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釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで17年6ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

南部牛追い唄再び

2016-10-06 19:19:00 | 文化
日本の各地に伝わる民謡は、古来民衆に伝承されて来た歌である。辛い作業を歌うことで気を紛らせたのだろう。特に冬の気候の厳しい東北はそうした歌の存在は重要だったと思われる。現在の岩手県の南はかっては仙台藩であり、北の南部藩に伝わった民衆の歌が「南部牛追い唄」だ。亡くなった美空ひばりにも歌われた民謡だ。「南部牛追い唄」には東西二つの系統があり、東は下閉伊郡の小本ー岩泉ー盛岡を結ぶ小本街道に沿った地域で歌われた九戸系と、西は秋田県の角館から雫石ー盛岡ー沢内ー黒沢尻への仙北街道や花輪から盛岡へ至る鹿角街道などに沿った地域で歌われた沢内系があり、現在、「南部牛追い唄」とされるのは後者になる。前者は「牛方節」と言われている。岩手は古くから馬の産地であり、以前は「南部駒」と呼ばれていた。馬と同じく、やはり牛も生産されており、山地の峠越えにも適した足腰の強い「赤べコ」が「南部牛」として知られた。米や塩、鉱石などが主に盛岡や黒沢尻(北上市)へ野宿を重ねながら運ばれて行った。以前は内陸は現在よりもずっと豪雪地帯であったため、冬の移送はとても大変であった。北海道でも昭和40年代までは馬橇が使われていた。幕末には南部領では何度も飢饉があり、たとえ飢饉であっても年貢の取り立ては変わらず、民衆は極貧の生活を強いられ、沿岸部では一揆も何度か見られている。生活に窮した民衆は子を売ることで、生き延びた。「働けど働けど我が暮らし楽にならざり じっと手を見る」状態は啄木以前の岩手にもすでにあった。「田舎なれども南部の国は 西も東も 金の山」と歌われているが、まさに逆説で、人々の暮らしは「金」とは無縁であった。「沢内三千石お米のでどこ つけて納めたお蔵米」と歌われた沢内村は藩の秘蔵米の産地であったが、農民の暮らしは悲惨だった。身売りがここでも行われていた。「江刈葛巻牛方の出どこ いつも春出て秋もどる」と最後に歌われる。出稼ぎの辛い生活がすでにあった。どこか哀調を帯びた美しい歌に感動を覚えざるを得ない。岩手の自然に溢れた環境の中で、この同じ自然を見ながら暮らしたかっての人々は厳しい生活を余儀なくされ、その生活の中から生まれた唄であることを改めて感じさせられる。
白花のホトトギス

地方のささやかな生活

2016-09-23 19:10:05 | 文化
ここしばらく釜石では梅雨時のような日が続いている。先日1日だけ晴れたが、夕方からはまた小雨模様に戻ってしまった。まさに秋雨と言った感じだ。日によっては肌寒くさえ感じられる。職場の事情で転居を余儀なくされ、とりあえずは転居したもののまだまだ片付けが残っており、落ち着かない毎日でもある。何よりもネットの回線工事がまだ先なので、毎日のように利用しているネットへの接続に不便を生じている。新築された新居はありがたいが、電気のスイッチの位置やコンセントの位置が悪く、とても住宅を手掛けて来た建設会社とは思えない使い勝手の悪さに閉口もしている。旧居は大きな木があり、毎日小鳥たちがやって来てくれた。しかし、新居には全く木がなく、小鳥たちの声も聴けない。時間をかけて木を育てて行くしかないのだろう。大阪からやって来た子供達の手伝いで随分と助かっている。合間を見ては姉弟で岩手の産直に出かけて、新鮮な野菜や果物を安く買い込んでいる。ドライブを兼ねて、風景も堪能しているようだ。一部ではもう稲刈りが行われ、ハゼに架けられた稲も見受ける。晴れていれば黄金色の稲穂も見られるところなのだが。先日の晴れた日には北上市の浄瑠璃寺の彼岸花を見に出かけたが、例年より遅く、まだ満開にはなっていなかった。境内には萩も咲き、赤とんぼがたくさん飛び、とても秋らしいいい日であった。岩手の良さはこうした彼岸花の群生地であっても、人がほとんど来ておらず、のんびりとその花たちを鑑賞出来ることだ。近くにはコスモスやテッポウユリも咲く。普段は都会生活をしている子供達も心行くまで境内の景色に浸っていた。その後、花巻のバラ園にも行き、ここでもゆっくりとバラの香りに浸り、最後は鉛温泉へ入って、帰宅した。川淵に設けられた露天風呂で、せせらぎの音を聴きながら至福の時間を過ごした。やはり一定年齢になるとこうした地方の生活がとても好ましく思える。つくづく人には自然が癒しになることを考えさせられる。今や日本は大きく変わろうとしているが、地方のささやかな生活だけは変わらないでほしいと思う。
萩と彼岸花

コスモス

テッポウユリ

生活と病気

2016-09-09 19:12:56 | 文化
年を重ねるごとに自らの健康を考えるようになる。癌を含めた現代の多くの病気は毎日の生活の繰り返しの中から生まれる。一方で、人は動物であるとつくづく考えさせられる。戦後、豊かさが増して来るに従い、食事も含めて生活が欧米化して行った。高脂肪、高たんぱくの食品が増え、化学調味料が開発され、屋内には電化製品が溢れ、自動車や電車、バス、飛行機と行った交通の様変わりを見る。地方の生活は劇的に「改善」され、世の中の経済に合わせて、手に入れられる物も豊富になった。しかし、生活は便利で、とりあえずの豊かさを享受しているが、長寿とともに、病を抱える人の数も増え続けている。人類は何万年もかけて、少しずつ環境に合わせて進化して来た。進化にはそれなりの長い時間を要する。しかし、この100年ほどの人を取り巻く環境は急変した。特に食の環境はここ50年で激変している。かっての日本は徒歩で移動するのが基本であり、炭水化物と低脂肪、低たんぱく質の食が当たり前であった。移動のために身体を使わず、炭水化物の減少と高脂肪、高たんぱくの食生活が繰り返されるようになり、病気の代表である癌が急増した。実際にも運動を定期的に、適度に行っている人は癌の発病率は少なく、低脂肪、低たんぱくの食事を摂る人ではやはり癌の発病は少なくなる。糖尿病は体の中で糖分がうまく利用されず、糖分の余剰が常に見られる病気だ。原因は糖分を利用するのに必要なインシュリンにある。インシュリンの効きが悪いため、必要以上にインシュリン量が増えたり、もともとインシュリン量の少ない人がいたりする。インシュリンは人にとって不可欠のホルモンだが、同時に癌細胞の増殖を促進する。糖質の過剰な摂取は、当然、多くのインシュリンを要する。そうした体の状態が続くと、癌が発生しやすくなる。肥満もインシュリンの効きが悪くなるために、インシュリン量が増える。何故なのか十分解明はされていないが、運動不足も癌の発生を促進する。やはり健康な長寿を迎えるにはかっての日本の生活をもう一度思い出すことが必要なのかも知れない。
虎の尾

セグロウミヘビ

2016-08-29 19:19:55 | 文化
フランス国立科学研究センターの生物学者フランソワ・ブリシュー博士は、今月23日付けの科学誌「Biology Letters」で、唯一の外洋性の海ヘビであるセグロウミヘビ(Hydrophis platurus)がクジラに匹敵する何千Kmもの距離を移動出来ることを解明したと発表した。セグロウミヘビは太平洋やインド洋の熱帯から温帯までの海域に分布するコブラ科のウミヘビだ。体長は50~90cmほどで、体重はマンゴー1個分くらいだ。名前通り、背中は黒く、お腹は黄色から褐色をしており、猛毒を持ち、毒の強さはマムシの300倍とされ、噛まれると死にいたる。肉にも毒があり、食用には出来ない。日本の近海にもいて、北海道あたりまで北上することがあるようだ。尻尾は普通のヘビと異なり、魚の尾びれのような形になっていて、腹側の鱗は退化して、陸上ではあまり動けない。主に小魚を餌とする。ウミヘビの多くはコブラから進化したもので、毒を持つものが多い。卵胎生で、産卵は海中で行われる。ウミヘビの中では攻撃的な性質を持つ。ただ、こちらから触れようとしない限りは攻撃されることはないようだ。ところで、旧暦の10月は神無月と呼ばれるが、出雲だけはその時期を神在月と呼ぶ。縄文時代の出雲は統治の中心であり、各地の神々がより集った。現在も旧暦10月には出雲で神在祭が行われている。そして、その際に神の使いとしてこのセグロウミヘビが奉納される。セグロウミヘビの尾の亀甲模様が原型となり、出雲大社の社紋ともなっている。出雲地方では出雲大社だけでなく、佐太神社、日御碕神社、神魂神社、売豆紀神社、多賀神社、朝山神社、神原神社、万九千神社でもやはりセグロウミヘビが神の使いとして、神迎祭に奉納される。セグロウミヘビは竜蛇神とみなされている。何故出雲でセグロウミヘビが神の使いとされているのか、理由は定かではない。太古の昔から受け継がれて来たもので、その間に「理由」が失われてしまったのだろう。縄文期の気温は現在よりも高く、セグロウミヘビは現在よりも多く見られたはずだ。しかも、長い距離を旅し、猛毒を持つヘビに畏敬の念を持っていたのかも知れない。ある意味で、海の王者とみなされたのだろう。現代考えられている以上に縄文時代は航海術に優れており、出雲王国は沿海州や朝鮮半島をも支配下に置いた。縄文の出雲は海の王者を神の使いと考えたのかも知れない。
凌霄花(のうぜんかずら)

健康寿命

2016-08-24 19:17:55 | 文化
日本人の平均寿命は、男性が80.79歳、女性が87.05歳となった。栄養と医療のおかげなのだろう。ただこの平均寿命には病臥している人も含まれており、高齢でも自立した健康な生活をしている、いわゆる健康寿命となると、男女ともに70代前半となる。誰しもが終日ベッド上で過ごし、人の世話になることを望まない。長寿は自立した生活であって初めて喜びとなる。健康を維持するには栄養のバランスと運動が必須だ。栄養が豊かになるに従って、様々の病気が増加した。毎日繰り返される食生活に問題がある。洋食の普及と相関しているとさえ言えるのかも知れない。脂質やタンパクが豊富に摂られることで、体格は良くなり、長寿にはなったが、病気も増加した。特に問題なのは癌の増加だ。残念ながら現代の医療では、この癌を根治させることはまだまだ困難だ。癌も含めて大半の病気は生活そのものに起因していると言ってもいいだろう。年齢とともに新陳代謝が低下し、食事量が変わらなければカロリーオーバーとなり、体脂肪は増加する。中高年でお腹が出る体型が見られるようになる。肥満も免疫力の低下につながる。動物である人が運動不足になれば、動物としての機能不全を起こす。適度な運動もやはり免疫力を向上させる。欧米で日本食が歓迎されるのも過剰な脂質と動物性タンパクを減少させることが出来るからだ。癌の種類によっては体脂肪の増加や過剰な脂質や動物性タンパクの摂取と相関している。かって生活習慣病とされた病気もやはり関連がある。飢餓が寿命を延ばすと言う実験データもある。過食と運動不足は病気につながり、寿命も短くする。自然界には507歳にもなるクジラがいた。人と同じく哺乳類である。自然界には様々なウイルスや細菌がいて、クジラも病気になるだろう。しかし、クジラがそれらに抗して長寿を達成出来るのは、やはりクジラに備わる免疫力である。すべての動物が免疫力で生き延びていると言ってもいいだろう。癌が増え続けている日本人は、逆に言えば、免疫力を失って来ているとも言えるだろう。食生活、運動、睡眠、ストレスなどが起因する。毎日繰り返される生活の見直しをすることこそ、健康寿命の延長につながる。
アメリカフヨウ

あざみの歌

2016-08-18 19:11:11 | 文化
昨日は台風7号のせいで雨と風がいつもより強かったが、東北では常に勢いが弱くなっているので、四国で経験していた台風とはずいぶん印象が異なる。おかげで、被害も少なくて済む。過ぎ去った後も今朝は比較的雨が良く降った。一時は雷も鳴っていた。それも午前中には弱まり、最高気温も26度程度であった。職場の裏山を見ると、アザミが雨と風のせいで倒れかけていて、蕾をたくさん付けているのが見えた。近くを人がたくさん通るが、誰も気にしてはいない。アザミがあることすら気付いてはいないのだろう。山野にひっそりと咲く、このアザミが好きだ。そして、アザミを見ると、八洲秀章の作曲した「あざみの歌」を思い出す。八洲は他にも「さくら貝の歌」、「毬藻の唄」など名曲を作った。北海道にいた頃、阿寒湖の遊覧船に載ると、「毬藻の唄」が流れ、船上から見える阿寒湖と歌が重なって、その情景がいつまでも記憶に残った。八洲の作った多くの曲には文語体の歌詞が付く。戦後間もなくはいずれの歌にもこうした文語体の歌詞が付けられていた。しかし、高度経済成長とともに歌詞は次第に口語体へと変わって行った。現代の若者の歌はさらに口語体と言うよりも日常語と言っていいような歌詞に変わっている。歌は本来詩であった。詩はわずかな言葉の中に深い人の感情を表現したものだ。わずかな言葉でいかに深い感情を表すか。間接的な表現ほど感情は深くなる。現代の若者の歌はあまりに直接的で、かえって深みを失っているように思う。そして、直接的で、深みを失っているのは若者に限らず、現代人のすべてがそうなってしまったようだ。明治政府は言文一致を決めたが、それが浸透するのに100年を要した。しかし、それによって、詩や小説と言う言葉による表現手法の根幹を崩してしまった。詩や小説は人に想像力を働かせることを求めたが、今や、その想像力はわずかに求められるだけで、一律の解釈しか出来ないものになってしまっている。時代は多様性ではなく、同一性を強いる時代になってしまったようだ。
桔梗

「価値判断」

2016-07-13 19:20:13 | 文化
科学や技術の進歩はとても重要なことではあるが、常に何のための科学であり技術であるのか、問い直すことも大切だろう。亡くなった加藤周一氏は事実判断と価値判断と言う言葉を使われた。科学や技術には事実判断が基本となる。しかし、人間が社会生活を行う以上、それらを巡っての価値判断が忘れられてはならないだろう。この価値判断の際に、人間が動物であることも忘れてはならない。現代の様々の健康障害を想起する時、最近はつくづくそう思うようになった。科学や技術の恩恵を受け過ぎて、逆に健康を害してしまっているのが現代人であるとも言えるように思う。何よりも大事なのは人間の身体はともかく何百万年もの長い進化の過程で獲得したものだと言うことだ。にもかかわらず、人間はわずかこの百年ほどで、特に生活を大きく変えてしまった。日本は長寿大国となったが、長寿に意味があるのは健康な生活を送れて初めて意味がある。人の手を借りないで、身の回りのことが可能な状態で長寿であるなら喜ばしい。もっと言えば人間らしい生活の出来る長寿であればいい。しかし、残念ながら、現代の長寿には必ずしもそうではない状態の長寿が多く含まれている。秋田県は脳卒中が全国一であったが、県が懸命に取り組んで、それを返上し、今は岩手県が脳卒中の1位となってしまった。東北は伝統的に冬の保存食が多い。こうしたものには塩分が多く含まれる。秋田県はそこに注目して、減塩食のキャンペーンを実行した。今は岩手県がそれに取り組んでいる。疾病は生活の中で作られる。人間は動物であり、動く物だ。動物は自然の中にあるものを食べる。適度な運動と出来るだけ自然に存在するものを口にすることを心がける必要がある。とても簡単なことだが、普段なかなか実行出来ない。その結果が人間らしくない長寿となる。生活の中で生まれた病気は、一旦発生すると、もう取り返しがつかなくなる。癌さえもがある意味では生活の中から発生して来る。多忙な毎日、人はついつい何のための生活かを忘れて、便利さに乗せられ、「価値判断」を停止してしまっているように思う。
芙蓉

梅雨時の県内を移動して

2016-07-04 19:18:35 | 文化
やはり梅雨時は東北も天候が安定しない。晴れる日もたまにはあるが、曇天が多く、1日でも時間とともに大きく天候が変わったりする。晴れると、入道雲が大きく張り出し、さすがに7月に入ったことを思い出させてくれる。気温も不安定で、25度を超える夏日になる日もあれば、最高気温が20度に至らない日もある。湿度だけは高く、少し身体を動かすと汗ばんで来ることが多い。どこへ出かけても紫陽花が目立つようになった。梅雨時の代表的な花は紫陽花なのだろう。先日も山間部の道を車で走っていると、タヌキが轢かれていた。タヌキは動きに敏捷性が欠けるのだろう。北海道ではキタキツネが犠牲になっていたが、東北はタヌキが犠牲になることが多い。山が豊かなので、動物たちも多く生息出来る。毎朝、庭には小鳥がやって来て、さえずってくれ、気持ちを和ませてくれる。釜石は岩手県下でも市街地が山に接近し、細長く展開しているせいで、市街地にいながら自然を満喫出来る良さがある。しかし、釜石に限らず、沿岸部はどうしても内陸とは距離があり、広い県であるため、移動に時間がかかる。現在、急ピッチでその内陸と結ぶ自動車道が造られているが、すでに開通している自動車道は無料のために誰もが利用できる。ただそのために、せっかくの自動車道もすでに完成して有料の秋田自動車道と比べても、全体の流れが遅い。市街地でもせっかくの二車線が十分に機能していない。岩手の多くにもう慣れて来たが、この交通事情だけは未だに違和感を覚える。長い渋滞が簡単に出来てしまう。先頭車が後続車に道を譲ると言うことがほとんどないからだ。数台車が後続すると、もうその後にさらに続く車は渋滞を強いられる。同じように広い北海道ではこうした渋滞はあまり見かけることがなかった。後続車を気にしないで、マイペースで走る人が多いようだ。長距離を移動しなければならない岩手だと、必要以上に移動に時間がかかってしまう。のんびりと周囲を楽しみながら車を走らせるのはとても気持ちがいいが、急ぐ車もあるので、お互いのペースを尊重しあった運転になってくれればいいのだが。地方は高齢者にとっては車は必須である。それだけに多くの人が道路を利用する。都会以上に道路を利用する年齢層の幅は大きくなる。全国一律の交通指導ではなく、その地域にあった交通指導があれば、と思った。
紫陽花

2016-06-07 19:18:38 | 文化
市街地周辺の山々はすっかり緑が濃くなってしまった。日が刺すと汗ばんで来る陽気になる。釜石に来た頃には夏が涼しく感じられたが、それも3~4年で、慣れて来ると、釜石の夏ですら暑く感じるようになってしまった。後1ヶ月もすればそんな暑さがまたやって来る。最近は夜になるとツツドリの鳴き声が聴こえて来るようになった。ホトトギスも来ているはずだが、まだ今年は鳴き声を聴いていない。 現在は新幹線に乗れば、東京と花巻間を3時間を要しないで着くことが出来る。しかし、こうした鉄道のなかった時代には徒歩でみんな旅をした。何ヶ月もかけて道の奥へ旅して来た。江戸時代の菅江真澄(すがえますみ)もそうした一人であった。東北だけではなく、北海道へも渡っている。現在の青森県である弘前藩の薬事に就いていたが、スパイとして疑われたためにそれまで記録したものを全て没収されて、弘前藩を追われている。秋田の佐竹藩へ入り、角館で没している。現在の愛知県豊橋市の出身であった。30歳で郷里を出て、以来、信濃、越後、出羽、南部、弘前、松前などを旅して、各地を巡りながら記録を残していた。岩手では盛岡近辺や平泉近辺に逗留している。同じ時期に『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』などを著した秋田孝季(あきたたかすえ)も各地を旅しており、和田家文書では両者は出会って、菅江真澄は秋田孝季に協力もしている。しかし、幕府には知られては困るので、菅江真澄はそのことを隠していたようだ。福島県にあった三春藩の藩主が孝季の義父になり、その義父から藩主の秋田家の系譜を辿るように孝季が依頼された。秋田家は安日彦・長髄彦兄弟の興した荒覇吐王国、奥州安倍氏に繋がる系譜であった。東日本には今なお荒覇吐神を祀る神社が残されている。主に東北に残されたそうした系譜に関係する伝承を孝季は聞き歩いた。菅江真澄も自らの興味も含めて協力したのだろうと思われる。旅の道に季節の移り変わりを目にしながら、途方もない歳月をかけての旅であった。宿もなく、廃屋や木陰を使っての一夜を明かしたこともあっただろう。現代のような快適な旅とは異なる。体調を崩せば旅の予定も変わってしまう。西行や芭蕉の旅も同じようなものであったろう。その頃の東北は現代のような山の植林もなかったであろうから、山の景観はむしろ現代よりも素晴らしいものがあったと思われる。むろん、田園もさらに長閑であったろうし、時には過酷な飢饉の時もあったかも知れない。東北は今も市街地を離れると、そうした時代にもあっただろうと思われる景色に出会うことが出来る。そして、そんな景色を見ていると、いつの時代も人の営みには変わらないものがあるのだろうと思ってしまう。
都忘れ

芭蕉の心をかきたてた道の奥

2016-05-09 19:20:30 | 文化
植物は寒さが遠のくとたちまち生育して来る。その勢いには本当に驚かされる。庭の1日見なかった位置の花木がもうすっかり伸びて来ていたりする。今年は藤の花がたくさん咲き、ヤマシャクヤクやヤマアジサイなどが葉を茂らせて来ている。職場の裏山でも、もう山藤と桐の花の紫が目につくようになっている。市街地周辺の山々の若葉も日増しに色を濃くして来ている。花木だけでなく、雑草も見る間に伸びて来ており、そんな雑草を見て、ふと松尾芭蕉の「夏草や つわものどもが夢の跡」の句を思い出した。この句は1689年3月27日(新暦5月16日)、45歳の芭蕉が門人の曾良とともに江戸を発って、5月13日(新暦6月29日)、平泉の義経のいた高館で詠ったとされる。奥州藤原氏三代の栄華は露と消え、500年後に同じ場所に立ってみると、夏草だけが生い茂っている。芭蕉は平泉でもう一つ詠っている。「五月雨の 降り残してや 光堂」で、「光堂」は中尊寺の金色堂を指す。金色堂だけは五月雨にも朽ちずに残っている。松尾芭蕉の生家は現在の三重県伊賀市の帯刀を許された農民であった。18~19歳で俳諧を始め、30歳頃まで京都や伊賀で俳諧を学び、以後は江戸に出ている。当時の江戸の俳諧は滑稽の機知や華やかさを詠むもので、芭蕉には合わず、江戸市中を避けたところに草庵を結ぶ。この草庵に芭蕉を植えて、見事に育ったところから、芭蕉庵と呼ばれるようになり、自分でも「芭蕉」と名乗るようになった。40歳の時、母親の墓参りを兼ねて、奈良、京都、名古屋、木曽を巡っている。この時詠んだ句が『野ざらし紀行』として知られる。44歳で高野山、吉野(西行庵)、奈良、須磨・明石を旅して、『笈の小文』が綴られている。同じ年の秋には信州を旅して、『更科紀行』に結実している。翌年初めから、旅への思いが抑えきれず、特に東北への旅の思いが強かった。旅の準備を整えて曾良とともに東北から北陸にかけてを旅した。芭蕉では最もよく知られる『おくのほそ道』がこの旅で綴られた。福島、宮城、岩手、山形、北陸地方を経て、岐阜・大垣に至る2400km、7ヶ月の旅であった。現代とは異なり、こうした旅はまさに命をかけた旅であった。福島市の飯坂の温泉を浴びたのはいいが、宿は土間にむしろを敷いただけの宿で、灯りも囲炉裏の火の明かりだけであり、夜半には雷と激しい雨で雨漏りがし、ノミや蚊に刺されて、眠れぬ夜を過ごし、体調を崩している。道端で野垂れ死にしても天命だと覚悟するまでの旅であった。ここまでになっても芭蕉にはどうしても訪れたいところであったようだ、東北は。
今朝の庭の藤の花