釜石の日々

不動明王

職場の隣の薬師公園には不動明王の石碑と大きな降魔鉄剣が奉納されている。不動明王は大日如来の化身とされ、密教の重要な存在である。日本の密教はほぼ同時代の最澄と空海によって深められた。しかし、両者には大きな違いもある。最澄は言ってみれば、当時のエリートであり、国費で唐へ渡ったが、空海は四国讃岐の佐伯氏の出であり、捕らえられた蝦夷が配された地で佐伯氏を名乗った、その子孫である可能性が強く、どう賄ったのか私費で唐へ渡っている。最澄は帰国後比叡山で天台宗を開き、空海は真言宗を高野山で開いた。同じ密教と言っても天台宗では密教は顕教とともに教えの一部とされるのに対して、真言密教は真言宗そのものである。空海は四国を放浪し、また東北の地にも旅して来ている。四国では空海のゆかりの寺院が後に四国を代表する霊場として、人々に巡礼されるようになった。岩手県にも空海にまつわるたくさんの伝承があり、樹齢が800年になる雫石町の「七ツ田の弘法桜」などはまさに空海、後の弘法大師の名がそのまま残されている。花巻市にも空海と関わりのある湧水が二箇所、念仏清水、蟹沢坊湧水として残り、空海が飲んだとされる奥州市杉ノ堂大清水は岩手の名水20にも選ばれている。北海道の松前町の阿吽寺は空海により開かれたとされ、奥州安倍氏の末裔である安東盛季が再興したとされる。秋田県の仙北郡美郷町には石芋伝承が残されている。旅して来た貧しい身なりの空海が植えられた芋の子を、その女主人に分けて欲しいと頼むが、断られてしまう。すると、それまで柔らかかった芋の子がそれ以来石のように硬くなってしまったと言う。女主人も後に、その貧しい身なりの僧が弘法大師であったことを知る。伝承としては空海、弘法大師は北海道から九州まで事跡が残されている。四国は空海の出身地でもあるため、各地に弘法大師ゆかりの地がある。讃岐や伊予のため池の多くが弘法大師の作ったものとされている。司馬遼太郎はその著書『空海の風景』で、空海の出自に触れ、空海の資料の一つである『御遺告』で、空海が自らを「吾が父は佐伯の氏。讃岐の国多度の郡の人なり。昔、敵毛(てきばう。えみし)を征して班土(はんど)を被(かうむ)れり」として、父親が蝦夷討伐の功績で領地を得た旨を書いているが、『日本書紀』では日本武尊が捕虜にした蝦夷を、景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのが佐伯の祖であると書かれており、空海は蝦夷の末裔としている。空海はむしろ自分の出自を隠したかったようだ。蝦夷には敵意のような感情を持っていたことがうかがわれる。ともあれ、不動明王は恐ろしい形相で、悪魔を屈服させ、仏道に従わないものをも慈悲の心で導き救済すると言われる。人々は強い存在としての不動明王に救いを求め、各地で信仰されるようになったのだろう。
薬師公園の不動明王石碑と降魔鉄剣
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