東北へ来て、いくつかの新たな発見に出会ったが、その一つに『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』をはじめとする和田家文書である。これを重要な資料とした、亡くなられた古田武彦氏を快く思わなかった人たちが偽書として広めた。しかし、偽書とする稚拙な「証拠」は裁判でことごとく否定された。『東日流外三郡誌』の「東日流」は「つがる」と読ませる当て字である。安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)兄弟は筑紫(ちくし)の日向の日本国(ひのもとこく)から津軽に逃れた。「ひのもと」は「日下」とも書く。「東日流」は東の筑紫の日向の日本国から津軽に流れたことを意味している。福岡市の吉武高木遺跡は日本最古の三種(鏡・玉・剣)の神器が見出された遺跡で、その近くには日向(ひなた)山・日向(ひなた)峠、日向(ひなた)川がある。そして筑前・筑後合わせて5箇所に日本(ひのもと)地名が残されていた。和田家文書を書いた中心人物である三春藩主の義理の息子である秋田孝季(あきたたかすえ)は、安日彦・長髄彦兄弟が追われたのは神武により大和から津軽へ逃れたと考えたようだが、古田氏は和田家文書の内容から、大和ではなく筑紫からとする。北部九州の水田稲作で栄えていた日本国(ひのもとこく)へ、アマテラスの命でニニギが侵略して来る。安日彦・長髄彦兄弟は対馬海流に乗って東へ逃れて行った。津軽に上陸すると、それまで行っていた稲作を何とかそこに定着させた。青森県の水田稲作遺跡である砂沢遺跡・垂柳遺跡の水田遺構は日本最初期の水田稲作遺跡である板付遺跡と基本遺構が共通していると言う。水田遺構では関東や東北の他地域より青森県の方が早い。つまり、水田稲作は九州から東へ順次伝わったのではない。安日彦が王となり、長髄彦が副王として、阿蘇部族、津保化族、中国の晋の郡公子らと荒覇吐(あらはばき)王国を建立し、さらには陸州の麁族(あらぞく)、羽州の熟族(にぎぞく)などを加え、富士山を含んだ安倍川から越の糸魚川を境とする、領内185族を併せた大国となる。中国の春秋時代の晋は紀元前11世紀に成立し、紀元前376年まで続いた。日本の水田稲作は紀元前900年頃に始まったとされるので、ニニギの北部九州侵略は紀元前900年~紀元前800年頃だろう。この頃に安日彦たちが津軽へ渡り、乱を逃れた晋の郡公子たちと合流したとしても符合する。北部九州で水田稲作を始めたのは日本国(ひのもとこく)の人たちであった。旧唐書倭国伝には、倭国は古の倭奴国であると書かれているところから、ニニギは北部九州を侵略後、国名を倭奴国としたのかも知れない。その後北部九州は倭奴国から倭国となり、倭国から新天地を求めて、神武が大和に至り、大和での支配は交代が何度か繰り返された後、701年より九州で没落した倭国に変わり大和が中心の日本(にほん)国が誕生した。


白根葵