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釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで17年6ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

不動明王

2016-04-08 19:19:20 | 文化
職場の隣の薬師公園には不動明王の石碑と大きな降魔鉄剣が奉納されている。不動明王は大日如来の化身とされ、密教の重要な存在である。日本の密教はほぼ同時代の最澄と空海によって深められた。しかし、両者には大きな違いもある。最澄は言ってみれば、当時のエリートであり、国費で唐へ渡ったが、空海は四国讃岐の佐伯氏の出であり、捕らえられた蝦夷が配された地で佐伯氏を名乗った、その子孫である可能性が強く、どう賄ったのか私費で唐へ渡っている。最澄は帰国後比叡山で天台宗を開き、空海は真言宗を高野山で開いた。同じ密教と言っても天台宗では密教は顕教とともに教えの一部とされるのに対して、真言密教は真言宗そのものである。空海は四国を放浪し、また東北の地にも旅して来ている。四国では空海のゆかりの寺院が後に四国を代表する霊場として、人々に巡礼されるようになった。岩手県にも空海にまつわるたくさんの伝承があり、樹齢が800年になる雫石町の「七ツ田の弘法桜」などはまさに空海、後の弘法大師の名がそのまま残されている。花巻市にも空海と関わりのある湧水が二箇所、念仏清水、蟹沢坊湧水として残り、空海が飲んだとされる奥州市杉ノ堂大清水は岩手の名水20にも選ばれている。北海道の松前町の阿吽寺は空海により開かれたとされ、奥州安倍氏の末裔である安東盛季が再興したとされる。秋田県の仙北郡美郷町には石芋伝承が残されている。旅して来た貧しい身なりの空海が植えられた芋の子を、その女主人に分けて欲しいと頼むが、断られてしまう。すると、それまで柔らかかった芋の子がそれ以来石のように硬くなってしまったと言う。女主人も後に、その貧しい身なりの僧が弘法大師であったことを知る。伝承としては空海、弘法大師は北海道から九州まで事跡が残されている。四国は空海の出身地でもあるため、各地に弘法大師ゆかりの地がある。讃岐や伊予のため池の多くが弘法大師の作ったものとされている。司馬遼太郎はその著書『空海の風景』で、空海の出自に触れ、空海の資料の一つである『御遺告』で、空海が自らを「吾が父は佐伯の氏。讃岐の国多度の郡の人なり。昔、敵毛(てきばう。えみし)を征して班土(はんど)を被(かうむ)れり」として、父親が蝦夷討伐の功績で領地を得た旨を書いているが、『日本書紀』では日本武尊が捕虜にした蝦夷を、景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのが佐伯の祖であると書かれており、空海は蝦夷の末裔としている。空海はむしろ自分の出自を隠したかったようだ。蝦夷には敵意のような感情を持っていたことがうかがわれる。ともあれ、不動明王は恐ろしい形相で、悪魔を屈服させ、仏道に従わないものをも慈悲の心で導き救済すると言われる。人々は強い存在としての不動明王に救いを求め、各地で信仰されるようになったのだろう。
薬師公園の不動明王石碑と降魔鉄剣

自分の身は自分で守る

2016-03-23 19:11:17 | 文化
さすがに3月も中旬を過ぎて、4月に近付いて来ると、朝はもう氷点下になることがなくなった。しかし、一昨日は日中に小雪が舞って、さすがに東北の3月を思い出させられた。日射しも吹く風ももうすっかり春を感じさせてくれる。庭のサンシュユも黄色い花を咲かせ、薄紫のスミレも一輪咲いていた。福寿草も幾つかの蕾が開いて来た。椿はたくさん花を開かせて来た。あと一月もすれば、岩手の各所で桜が見られるようになる。 戦後、日本人は1980年頃までは10万人当たりの死亡原因のトップは脳血管疾患、つまりは脳卒中、脳梗塞や脳出血であった。しかし、1980年以後は癌などの悪性新生物がトップとなり、以後増え続けている。厚生労働省の統計のある1947年には悪性新生物による死者は10万人当たり70人であったが、2013年には290人にもなっている。脳血管疾患の方は125人から一時は190人まで増えた後、2013年には90人ほどに減っている。何故、現在も悪性新生物は増え続けているのだろうか。厚生労働省は「食生活の欧米化」を主因として上げている。では「食生活の欧米化」とは一体何だろう。かって、多くの日本の家庭の一般的な食生活はご飯に味噌汁、漬物、野菜の煮物、魚介類などが平均的な内容で、ほとんどが植物性の食材で、動物性のものは魚介類、それも常食というほどではなかった。しかし、それが今や米の消費量が半減し、パンの消費量が増え、そして肉類、卵、牛乳、乳製品などの動物性たんぱく質と油脂類が大幅に増えた。農畜産業振興機構によれば、年間の一人当たりの食肉消費量は1960年にわずか3.5Kgであったものが、2013年には30Kgにもなっている。30Kgの内訳を見ると、鶏肉と豚肉がそれぞれ12Kgずつで、牛肉は6Kgとなっている。鶏肉・豚肉と牛肉の栄養分の大きな違いは脂質にある。それぞれ100g中に3.9g、3.6g、10.7gとなっている。農林水産省が今月出した「最近の牛乳乳製品をめぐる情勢について」を見ると、1975年からのデータになっているが、牛乳も加工乳・成分調整牛乳も1980年代にかけて増えていたが、2009年頃からはいずれも横ばいで、一人当たり年間消費量は23リットル、3.6リットルほどであるが、チーズや生クリームの消費量は1975年以降一貫して増え続けている。「食生活の欧米化」とは動物性たんぱく質と乳製品(脂質)の消費量の増大である。この変化は身長と寿命を延ばしたが、同時に癌などの悪性新生物を増やして来た。そして生活スタイルも大きく変わり、社会の複雑化により、ストレス社会とも言われる。厚生労働省の「平成26年人口動態統計の年間推計」を見ると、死亡数126万9,000人で、死因順に悪性新生物37万人、心疾患19万6,000人、肺炎11万8,000人、脳血管疾患11万3,000人となっている。肺炎は抵抗力の落ちた高齢者の死因であり、その他は長寿化の中での毎日の生活の繰り返しにより生じた疾患である。肺炎以外の3つの死因で死亡原因の半分以上を占めている。これらは広い意味の生活習慣病と言えるだろう。食生活をかっての日本食の方向へ変え、ストレスを解消する方法を身につけることで、こうした疾患を避けることが可能になる。こうした病は自らの生活が引き起こしているとも言える。現在の医療は病の予防はしてくれない。予防はあくまで自己責任なのだ。
サンシュユ(白梅と紅梅を背景に)

西行

2016-03-15 19:19:56 | 文化
中世の歌人、西行は藤原秀郷の9世孫とされ、武道に秀でて同年の平清盛とともに鳥羽院の北面武士となった。しかし、1140年、突然妻子がありながら23歳で出家した。出家はしてもどの宗派にも属さず、庵で一人暮らしていた。その西行が1145年頃に平泉に向けて旅立った。武士にも僧侶にもなり切れない自分を強く意識しながら。一説には100年前に陸奥を訪ねた歌人、能因法師のたどった道を歩いたとも言われる。西行は藤原氏の出で、当時奥州藤原氏としては二代目藤原基衡の時代だ。奥州安倍氏が滅んだ前九年の役(1051年~1062年)の始まる前である。もう一度は東大寺大仏建立に奥州藤原氏の資金援助を要請するよう朝廷から依頼されての陸奥行きとされる。1186年、西行69歳の時だ。この時代は京の都から関東へ至るだけでも3箇所の難所があった。鈴鹿(三重)、小夜の中山(静岡)、箱根(神奈川)である。小夜の中山で「年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり 小夜の中山」と詠い、老齢になってなお命のあることを自覚している。ただ朝廷からの依頼だけが旅の目的ではなかったろう。若き日に訪ねた平泉はすでに奥州安倍氏が滅び、奥州藤原氏三代目の藤原秀衡の全盛期であった。しかし、西行が訪れた年、秀衡には源頼朝からの無礼な要請が出始めていた。金を始めとする朝廷への献上品を秀衡が直接都へ献上するのではなく、頼朝を介すようにと言うのだ。この時、西行は頼朝にも会っている。西行は頼朝の陸奥に対して抱いていた思惑を読み取っていたのかも知れない。しかし、すでに西行にはそうした政争には関わる気持ちはなかっただろう。朝廷の依頼の実行も西行にしてみれば、単なる表向きの理由であったろう。人生の最後にもう一度陸奥を見て若い時の自分とどう違って見えるのか、感じるのか、それを知ろうとしていたのではないか。陸奥は平安の時代には歌どころとされていた。歌を詠むのに向いたところがたくさんあるとされていた。武士にも僧侶にもなり切れなかった西行は歌人として最期を迎えたかったように思う。
奥羽山脈

2016-03-14 19:19:51 | 文化
犬は現在のところ1万5000年前頃に人とともに生活の中に溶け込んだと考えられている。いわゆる家犬化した時期とされる。家犬はタイリクオオカミから進化した。その最初は東アジアで現在の犬が生まれたとされる。かって人は野獣を狩って生活をしていたが、弓の発明とともに猟犬の必要性が生じ、それが家犬への発端となったのではないかと言われる。一般に動物が進化する時、餌が十分に摂れるようになると小型化する。従って犬も家犬になるとオオカミよりも小型化が進み、躯幹も頭も犬はオオカミよりも小さくなった。1万年以上に渡って、犬は人に馴化して来たわけだが、オオカミも犬も特に生後のわずか数周がその個体の社会性に大きく影響すると言われる。従って最初はオオカミの生まれて間も無いものを人が慣らして行ったと思われるが、それでもオオカミの馴化は難しいようだ。何よりも攻撃性が長く残ってしまう。家犬は可愛いさもあって、さらに人工的に小型化され、純粋種がミックスまでされて売られている。元々の犬種自体が人によって作出されたものではあるが。人間に飼われて、無残に捨てられたり、虐待されたりする犬たちもいる。しかし、犬はとても人の心を癒してくれる。人への癒しは医学的にも研究されている。人間の体の機能は神経と内分泌、いわゆるホルモンの二通りで調節されている。神経にはさらに意思によって制御される神経と制御されない神経があり、体の基本的な調整をするのは後者で、自律神経と呼ばれている。それには交感神経と副交感神経の2種類がある。人が過度にストレスに浸されと交感神経が働き、体調を悪くする。逆に穏やかな気分でいると副交感神経が体をリラックスさせる。犬に触れたり、一緒に遊んだりすると、実験的に副交感神経が優位になることが明らかにされている。また内分泌の面でも脳下垂体後葉と言うところから分泌されるオキシトシンと言う一種のホルモンがやはり犬に触れるとたくさん分泌され、人の心を癒してくれ、ストレスも軽減される。特に犬の目を見ながら犬に触れるとより多くそのオキシトシンが分泌される。犬は傷ついた心や喪失感に打ちひしがれた心なども癒し、穏やかな気持ちにさせてくれる。我が家の犬もいつもそうした癒しを与えて来てくれた。
我が家のベルジアン・タービュレン

分析と統合

2016-02-28 19:22:05 | 文化
昨夜降った雪が朝には10cmほど積もっていた。まだ寒さはもちろん感じるが、最近の日射しはもう確実に春の明るい日射しになっている。昨日はそんな日射しの中を歩いていると、梅が咲いていた。やはり今冬は例年より早く咲いている。雪は降っても、もう春が間近に来ている。東北の冬は長いが、それだけに春の喜びは大きくなる。その春の到来を花たちが教えてくれる。明るい日射しを浴びる庭の木々を見ていると、木々が風に吹かれて、その影も動く。そんな影の動きを見ていて、ふと仏教の「一如」や「不二」と言う言葉が浮かんで来た。木そのものとその影は一体である。まさに「形影一如」であり、「而二不二」と言うことなのだろう。仏教ではよく、一見対立する概念が同じものだとする。これは科学の手法とは正反対である。科学は物事を分ける分析的手法をとる。20世紀は急速にその科学が発展し、我々の生活を大きく変えた。生活の中には自然界にはない物で溢れるようになった。いずれも科学が生み出したものだ。大都市はむろん、地方の小さな町でさえその構成されたものは自然界にはないものだ。道路や建物、高層ビル全てが科学によって作り出された。物だけではなく、労働もまた分析的な手法で行われるようになった。その方が効率が良いからだ。こうして物も精神も分析的になったのが20世紀だとも言える。しかし、実際に人間が目にし得る自然は変わらず、いつまでもそこにある。その自然は現代人だけではなく、親鸞や道元も見た自然だ。彼らの精神は分析ではなく、統合に赴いた。「生死一如」とか「心身一如」「迷悟一如」など人が生きる時、別々に見えても、同じものなのだと考えた。生あるものには必ず死があり、心と身体は一体である。二つの面があっても、その本質は「 一」である、と考えた。「分析」ばかりに疲れた時、変わらずそこにある自然に触れると癒されるのは自然の中に「統合」を見ているのかもしれない。「分析」に溢れた現代人の精神には「統合」が必要なのかもしれない。揺れる木々の影が今日はそんなことを想起させた。
雪の積もった朝の庭の椿

山神

2016-02-27 19:21:17 | 文化
子供の頃、四国では夏には必ず海で海水浴をした。波の穏やかな瀬戸内海の浜から眺める島々がとても綺麗だった。この瀬戸内海も豊かな漁場でもあった。しかし、釜石へ来てみると、海だけではなく山もまたとても豊かで驚くばかりだ。その豊かな山には山神が祀られている。岩手では山神神社や山神碑がいたるところに見られる。好奇心に駆られて、この山神を調べてみると、実は全国に見られる。北海道から鹿児島まで分布している。岩手では五葉山神社、不動山神社、麓山神社、山神社の名で祀られ、祭神を大山津見神とし、本宮を私の出身地の愛媛県の瀬戸内海に浮かぶ大三島の大山祇神社とするものもある。大山祇神社そのものも出雲大社と同じく縄文時代に遡る神社であると思われるが、東北や関東の本宮を大山祇神社とする神社はおそらく明治新政府による廃仏毀釈で改めて主神や本宮を変えたものではないだろうか。岩手の豊かな山を見ていると、縄文の人々がいかに山を尊んだか分かる気がする。食料や住居・暖をとるための木材をあたえてくれる恵みの元でもあった。自然の中に神を見い出した縄文人たちは当然山そのものも神と崇めたに違いない。縄文人の痕跡は北海道から九州まで認められる。そしてその地域に全て山神がある。おそらく縄文時代に生まれた山神はしかし、その後、職業の分化とともに変質して行ったのだろう。狩猟者や林業、鉱業、農業ごとに山神の祀り方や山神の意味が異なって来た。ただ共通しているのは山神は女性であることだ。これもやはり女性を土偶として敬った縄文の名残りだろう。巨石に神性を認め、山中の巨石のあるところを聖地としていた。和田家文書では弥生時代に始まる荒覇吐王国では天・地・水を祀る荒覇吐神が信仰されたが、これは先住の縄文時代に渡来した津保化族の信仰であった。青森県の三内丸山遺跡に見る三段の六本柱建物はまさにこの天・地・水を祀る祭壇として文書に書かれている。しかし、あくまでも荒覇吐神の聖地は山の中の人があまり立ち入らないところに設けられたとある。縄文時代はブナ・ナラ・トチノキなどの落葉樹が北海道から九州まで広がっていた。従って列島で暮らした縄文人はほぼ共通の生活形態を維持出来たと思われる。現在の東北と同じく縄文時代は九州まで落葉樹が動物たちにも食料を供給していた。山は豊かな動植物で溢れていただろう。そんな恵みを与えてくれる山は時には厳しくもあり、そこに恐れも感じていたはずだ。自然とともに暮らし、その自然のもたらす天変地異に縄文人の人智を超えた神の存在を見出したのも当然だろう。自然に対する人間の存在は今も縄文時代と何ら変わりはない。
八幡神社近くの山腹の藪椿

「神は死んだ」

2016-02-17 19:18:35 | 文化
「神は死んだ Gott ist tot」と言ったのは19世紀末の哲学者フリードリヒ・ニーチェFriedrich W. Nietzscheである。科学が進歩し、市民革命を通じて個人が自立し、個人主義が広まり、価値観が多様化すると、「生の苦しみ」への導き手であった神への信仰が失われて行った。「生の苦しみ」を自ら引き受け、それを乗り越えられる強い人間、「超人」を彼は見出した。現代はニーチェの時代よりさらに個人主義や価値観の多様性が浸透している。無論、科学も驚異的に進歩した。宗教はもはや省みられなくなった。日本では江戸300年で仏教が強制され、明治には神道が強制され、敗戦とともに個人の自由が謳歌されると宗教は単なる儀式と化した。江戸300年は一方で朱子学と言う儒教倫理をも強制し、明治維新もそれを基本的に引き継ぎ、やはり敗戦で、倫理的な支柱としての役割を失った。現代の日本では「神」も「仏」も死んでいる。人間を超越した存在を亡くして、倫理的支柱も失った現代の日本は個々の共通の精神的基盤を持たなくなり、他者への思いやりや人の命の尊ささえも忘れつつあるように思う。ニーチェは人が生の苦しみから逃れるためには、宗教か、道徳、芸術しかないと言った。しかし、もはや宗教も道徳も芸術さえもが失われている。そこには信じることの出来るものを失った人々がいる。ニーチェの説いた超人には容易にはなれない。生の苦しみを直視せず、忘れようとする。そんな世界では文学ももはや成立しなくなる。人間はすべての歴史を乗り越えて来た。とすれば、21世紀もおそらく乗り越えられるのかも知れないが。
遠野の六角牛山(ろっこうしさん)

みかん

2016-01-17 19:13:31 | 文化
今朝も気温は-3度になっていたが、今冬になって庭の水落としした水道が凍ったのは一度だけだ。今朝は水たまりには氷が張っていた。雲の流れる晴れた日で、西の雪を冠った愛染山もはっきり見えた。日中は4度まで上がり、風が少しあったためにやはり寒く感じた。 冬になると郷里が愛媛県でもあり、子供の頃からみかんをよく食べた。岩手に来てからもスーパーに並ぶ愛媛や静岡、佐賀のみかんを買って食べている。みかんの原種は3000万年前のインドのアッサム地方に発祥すると言われ、それが東南アジアから中国へと広まったようだ。みかんの栽培が始まったのは中国のようで、4200年前の中国の文献『橘誌』では柑橘類を柑、橘、橙に分け、柑18品種、橘14品種、橙5品種とし、その特性も詳細に記しているそうだ。日本では「たちばな(橘)」が原生していたようだが、3世紀の『魏志倭人伝』によると、その頃の日本では食用とはされていなかったようだ。『古事記』『日本書紀』では垂仁天皇の命で、田道間守が常世の国から非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰り、それが今の橘だと記されている。ただ、この橘が現在の何に当たるかははっきりしていないようだ。日本の古くからのみかんには小みかんと温州みかんの2種類があるようで、小みかんは紀州みかんとも呼ばれて、小粒のみかんだ。普段、我々がスーパーなどで目にするのは、温州みかんの方だ。世界にはみかんは900種類があり、温州みかんは日本独自の品種になる。鹿児島県の長島東町が原産地らしい。温州みかんは元々「李夫人(りうりん又 は りふじん)」と呼ばれていたそうだが、明治政府がみかんの名前を整理する都合で温州みかんとした。「李夫人」は中国の漢の時代の絶世の美人で、何故かその名が使われていた。温州みかんの名もやはり中国の美味しいみかんの産地である温州府にちなんで付けられているが、あくまでも温州みかんは日本の原産である。欧米では温州みかんは「satsuma mandarin」と呼ばれている。明治9年に日本に来ていたアメリカ大使館員の夫人がみかんの苗を薩摩で手に入れ、フロリダに送ったことによる。みかんにはビタミンCが多く含まれているが、そのビタミンCを体内で作り出せないのは人間とチンパンジーとモルモットだけだそうで、その人間とチンパンジーとモルモットだけがまた風邪を引くのだと言われる。古くから風邪の時には金柑を食べたり、柿を食べると風邪を引かないと言われて来た。こうした風習には古人の生活の知恵から生まれたものが含まれており、現在ではそれに根拠があったことも分かって来た。
愛媛産の温州みかん

イワテ

2016-01-12 19:25:06 | 文化
連休中は夜半に小雪が降ったが、平地では積もることはなかった。今朝の気温は-3度で日中の最高気温は3度までしか上がらなかった。今年の秋には岩手県で国体があり、県内各地に会場が種目ごとに分散されている。釜石では水泳とトライアスロン、ラグビーの3種目が行われる。釜石自動車道の全線開通予定は2年後となっているが、家の近くの山では夜中でもダイナマイトの爆破音が聞こえることがあり、国体に合わせて前倒しされるのかも知れない。 岩手県は明治5年に県庁のある盛岡を含む郡名である岩手郡の名前に由来する。岩手の名前の由来は幾つかあり、一つはアイヌ語説になっている。全国ではアイヌ語地名が北は北海道から南は島根県にまであると言われる。中でも北海道を除けば東北の北部になる青森県、秋田県、岩手県の三県に多い。岩手や釜石、遠野の名前もアイヌ語に由来するとも言われる。釜石市内でも女遊部(おなっぺ)、花露辺(けろべ)、唐丹(とうに)などの地名はアイヌ語由来と考えられている。かって東北を中心に築き上げられた「荒覇吐王国(あらはばきおうこく)」あるいは「日高見国」はやはり現在のアイヌ語に近い言葉が使われていたのかも知れない。イワテもアイヌ語のイワ・テイ(岩のある森)に由来するとも言われる。カマイシもアイヌ語のカマ・ウシ・イ(平盤な岩のあるところ)とかクマ・ウシ・イ(サケ干し竿の干し場がたくさんあるところ)から来たものと考えられている。江戸時代までは東北各地にアイヌの人が住んでいたとも言われる。東北で今も使われる各地の方言にもアイヌ語由来の方言があるのかも知れない。ただその方言も東北各県でかなり違いあり、特に津軽の言葉は同じ東北に住む人たちでも分からないらしい。歴史がそうであるように、おそらく方言も何らかの形で「勝者」のものが「敗者」のものを駆逐しているのだろう。岩手で使われるバッケ(ふきのとう)、ベコ(牛)、サンペ(魚や野菜を入れた味噌汁)などの方言もアイヌ語に由来すると言われる。

オオバン

ホオジロガモ      ホシハジロ

個性の希薄化

2016-01-04 19:12:33 | 文化
暖冬の予想通り、この正月三ヶ日は暖かい日が続き、仕事始めの今日も昼には気温が9度まで上がり、風もなく、コートがいらないくらいであった。釜石市内は全く雪がない。職員の方から、雑煮を食べた話を聞かされた。釜石の雑煮は岩手県沿岸部の特徴である「くるみ雑煮」だ。焼いた角餅を雑煮に入れてあるところは東日本で見られるものだが、そばにその雑煮の中から取り出した、角餅を浸す「くるみたれ」が用意される。以前は各家庭でその「くるみたれ」を準備したそうだ。岩手の山野にはくるみの木がたくさんあり、そのくるみを採って、くるみの殻を家で割り、中のくるみの実を引いて粉にする。それに砂糖や塩などでを混ぜて「たれ」を作る。直接には岩手に来てから、一度も「くるみ雑煮」は食べたことがないが、焼いた角餅を「くるみたれ」を付けて食べさせていただいたことはある。「くるみたれ」はコクのある甘みがある。慣れないせいか、いくつもは食べられそうにはなかった。普通にアンコのある餅の方が食べやすい。「くるみ雑煮」は岩手の雑煮と紹介されるようだが、岩手でも沿岸部の雑煮で、内陸では「くるみ雑煮」ではないようだ。以前は各家庭で「くるみたれ」を作っていたが、今ではスーパーでも売られるようになっている。岩手に限らず東北は郷土料理が色濃く残る地域だが、それでも年々、家庭で作られなくなって来ている。郷土料理だけでなく、方言も若い世代からは聞かれない。その意味では世代が若くなるほど全国的に同質化しているように思う。情報伝達手段の発達・普及に加えて、人の移動手段の高速化によって、急速に感受性の強い若い世代に同質化が進んでいるのだと思う。これは地方の個性である方言や郷土料理の喪失でもある。つまりは地方文化が消えて行っている。地方の個性が薄れて行くことと同時に人の個性もやはり薄れて行っているように思われる。先日ある方が子供時代の話をされた。近所の子供達が集まり、1軒の家の中で「かくれんぼ」をして、「押入れ」の中に隠れてもその家の人からは叱られることはなかったそうだ。そればかりか、昼時だと、簡単な食事まで食べさせてもらったりもしたそうだ。現在の一定年齢の人はやはり同じような体験があるだろう。そうした寛大な親たちの中で、子供同士が自由に遊べた環境では、子供の個性がはっきり現れていた。その子供の頃の個性は成人して社会に出ても、基本は変わらないだろう。しかし、近年の子供達は戸外で遊んだりすることが様々な危険に囲まれているせいか、かってのように子供達が寄り集まって遊ぶ光景が見られなくなった。せいぜいごく少数の友達が集まって屋内でゲームに興じる程度だろう。ところで、日本は江戸300年で組織への帰属意識が定着させられた。そしてその中から村八分と言う異質者を排斥することも生まれた。日本人は集団主義だと言われる。これは社会心理学者の山岸俊男一橋大学特任教授によれば、「圧力やしがらみ、あるいは社会のしくみのせい」だとされる。好んで個人がそうしているわけではないと言うことだ。子供のいじめは昔もあったが、現在の子供のいじめはまさに集団的になっているように思う。昔は個人が個人をいじめ、現在は個人を集団でいじめる傾向があるように思われる。それは個性の希薄化と並行しているように思われる。集団の中で異質なものを排斥する傾向は個性の希薄化により、より強まって来ているのではないだろうか。今後、社会的にも異を唱えることが次第にさらに難しくなって来るのではと危惧してしまう。
障害に何度も挑んで傷つき白い肌を見せる鮭

力尽きて川底に白い魚体を沈ませた鮭たち