,秋深塞馬肥」から来ていた。唐の時代の詩人杜甫の祖父である、やはり詩人の杜審言が、辺境の防備に就いていた友人、蘇味道に贈った詩の一部だ。「雲浄(くもきよ)くして妖星(ようせい)は落ち、秋深くして塞馬(さいば) 肥ゆ」で、清らかな雲が流れ、不吉な星も消え、秋が深まると北方の匈奴の馬もたくさん草を食べて元気になる頃だから略奪にやって来るから警戒しなさい、と言った意味のようだ。秋は収穫の時期で、当時は北方に蛮族と言われた匈奴がその収穫を奪いに攻め寄せ、どの王朝も悩まされていた。その匈奴が滅ぶと、いつの間にか「天高く馬肥ゆる秋」に転じて、食欲の秋と解されるようになったようだ。原義では馬がたくさん草を食べたのは夏なのだが。故事は時代とともに元の言葉がそのものが変わったり、解釈が変わったりする。かっては季節が生活と密着しており、それだけ季節の変化が重要であったのだ。その生活との密着度が時代とともに薄れ、故事の意味も生活から距離を置くようになってしまっているように思う。特に現代は人の住む空間から自然が消え、自然の中を辿る場合も、自然を目にする時間がないほど早く移動出来るようになってしまった。季節は体感出来る暑さ、寒さで感じるしかない世の中になってしまったのかも知れない。日中は22度まで上がり、次第にまとまった白雲もたくさん空を流れるようになった。
近くからはエゾゼミの声が聴こえていた

地方の古民家の活用

2018-08-11 19:13:44 | 文化
今朝から釜石は山背が周囲の山の尾根を渡り、気温は26度までしか上がらず、雲に日射しが遮られ、涼しい風が吹き、暑さを感じない一日になった。それでもセミはさすがに鳴いていたが。昼過ぎに、隣の遠野の産地直販店、産直を見て回ったが、お盆前の週末とあって、たくさんの人たちが来ていた。家族連れで帰省して来た人たちもすでに多く、産直にはお盆用の花がたくさん並べられ、その中にはこの地方の風習の葉やイガグリの付いた栗の枝も売られていた。遠野は釜石とは違い、青空が広がり、遠くには夏の積乱雲がいくつも見えた。気温は31度で、日射しがあるため、さすがに暑さを感じた。釜石では今朝もウグイスが鳴いていたが、はたして、遠野でも、今もウグイスが鳴いているのだろうか。 岩手に来た当初、昔ながらの田園風景がそのままに見られる遠野によく出かけた。国道を外れて、田園地帯の農道を走ると、あぜ道に煙が立ち上り、子供の頃に見た風景がそのまま再現されていた。農家の建物も育った四国の農家の建物とは違い、城のような少し反り返った瓦屋根が付く。内陸の江刺の方へ行くと、また同じ農家でも建物が少し違って来る。天然木で作られた古い神社やお寺の建物も、古くからの農家以上に、建てられてから何百年にもなるものがある。現代の日本の住居は、ほとんどが輸入された木材から作られた集成材が使われている。建築に要する時間を早めるためにも、すでに出来上がった枠組みをただ組み合わせるだけの建築になっている。大手の建築会社がモデル化したものを大量生産して、所構わず普及して来たのが、現代の建築になっている。同じモデルの家が北海道でも九州でも建てられる。無論、多少の断熱の違いは組み込まれるが。古くからの農家の建物が地方によって異なるように、本来であれば、地域や、実際に立てる場所ごとに、そこに見合った建物が建てられなければならないはずだ。日本は山林が国土の3分の2を占める世界でも第3位に山林大国である。しかし、今では植林された木も手入れされることなく放置され、ほとんどが活用されなくなっている。こうした天然木をつかうと、必ず時が経つと、反りが生じたり、割れが入ったりするために、顧客からの苦情があり、建築会社は天然木を避けるようになったそうだ。しかし、それは集成材も同じであり、かえって、集成材の方が耐久年数がずっと短い。一世代が住んでいるうちにも不都合が簡単に出て来る。木材は伐採されてもなお空気中の水分を吸い込んだり、吐き出したりして、湿度を調節してくれる。日本の伝統建築が天然木を利用して、何百年も耐久出来ているのは、日本の風土に適応出来ているためだろう。高齢化率の高い地方では、急速に空き家が増えて来ている。その地方の周囲には必ず放置された植林がある。東北には、こうした空き家と天然木を結び付けて、断熱による省エネルギー住宅を普及させようとする建築家が何人かいる。地方の見捨てられた木材を活用し、しっかりとした断熱により、冬の省エネルギー暖房と、夏の風通しのいい空間作りを取り入れた古民家の再生である。大手の建設会社のモデル建築の大量生産ではなく、個別の立地条件にあった建築は地方の小さな建築会社しか取り組めない。人口が減少し、高齢化が進む日本は、都会より地方の方が早く疲弊して行く。その流れの中で、地方は地方の特色を活かして、地方の再生を自らやって行くしかないように思う。地方の住宅も同じく、そんな視点で再生されて行く必要があるだろう。
露草

紫波町の蓮の花

2018-07-20 19:18:23 | 文化
7月に入ると近年は毎年、紫波町にある五郎沼に出かける。北上川沿いに開けた平野にあり、遠野と同じく農村地帯で、縄文時代からの歴史の町でもある。釜石に来て最初に紫波町に興味を持ったのは、志賀理和氣神社(しかりわけじんじゃ)と言う名の神社の存在であった。日本での最北端の式内社だ。例のごとくと言うか、社伝では804年に坂上田村麻呂が勧請したとされる。803年には志波城が、また811年には徳丹城が蝦夷平定のために造営されたとされる。紫波郡にはそれらの跡が遺されている。東北にはあまりにも多く坂上田村麻呂による勧請寺社が存在する。しかし、陸前高田市の衣太手神社(東御殿)、登奈孝志神社(中御殿)、理訓許段神社(西御殿)三宮を合わせた氷上三社、つまり現在の氷上神社にも見られるように、むしろ名称からしてまさに蝦夷にまつわる名称だと思われる。五郎沼も蝦夷の末裔である奥州藤原氏初代藤原清衡(きよひら)の孫、桶爪太郎俊衡(ひづめたろうとしひら)、五郎季衡(ごろうとしひら)兄弟の館、桶爪館のそばにあり、五郎がよくそこで泳いでいたことから付けられた名と伝承されて来た。館は1189年に源頼朝により奥州藤原氏が攻められた際、桶爪太郎俊衡が自ら火を付け、逃れたとされる。平泉には藤原氏の柳之御所跡がある。同じくこの紫波町の桶爪館にも「政庁」や「御所」があった。現在五郎沼近辺は「日詰」と表記されている。室町時代には足利尾張家の末裔とされる斯波氏の一門の高水寺斯波家がこの地域を支配している。なお、出羽の最上氏も同じく奥州斯波氏の一つである。紫波町には多くの歴史的な寺社や遺跡がある。五郎沼には800年前の蓮の花が咲く。平泉の中尊寺金色堂には藤原清衡、基衡、秀衡の奥州藤原氏3代の遺体と4代目の泰衡の首級が納められていた。1950年にそれらが調査され、泰衡の首級が納められた首桶から100粒ほどの蓮の種が発見され、古代蓮の著名な研究者である大賀一郎博士がそのうちの5粒を持ち帰り、1998年にそれが開花した。五郎沼の蓮はその800年の眠りから蘇った蓮である。紫波町には他にも蓮が見られるところがある。浄土真宗大谷派の光圓寺である。境内が広く、恐らくかっては境内周囲に堀があったと思われる。二つに別れた沼地に蓮が何本も花を咲かせる。白蓮と黄色系の4種の蓮が植えられていると言うが、先日行った際には、ほとんどが白で、わずかに二つだけピンクの花が咲いていた。境内の池には睡蓮や菖蒲があり、近くには紫陽花が咲いていた。蓮の花を見終わって、ふと目の前の側溝をみると、水面に動くものが見え、近付いて見ると、何匹かのザリガニであった。おそらく蓮のある沼にもいるのだろう。光圓寺はたくさんの白い蓮の花が咲き、五郎沼は綺麗なピンクの蓮の花が咲く。紫波町は奥羽山脈から北上山地の間に広がる田園地帯で、遠野とはまた違った風景を見せてくれる。歴史的な遺物も多く、岩手では遠野とともに惹かれる地域だ。
五郎沼の800年前の古代蓮

光圓寺の蓮

蓮の沼の側の側溝にいたザリガニ

初夏の晴れた日に

2018-06-07 19:18:03 | 文化
昨日、近畿から関東甲信まで一斉に梅雨入りとなったようだが、岩手は晴天の気温25度以上の夏日となっており、内陸の盛岡や北上は30度を超える。四国で生まれながら、北海道に少し長くいたせいか、夏の暑さに耐えられなくなった。愛知県から岩手県に引っ越しした当初は、夏の涼しさに喜んだが、それも身体が次第に慣れて、今では岩手の夏も暑く感じるようになった。たまに大阪や東京の方から、釜石も雪が大変でしょう、と言われる。岩手に引っ越す前には自分でもそう思っていた。しかし、釜石は同じ東北でも別天地で、雪は積もらない。動植物の豊富さを考えると、東北は人の身体にも年間の平均気温がちょうどいいのかも知れない。今朝も早くから近所でウグイスが鳴き、職場の窓からも日中にウグイスの声が入って来た。近くの山道に入ると、必ずホトトギスの声が聴こえて来る。日射しの強くなったところを避けて、日影に入ると、今はそれでもまだ涼しさを感じさせてくれる。社会的存在の人間である以上、年間で何度かは心身の疲れを感じることがある。そんな時に、近くの川の流れの音やカジカガエルの声、庭の山野草の花、ウグイスやホトトギスの声に癒される。若かりし頃の音楽も時には癒しになるが、やはり自然が一番だ。その自然の素晴らしさを教えてくれたのは北海道ではなく、この東北だ。北海道には広大な自然があるが、豊かさと言う点では、東北がはるかに勝る。まして釜石はすぐそばに豊かな海も山もある。それでいて雪が積もらないとなると、これほど素晴らしい東北はないだろう。残念ながら、そのことを地元の人が気付いていない。釜石は人口がわずか3万5000人ほどの小さな街で、高齢化率が高く、今後もさらに高まって行くだろう。かっての新日鉄の城下町で、一頃は人口10万人近くになっていて、県下一の近代的な場所であったそうだ。今ではその趣も失われている。震災後の復興事業が続いているために全国からたくさんの人がやって来ているが、それも数年内のことで、その人たちがいなくなれば、疲弊しきった街が残るだけだろう。釜石を見ていると、まさに日本と言う国の縮図に思えて来る。これまでの産業に執着し、世の中の大きな変化に目を向けない。日本にも釜石にもいいものはまだまだある。それを生かさないで、むしろなおざりにしている。以前、震災直後に高校生が市長に無くなったカラオケを誘致して欲しいと要望した。その後、進出したイオンモールの中にカラオケが出来た。先日、職場の近所を歩いていると、市長杯争奪カラオケ大会のポスターが貼られていた。個人の楽しみとしてカラオケを否定しないが、行政がそれに関わることに何かが失せてしまう。今は日本の歴史で言えば、ちょうど幕末の頃に似ているのかも知れない。江戸幕府は財政難に窮し、統治力を失った。動乱を経て維新となり、良くも悪くもともかく日本が再生された。
裏山のジギタリスの花

自己満足のブログ

2018-06-04 19:10:26 | 文化
週末から今日も晴天が続いた。日射しはもうすっかり夏の日射しになっている。ただ、幸い風が涼しい。日影に入ると少し肌寒くさえ感じた時がある。岩手県は北海道に次ぐ広さで、北海道と同じく、沿岸部だと隣の市へ行くにも山間部を通らなければならない。その山間部はこの時期とても気持ちがいい。木々の緑が映えて、所々に白い花が咲く。よく見ると花水木そっくりの山法師が、まるで木に蝶が群がるように咲いている。そんなところの日影に車を止めて、窓を開けると、涼しい風が入り、近くからはホトトギスの声が聴こえて来た。2007年12月14日に愛知県の岡崎市から釜石へ転居して来た。雪のない東北に驚き、冬を越して春が来ると、花々が咲き、山菜や動物の多さにも驚いた。その驚きからあらためて東北を見つめ、都会とは違って喧騒のない地方で、日本や世界のことを考えた。思いついたことを2008年8月17日からブログに書きはじめた。誰かに見られることなど気にしないで、思い通りに書き綴った。しかし、震災直後には思いの外たくさんの方が訪問して下さった。その後、一旦訪問される方が減少したが、もともと大学での知識もあり、気になる日本や世界の経済状態を書くようになると、再び訪問される方が増え、昨日は初めて500人を超えた。東北は豊かな自然に囲まれるが、さしたる産業もなく、高齢化も早い。毎日、目にする風景はほとんど変わらない。世の中はまるで変わらないかのように見える。しかし、周りの自然と同じく、世の中も日々変化している。ブログを書きはじめた頃は訪問して下さる方のことは気にしなかったが、やはり最近のように数が増えると、何を見に来て下さるのか気にしないではいられなくなる。とは言っても、所詮は素人のブログゆえ、あまり気にしないでこれまで通り、自分のためのブログとして書き綴らせていただく。日々自分で関心のあることを、自分が納得出来るだけ調べて、それをただ書き綴って、自分のために残しておく。東北の自然は癒しを与えてくれるが、今、世の中は大きく変わろうとしている。それを日本のメディアは特に報じない。いつの時からか、他国の記事を見るようになった。多くは米国の記事だが、時にはロシアの英語記事を見ることもある。ロシアの記事は中東や中国のことが書かれていることが多い。無論、数は少ないが日本でも貴重な記事を書かれている方がいる。それらを読んで、ただ心に浮かぶ通りに書き綴っている。ほとんど見直しをしないので、誤記も多いかと思う。気楽に書かなければ、長く続けられなくなるので、常にただ心に浮かぶに任せている。自己満足でしかないブログゆえ、趣味の写真もまた自己満足で載せている。先週はイタリア問題が浮上したが、欧州ではイタリアそのものよりもその影響がドイツ、特に75兆ドルと言われるデリバティブ金融商品を保有するドイツ銀行Deutsche Bankへ波及していることだ。先週金曜日には米国の格付け会社がドイツ銀行の格付けを一段引き下げた。欧州発の金融危機が起きるとすれば、火種はドイツ銀行にある。物の貿易以上にグローバル化している金融は必ず世界に及ぶ。しかも、今や世界は歴史始まって以来の膨大な債務を抱えている。中央銀行と政府が一体となり、長い超低金利時代を生み出し、超低金利による巨大債務とその上に築かれた資産バブルが世界に蔓延している。世界中実質賃金は上がらず、実体経済の悪さを資産バブルが覆い隠しているだけである。資産は個人であれ、企業であれ、「持てるもの」だけに集中する。それが今の世界だ。持続不可能な超低金利は、いずれ遠からず世界経済を壊滅状態に追い込むだろう。
山に自生する山法師