
昨日に続いて今日もとても素晴らしい釜石ブルーの広がる雲一つない青空となった。その上、風もほとんどなく製鉄所の火力発電所の白煙も真っ直ぐに立ち上っていた。青空が広がると普段は見えないジェット飛行機の白煙の筋が何本も見える。市街地周辺の山々も色付いて来ており、市街地でも紅葉が見られるようになって来た。昼休みに郵便局の本局の裏手にある小山の中腹の菅原神社へ行ってみた。車一台がやっと通れる登り道を進んで。一軒家の前の空き地に車を止めた。人一人が通れる道を少し登ると見上げた竹間から鮮やかな燃えるような紅葉が見られた。昨年同様にほんとうに一人で見るにはもったいほどの素晴らしい紅葉になっていた。神社の祠から少し離れたところに紅葉の大樹がある。釜石では知る限り、八幡神社に次ぐ大樹だろう。風もなく日射しに透かされた紅葉がほんとうに素晴らしいそのまま一日ずっと眺めていたくなる。周りもほとんど整備されておらず、人が来ることのない小さな神社だ。菅原神社は全国にあり、菅原天神、菅原天満宮の名が付くところもある。以前住んでいた愛知県の岡崎市には岩津天満宮があり、拝殿の奥に本殿がある立派な神社で、願掛けの撫で牛が置かれていた。天満宮では牛が神使とされた。平安前期の9世紀に主に宇多天皇の重用により、右大臣にまで上り詰めたが、左大臣藤原時平の企みで、罪に問われ、九州大宰府へ左遷され、その地で亡くなった。道眞の没後に京では天変が相次ぎ、道眞の祟りとされ、道眞の霊魂を鎮めるために神社が祀られるようになった。全国では山口県の防府市にある防府天満宮が道眞の亡くなった翌年、904年に創建された最も古い神社とされる。大宰府へ赴く際に防府でも宿泊している。道眞は886年から4年間四国の讃岐へ讃岐守として赴任している。『拾遺和歌集』に載る道眞の「東風(こち吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」はよく知られる。菅原神社は学者でもあった道眞に因んで、学問の神様とされ、現代では合格祈願に参る人がいるが、果たして釜石の菅原神社へはそうした人が来ているのだろうか。神社の存在すら知られてはいないように思われる。





菅原神社の紅葉の大樹

眺めているだけで気持ちが和んで来る

全体の表面は燃えるような紅だが、雑木が邪魔をして見るのは限られる

帰路に立ち寄った石応寺
10月に入るとさすがに最高気温も20度ほどになり、晴れるとさすがに秋を感じさせてくれる。昨日も今日も雲が比較的多く流れていたが、晴れた日で、風ももうすっかり秋風になっている。昨日は何箇所かの産直を周り、遠野の田園地帯を眺めながら田園地帯の秋を堪能した。遠野は江刺や北上あたりよりも稲刈りの始まりがやや遅いようだ。ところどころで見かける稲刈りはコンバインを使った機械作業のところが多い。それでも昔ながらの稲架(はぜ)を見かける。旧来は一般には稲刈りの後、刈った稲を干すが、その干し方には基本的に4種あると言う。地干し、立干し、架干し、棒掛けと言うもののようだ。少し調べてみると、少し古くなるが1990年3月31日付の東京学芸大学から出された雑誌『学芸地理(44)』に「岩手県における水稲の伝統的自然乾燥景観の地域性」と言う論文があった。この論文では岩手県内の丹念な聞き取り調査を行っている。この論文によると岩手県の稲の自然乾形態は三種に大別出来る。稲架掛け、棒掛け、稲鳰(いなにお)の三種だ。稲架掛けは縦杭と横木で作られたものに稲を掛けていくやり方で、全国的に見られた方法だ。しかし、棒掛けは以前のブログで杭掛けとして紹介したもので、これは論文によると、東北地方特有のもので、19世紀半ば以降に発生したものだと言う。稲架掛けは稲わらの単位量に対する表面積が大きいことから乾燥スピードが早く、米の品質も良いが、用材と労力を多く要する。棒掛けの方は岩手県では「ホニオ」とか「ホンニオ」と呼ぶそうで、稲架掛けに比べて、乾燥スピードが少し遅く、1本の棒に稲わらを重ねて干す関係で、通気性も悪いが、用材と労力が少なくて済む。稲鳰(いなにお)はこれまで岩手に来て以来、見かけた記憶がないが、2本づつ上で寄り合わせた組み合わせを何組か並べたり、3本の棒を中心で寄り合わせて立て、それぞれに横木を当てることで、その横木に稲わらを掛けて行くやり方のようだ。稲穂を内側に向けて掛けていくため、通気や日射が悪く、乾燥スピードが遅く、米の品質も良くないが、雨や雪に対する耐水性が優れ、一度に大量の稲わらを干すことが出来るのだと言う。調査の結果、北上川中流域以南の平坦部に棒掛けが、県の北西部には稲鳰が、その他の地域に稲架掛けが分布していた。稲鳰は従って盛岡から雫石方向かけての地域から北側に見られるようで、秋の稲刈りの時期にこの地域へはまだ行っていないために見かけなかったようだ。東北では弥生時代前期とされる砂沢遺跡で水田遺構が発見されており、こうした時代から稲作は行われていたが、稲架は水田周囲の立ち木の枝に掛けたことがはじまりだろうと言われる。論文では稲架は9世紀前半には用いられたとある。稲鳰の起源については一時貯蔵の手段として使われたとする説を紹介している。また棒掛けは山形県内で19世紀半ばに誕生した新しい形態だとしている。全国と同じく今や岩手県でもこうした稲の乾燥は次第にコンバインに代わられて来たため、年とともに少なくなって来ているようだ。しかし、自然乾燥した米はやはり美味しい米になる。人的労力を要するものではあっても、先人の伝えて来たこうしたやり方がいつまでも残されて行くことを願う。


刈り取られた稲の稲わらだけを立てかけて乾燥させていた
向こうには稲架掛けが見られる
連休に入り、とりあえずは晴れの日が続くが、空には雲も多く流れて、すっきりとした秋晴れにはならない。それでも毎日日射しが見られるようになった。この時期は日中と朝晩の気温差があり、夜には虫たちの声が聴こえて来る。今年もコオロギやウマオイが庭で鳴く。虫の音は万葉の時代から人の心を打ったようだ。万葉集には虫の音は区別されず、すべて「蟋蟀(こほろぎ)」として詠われている。虫に区別がつけられたのは平安時代からだと言う。虫の音を万葉の時代の人々はシンフォニーとして聴き、平安時代の人々はソナタとして聴いたのだとする人がいる。中国の女子十二楽坊を日本へ紹介した音楽プロデューサーの稲葉瀧文氏は面白いことを言っている。虫の声は日本人には「のどかで風流」に聞こえるが、欧米人には「うるさい雑音」にしか聴こえないそうだ。人の脳には感覚、直感、イメージなどを司る右脳と言語、論理、分析、計算を司る左脳があるが、氏によれば、日本人は音楽、西洋楽器音、機械音は右脳で感知し、他のものは左脳で感知すると言う。邦楽器の音も虫の声も日本人は左脳で感知するのだそうだ。西洋人の脳が、論理性と情緒性を明確に区別しているのに対して、日本人はその区別が曖昧なのだと言う。日本語の環境で育った人は、人種や民族に関わらず川のせせらぎや虫の音などの自然界の音を言語と同じ左脳で処理して、日本語の環境で育ってない人は言語以外の雑音と同じ右脳で処理する。日本人の「わび・さび」の感覚も情緒では無く論理的に判断をしているのだと言う。インドや中国から入って来た琵琶や尺八や三味線も日本流に変化しているそうだ。決められた楽音を鳴らすのではなく、音と音の間を濁らす「うなり」を付け加えたことが大きな特徴だとする。「音楽は綺麗な単音を順番に出す事により成立します。そして、その単音を重ねることによって和音が生まれ心地よい音楽となるのです。しかし日本人の好みは、音と音の間の空間にこそ美しさを求めるのです。その濁った音にこそ日本人は「わび・さび」を感じるのです。」と言う。虫の声を風流と感じるのは日本人だけなのだそうだ。こうした曖昧さに美意識を持った日本人の言語もやはり曖昧さを持つようになったのかも知れない。


秋桜
今日はお盆の迎え火の日である。朝の出勤時には道路の通勤車がいつもより少なかった。江戸時代初期に幕府はキリスト教を禁じて、転びキリシタンに寺請(てらうけ)をせたが、次第に身分に関係なく、すべての人に寺請を命じた。このため、信仰の有無に関係なく、何らかの形ですべての人が仏教徒とされた。亡くなれば、寺の境内に墓が広く作られるようになって行く。仏教徒の多くが「(南無阿弥陀仏なむあみだぶつ)」を唱えるが、これは「わたしは阿弥陀仏に帰依いたします」と言う意味で、阿弥陀信仰を表明しているのだ。阿弥陀如来は、東方に浄瑠璃世界(瑠璃光浄土)を持つ薬師如来に対して、西方に極楽浄土という仏国土を持つ仏だ。奥州藤原氏の祖である藤原清衡(きよひら)は亡くなる2年前の1126年に中尊寺金色堂を完成させた。中尊寺の本尊は阿弥陀如来で、藤原清衡は極楽浄土を願った。前九年の役で父、藤原経清は奥州安倍氏とともに源頼義との戦いで敗れ、斬首された。しかし、安倍頼時の娘であった母が前九年の役で功績を上げた清原氏の嫡男、清原武貞の元へ再婚したため、死を免れた。清原氏となった清衡はその後の清原氏の内紛に勝ち残り、姓を父の藤原に改め、藤原清衡として奥州藤原氏の基礎を築いた。戦乱の中で成長した清衡は心の安寧を願って、現世での浄土を作り上げようとしたのだろう。中尊寺も毛越寺も慈覚大師(じかくだいし)と称される円仁によって9世紀に建立されたとされる。毛越寺の本尊は薬師如来だ。いずれにしろ奥州藤原氏は三代にわたって平泉に壮大な浄土建築を創り上げた。源氏により奥州藤原氏は滅ぼされたが、藤原氏の築いた浄土思想が奥州に残ったのだろう。岩手に来て、毎年お盆になると人々が栗の木の枝を買い求めている理由が知りたかった。しかし、長くその理由を知ることが出来なかった。今年になって、その理由がまさに藤原氏の残した、その浄土思想にあることが分かった。阿弥陀如来は西方の極楽浄土に住む。「栗」はその「西」方の「木」であった。岩手の人たちは亡くなった人たちが極楽浄土で過ごしていけることを願って、お盆には墓前に栗の木の枝を供えるのだ。栗の枝とともに売られていた蓮の葉は何故なのか今は分からないが、阿弥陀如来の象徴が蓮の花であることと関係があるのかも知れない。


秋の七草の女郎花(おみなえし)が庭で咲き始めて来た
梅雨が明けると連日最高気温は30度を超えるようになって来た。セミが鳴き、空には入道雲を見る真夏がやって来た。釜石も昔は近くの海の砂浜や市街地を流れる甲子川で子供たちが泳いでいたらしいが、今はそんな姿は見られない。安全な学校のプールに毎日通っている。便利で安全なものを得た代わりに、何か失ったものがあるようにも思う。山の動物や木々にやって来る鳥たちには縄張りがある。それを犯すものには攻撃して、縄張りを守る。しかし、決して相手を殺すほどの攻撃はしない。人の歴史を振り返ると、争いは続いて来てる。絶えることがない。しかし、戦い方は戦うための武器の移り変わりとともに殺傷力を極めて残酷なまでに強化されて来た。動物や鳥たちとは違って攻撃に限度を持たない。文明、文化が進んだとは言え、人の愚かさはかえってますます悪化しているように思う。地球が誕生して以来、その地球上には国境などというものはなかった。人が勝手に主張しているだけである。人は自分たちの生活を守るために国境を主張したが、その国境のために争いが起きている。国境は決して生活を確実に守ってくれるものではない。科学や技術の進歩の恩恵は日常生活を大きく変えた。移動や情報交換の手段は革命的と言えるだろう。しかし、その一方で、それらは人の接し方をも大きく変えている。人を結びつけているようでいて、むしろ人を孤立化させているように思う。また、便利さが増せばますほど人は知恵や忍耐を失っているようにも思う。それがまた人の関係を変化させてもいる。人の脳はそれでもとりあえずはこうした変化を受け入れられるだろうが、人の体は人類の祖先が誕生して以来、ゆっくりと環境に適応して来たものだ。それがこのわずか100年の急速な環境変化にとても対応しきれていない。世の中に不安定さが現れている時こそ、少し立ち止まって、考えることも必要なのだろう。


鬼灯(ほおずき) 提灯に見立ててお盆に飾られる
昨日は久しぶりに青空が大きく広がったが、今日は再び曇天となった。しかし、夕方頃から青空も見えて来た。最高気温は23度でとても過ごし易く、先週あたりからはセミも鳴き始め、ウグイスと一緒に今日も鳴いていた。今朝は出勤時に大阪へ帰る娘を釜石駅まで送った。電車の乗り継ぎで大阪へは新幹線を使っても釜石からだと12時間かかってしまうが、今日の新幹線事件でさらに遅くなってしまうだろう。 今年1月、厚生労働省研究班による推計で、全国の認知症の高齢者数は、2025年には最大で730万人に上り、65歳以上の5人に1人にまで増加することが発表された。さらに3月にはWHO(世界保健機関)が初めて認知症対策で約80か国の代表が参加した閣僚会合を開催している。現在の世界の認知症患者は約4750万人いて、毎年約800万人ずつ増え、2030年には世界全体で7560万人になるとの予測だ。そこでは日本は情報通信技術やロボットなどを利用した、新しいケアの可能性を追求し、今までに培ったケアの経験をもとに、ケア従事者の研修システムなどを世界と共有し、貢献することを提案している。しかし、フランスではもう30年以上この認知症の人のケアに取り組んで来た人が開発した「ユマニチュード(Humanitude)」と言われる手法が普及しており、ケアの方法にまさに革命的な変化が起きている。そこに注目された日本人医師である国立病院機構東京医療センターの本田美和子医師がフランスへ出向き、その手法を取り入れ、日本での普及に努めておられる。認知症に限らず、脳卒中やパーキンソン病で寝た切りになった人たちのケアには様々な問題がある。「ユマニチュード」は「「人間らしさ」という意味で、人間は他の人間と絆を築くことで人間になると言う哲学を元に、それを具体的な150の手法で築こうとするものだ。「 見つめる」、「話しかける」、「触れる」、「立つ」を基本に、“ 病人”ではなく、あくまで“人間”として接することが基本となる。医療や介護の現場で行われたこの「ユマニチュード」は驚きを持って迎えられ、2013年09月19日にはNHKの『くらし☆解説』で 「フランス発"魔法"のような認知症ケア 」として取り上げられ、2014年02月05日にもやはりNHKの『クローズアップ現代』でも「見つめて 触れて 語りかけて ~認知症ケア“ユマニチュード”~」として再び取り上げられた。この直後から、こうした手法の職場への導入が好ましく思え、それを望んでいたが、同僚のT氏のご尽力で、開発者のイブ・ジネストYves Gineste氏と本田美和子医師が昨日職場へ来て、実習してもらえた。午前と午後の一部を使って、沿岸部の被災地を見学され、その際の道案内に釜石へ来ていた娘がT氏の依頼で同行し、昼食には私もT氏とともに5人で同席させていただき、たちまちお二人の人柄には魅了されてしまった。午後の実習ではあらかじめご家族の了解を得た患者さん3名をお二人がケアされ、寝た切りで、言葉も発しないでコミュニケーションが取れなかった人たちが、まるでまさに奇跡のように目前で、支えられて歩く姿に驚嘆させられた。医療や看護、介護のこれまでの常識は多くが間違っていた。優しさがあっても、その具体化の手法に誤りがあるのだ。お二人が寝た切りでコミュニケーションもとれない人に、まさに「人間として」本人が認められていると感じられる方法で接することで、本人が人間らしく目前で変わってしまう。しかもわずかな時間でだ。お二人とも疲れているにもかかわらず、とてもエネルギッシュで、夕方からの講演会も予定以上の時間をかけて講演され、聴衆の多くを感嘆させていた。情報通信技術やロボットが介護の世界に導入されることはむしろ現在以上に「人間らし」を奪いかねないことになるのではないだろうか。講演を聞きながらそんな思いが浮かんで来た。そして「ユマニチュード」はあらゆる人間関係においても基本となるもののように思われた。







箸がとても上手く使えて、ホヤやウニもすべて好んで食べておられた

3名の担当との事前準備

寝た切りの方が見事に支えられて歩かれた

夕方からの講演会

具体例を示すために前に娘が呼び出された

懇親会の終わりに
今日は昨日と違って朝から五月晴れのとても気持ちのいい日となった。昨日と入れ替わっていて欲しかったものだ。それでも昼休みに、朴の木の花を見たいこともあって、再び、八幡神社前の旧道を通って、山へ入っていった。今日は光に透かされた緑の葉と長く垂れ下がる山藤の薄紫がとても鮮やかに見に入る。突然目の前を横切る動物がいて、よく見ると狐だった。狐は釜石へ来て、初めて目にする。北海道ではいつも日常的に見ていたが、岩手では轢かれた狸ばかりで、狐はこれまで目にすることはなかった。冬毛がすでに抜けて、まだら状の毛並みになっていた。道の両側から若葉がせり出し、緑のトンネルを作ってくれている。周りではいくつもの小鳥たちがさえずり、爽やかな風がとても気持ちがいい。山の桐の花はまだ蕾だが、職場の裏山ではもう桐の花も藤の花と同じく咲いて来ている。 東北は冬は北海道ほど寒くなく、まして釜石は沿岸部にあるため、南からの暖流で、内陸より気温も高く、雪も積もることはない。夏は関東以南ほど暑くもなく、1年を通してとても気温が安定していて、そのために植物が豊かだ。明治の新政府は近代国家を急速に樹立するために多くの欧米人を招聘した。日本へやって来たそうした欧米人は東京の夏の暑さを避けるために自分たちの避暑地を日本の中に開発した。1888年、明治21年に最初の欧米人専用の避暑地が軽井沢に造られた。次いで翌年、日本三景の一つである宮城県の松島の高山に造られ、1920年、大正9年に三つ目の避暑地が長野県の野尻湖畔に造られた。現在でも軽井沢以外はそれぞれ外国人専用の避暑施設がある。これらの欧米人の避暑地に魅せられて、日本人の間でも避暑地の開発が行われるようになり、現在までに各地に避暑地が造られていった。東京から比較的近い箱根にも福沢諭吉からこれからの国際観光の重要性を学んだ山口仙之助によって1878年にすでに洋風の富士屋ホテルが建てられ、多くの著名な欧米人が利用している。こうした避暑地では夏にはヒグラシが鳴き、近くの清流からはカジカガエルの鳴く声が聞こえて来る。釜石では夏になると近くの山からはヒグラシの声が聴こえて来て、流れの音が家にまで聴こえて来る甲子川からはカジカガエルの声が聴かれる。こうした蝉やカエルたちの声を聴いているとほんとうに自分がまるで避暑地にいるような錯覚を覚えることがある。昨日甲子川の堤を歩いていると、オオヨシキリの声が聴こえて来た。もう釜石は初夏に入ったのかも知れない。





旧道の緑のトンネル

山藤

朴の木の花

桐の花
今日は朝から春霞の晴れた日となった。昨夜はそらに星がたくさん出ていた。最高気温は20度まで上がり、庭の花たちもたくさん咲いて来た。去年は花が咲かなかった御衣黄(ぎょいこう)桜も今年は咲いてくれた。吉野垂れや楊貴妃も咲いている。八重桜は一般に染井吉野より少し遅れて咲いてくる。 年を重ねて来ると、年とともに時間の過ぎて行くのが早く感じられるようになって来た。後どれだけ生きていられるのかと言う意識がどこかにあるのか、岩手に来てからはとても自然に惹かれるようになった。特に花木の芽吹くこの時期が好きになった。新しい生命を感じるためだろうろうか。今朝ももうだめだと諦めていた蝋梅(ろうばい)や大山蓮華の木に小さな芽を見つけて嬉しくなった。毎年春に咲く花たちも同じ花ではない。それがまた楽しみでもある。この自然の豊かな地で暮らしていると、自分が育って来た過去や、日本と言う国の過去を思うことが多くなった。考えてみると、これまでは日本の過去にはほとんど関心なく暮らして来た。しかし、釜石にやって来て、隣り街の遠野祭りを見ているうちに、遠野の歴史から始まって、東北の歴史も知りたくなって来た。その歴史を辿ると、「蝦夷(えみし)」で止まってしまう。これほど自然豊かな地で、人がただ野生的な生活だけに明け暮れていたとは思えない。すでに北部九州に次いで古い弥生前期末には水田跡である青森県の砂沢遺跡があった。日本の古代史を辿る中で、古田武彦氏の九州王朝説や和田家文書に出会った。遺跡と日本と中国の古文書を照合して導き出された日本の古代は古事記や日本書紀はむろん現代の歴史学や考古学とさえ異なっていた。古代には日本各地に王国と呼べるものが存在した。しかし、古事記や日本書紀はそれらを抹消して、縄文末期から現代まで唯一近畿の、後には東京に続く天皇家のみによって統一されて来た国であるとしている。弥生時代の遺跡を見るだけでも古田氏の言われるように北部九州に圧倒的に三種の神器の出土する遺跡が集中している。3世紀の卑弥呼(ひみか)のいた邪馬壱国は大和などではなくやはり北部九州にあった。東北各地や関東、伊勢や出雲にも祀られている荒脛巾(あらはばき)神や荒神には和田家文書に載る荒覇吐王国の存在の名残である。その末裔であった奥州安部氏や奥州藤原氏が所蔵していた史書も抹殺されてしまったのだ。東北は豊かな産金産馬に加えて、独自に西アジアまで広く交易し、それらの地域の人々も住み着いていた。その富が東北には文化をもたらしてもいて、奥州藤原氏などは京都に匹敵する栄華を築いていた。自分が生まれ育った日本と言う四季のある国は素晴らしい国だと思う。しかし、その古代の歴史はあまりにも欺瞞に満ちている。




御衣黄(ぎょいこう)桜

楊貴妃(ようきひ)桜

吉野枝垂れ桜
震災前の2010年の釜石市の人口は39,578人であったが、本年2月1日には推計値で35,640人となっている。4,000人近い減少である。今、釜石をはじめ沿岸部の道路にはたくさんのダンプカーが走り、そのナンバーを見ると、ほんとうに全国から来ていることが分かる。ダンプカーだけでなく乗用車も他府県ナンバーが非常に多い。旧商店街のある釜石の市街地を別とすると、被災した地域は今平地に土が山積みされており、盛り土作業がどこでも行われている。先日山田町の道の駅に行った際に山田町を見ると、恐らく他府県からの支援や作業のためにやって来た人たちのためと思われるホリデイインのような建物が新たに建っていた。釜石には遠く九州や広島あたりからも、私の出身の愛媛県からも人が来てくれている。復興のために単身で多くの人が来てくれているのだ。2019年にはラグビーのワールドカップ会場ともなるためそのラグビー場も鵜住居地区に建設される。今はこうした支援や作業に来てくれている人たちの生活が釜石の消費の一部を支えてくれてもいる。しかし、復興が終われば、そうした人たちは去って行く。現在も働ける若者の数が少なく、どこも人材不足で困っているが、復興特需が終われば、残っていた若者も需要減で釜石を離れざるを得なくなるだろう。釜石市のホームページで統計資料を見ようとしても昨年の統計数値は掲載されておらず、人口も表示されていない。市もとても手が回らないのだろう。復興の後のことも考える余裕はないのかも知れない。しかし、いずれその現実に向き合わざるを得ない。震災がなくとも地方は急速に高齢化と人口減に見舞われている。今は復興で表面上は多くの人がいるが、いずれ潮が引くようにそれらの人たちが去って行く。造られたラグビー場も維持費は相当な市への負担になる。一時的には選手たちの宿泊設備を増やすことも必要になるが、終わってしまえばその設備さえ、どう維持していくのか。一般に地方が生き残るには製造業、観光、農業くらいしか産業は見当たらない。釜石は平地が少ないため遠野ような農業は難しい。製造業も沿岸部は交通網が不便であるために、進出は難しい上、今後は日本の製造業自体が新興国に駆逐されて行くだろう。地方は地元の良さに気付き、それを強調することでしか生き残りは出来なくなるだろう。中国は粗鋼生産ですでに世界の6割を生産可能だ。釜石の製鉄が立ち行かなくなったのもこうした新興国である中国に価格的に競争出来なくなったためだ。こうした変化は他の製造業へも波及して行く。中国にはすでに中小を入れて500もの自動車会社ある。いずれ世界に中国の自動車が走るようになるだろう。中国の後にはインドやブラジルも控えている。しかもインドはIT技術者もたくさんいる。米国のIT技術はインド人で支えられている。昔から変わらず今も釜石にあるのはこの豊かな自然だ。海にも山にも豊かな幸があり、植物にはとても適した地域でもある。そうした利点を生かして行くことを考える必要があるだろう。釜石に限らず岩手には行楽用の植物園がない。岩手大学の植物園くらいで、見るべきものがない。かっては放牧用に使われた遊休地がたくさん釜石の周囲にある。そこも有効活用すれば、新しく完成する自動車道と合わせて多くの観光客を引き寄せるものが作れるだろう。農業の出来ない地方はもはや観光で生き残る道しか残されていない。


裏山に咲いて来た雪柳