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釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで17年6ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

東北の伝承

2018-04-24 19:15:10 | 歴史
東北へ来て、いくつかの新たな発見に出会ったが、その一つに『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』をはじめとする和田家文書である。これを重要な資料とした、亡くなられた古田武彦氏を快く思わなかった人たちが偽書として広めた。しかし、偽書とする稚拙な「証拠」は裁判でことごとく否定された。『東日流外三郡誌』の「東日流」は「つがる」と読ませる当て字である。安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)兄弟は筑紫(ちくし)の日向の日本国(ひのもとこく)から津軽に逃れた。「ひのもと」は「日下」とも書く。「東日流」は東の筑紫の日向の日本国から津軽に流れたことを意味している。福岡市の吉武高木遺跡は日本最古の三種(鏡・玉・剣)の神器が見出された遺跡で、その近くには日向(ひなた)山・日向(ひなた)峠、日向(ひなた)川がある。そして筑前・筑後合わせて5箇所に日本(ひのもと)地名が残されていた。和田家文書を書いた中心人物である三春藩主の義理の息子である秋田孝季(あきたたかすえ)は、安日彦・長髄彦兄弟が追われたのは神武により大和から津軽へ逃れたと考えたようだが、古田氏は和田家文書の内容から、大和ではなく筑紫からとする。北部九州の水田稲作で栄えていた日本国(ひのもとこく)へ、アマテラスの命でニニギが侵略して来る。安日彦・長髄彦兄弟は対馬海流に乗って東へ逃れて行った。津軽に上陸すると、それまで行っていた稲作を何とかそこに定着させた。青森県の水田稲作遺跡である砂沢遺跡・垂柳遺跡の水田遺構は日本最初期の水田稲作遺跡である板付遺跡と基本遺構が共通していると言う。水田遺構では関東や東北の他地域より青森県の方が早い。つまり、水田稲作は九州から東へ順次伝わったのではない。安日彦が王となり、長髄彦が副王として、阿蘇部族、津保化族、中国の晋の郡公子らと荒覇吐(あらはばき)王国を建立し、さらには陸州の麁族(あらぞく)、羽州の熟族(にぎぞく)などを加え、富士山を含んだ安倍川から越の糸魚川を境とする、領内185族を併せた大国となる。中国の春秋時代の晋は紀元前11世紀に成立し、紀元前376年まで続いた。日本の水田稲作は紀元前900年頃に始まったとされるので、ニニギの北部九州侵略は紀元前900年~紀元前800年頃だろう。この頃に安日彦たちが津軽へ渡り、乱を逃れた晋の郡公子たちと合流したとしても符合する。北部九州で水田稲作を始めたのは日本国(ひのもとこく)の人たちであった。旧唐書倭国伝には、倭国は古の倭奴国であると書かれているところから、ニニギは北部九州を侵略後、国名を倭奴国としたのかも知れない。その後北部九州は倭奴国から倭国となり、倭国から新天地を求めて、神武が大和に至り、大和での支配は交代が何度か繰り返された後、701年より九州で没落した倭国に変わり大和が中心の日本(にほん)国が誕生した。
白根葵

荒覇吐神

2018-04-17 19:19:22 | 歴史
今日は朝から空には雲一つない青空が広がったが、気温は4度で、最高気温も14度ほどであった。桜はもう満開の時期を過ぎ、風で散って行くところもある。染井吉野に少し遅れて、枝垂れ桜が咲いて来た。職場の裏山でもウグイスが鳴き始めた。家の近所で鳴くウグイスはもう上手に鳴くようになっている。岩手の人に聞くと、岩手の花見は寒くて、早々にみんな居酒屋に駆け込むのだと言う。釜石では桜の下で宴席を設けて、桜を楽しむ人の姿はほとんど見かけない。ただ桜を眺めながら歩き過ぎる人がいるだけだ。 和田家文書「北鑑」第二巻に「荒覇吐神之流布」がある。江戸時代の元文2年(1737年)6月3日付けで、藤原基久なる人物により書かれている。「渡島より築紫に至る荒覇吐神」とあり、北海道から九州まで、当てられた字は様々だが、広く信仰の対象として流布していたが、前九年の役で陸奥の安倍氏が滅んで後、改社されたり、「多くは廢社たるも多し」となった。「古代にして、信仰厚きものなれば、未だにして世襲に怖れず信仰是あり。是を朝幕をして、強固にて取潰すはなかりけり。故に豊州の大元神社、因州出雲大社、加州三輪山神社、比叡山山王社の末社、蝦夷神社、耶靡堆の大三輪山神社、紀州の荒脛巾神社、坂東の荒羽々気神社、陸奥の多賀城邸のあらはばき神社、渡島の荒吐神社、六十餘州に七百六十八社あり。是を門客大明神とて信仰を許したるは、反乱蜂起を制ふる手段たりと曰ふ也。」とある。古代の陸奥である岩手にも現在は荒神社、荒神神社などの名で、各市町村に残されている。しかし、地元の人ですら、そうした神社の由来などはほとんど知らない。荒ぶる者、あるいは鬼と関連付けて考える人がいるかも知れないが。京都では節分の行事として、御所を中心に、表鬼門(北東)にある吉田神社、裏鬼門(南西)の壬生寺、南東の八坂神社、北西の北野天満宮の四社寺を「四方詣り」として鬼門参詣する習わしがある。京の都にとって、まさに北東、すなわち東北は「鬼門」であった。鬼の来る方向である。都にとっての鬼は東北人であった。この鬼である東北人が信仰したのが荒覇吐神であった。奥州市江刺に観光地として、「藤原の郷」がある。そこでは古代の奥州藤原氏にちなんだ館や城柵、政庁などが再現されており、その中に「アラハバキ」も含まれている。石柱とそれを囲むように配石が施されている。実際にもそうであったかは分からないが、青森県の三内丸山遺跡に再現された三層の高層の掘立柱建物は、三層がそれぞれ天、地、水の三神を祀っており、津保化族による荒覇吐神の祭壇であったことは確かだ。東北は古の時代から産鉄地であり、製鉄が古くから行われており、大陸から伝承した人たちがいた。彼らは遠くオリエントからやって来て、風貌も異なり、製鉄の火で赤銅色に焼けた面相がまさに鬼を想起させたかも知れない。そして、東北人の秀でた武者ぶりが重なって、荒ぶる人、鬼と称されるようになったのかも知れない。
枝垂れ桜

現生人類の東進時期

2018-04-13 19:11:37 | 歴史
人とチンパンジーのDNAはわずか1.6%しか違わない。98.4%は同じなのだ。人とチンパンジーは700万年前に分れた。その後、人は猿人、原人、旧人、新人へと進化した。我々現生人類ホモ・サピエンスは25万年前のアフリカで誕生したとされている。しかし、以前のブログにも記したように、昨年、北西アフリカに位置するモロッコのジェベル・イルード遺跡で、30万~35万年前の初期人類のものと思われる化石が発見されたことが報じられている。これまでは19万5000万年前のモロッコで発見された人類化石が最古だとされて来た。人類はアフリカで生まれ、先ずはアフリカ内で次第に拡散し、ついにはアフリカを出て、世界に広がって行った。では、いつ頃から人類はアフリカを出たのか。定説は小規模な移動は12万年前から始まり、大規模な移動は6万年前より古い時代の確かな証拠はないとされている。2002年に、イスラエル北部のカルメル山のミスリヤ洞窟で、人類のものと思われる上顎の化石が発見され、測定の結果17万7000~19万4000年前のものであるとされている。また、インドのアッティラムパッカム遺跡では、少なくとも25万年前に遡ると考えられる革新的な石器が発見されており、同様の石器がほぼ同時期のアフリカでも発見されている。アフリカを出た人類は次第に東に拡散し、アジアから当時陸続きだった北米のアラスカ半島に到達し、その後南下して、ついには1万8000年前に南米大陸に至っている。2014年にはカナダのブリティッシュ・コロンビア州キャルバート島の海岸線で、人類の足跡が29個見つかっていて、1万3000年前のものとされた。北米大陸の最古の人類の足跡だ。日本では釜石の隣の遠野市達曽部の金取遺跡から9万年~3万5000年前の旧石器時代の石器を含む遺物が発掘されており、島根県出雲市の砂原遺跡では、さらに古い11万~12万年前の国内最古の石器が発掘されている。氷河期にやはり陸続きとなったアジア大陸から日本列島に渡って来て、すでに11万~12万年前には石器を作る人がいた。地球上では何度も寒冷な氷期を繰り返しているが、最後の氷期はヴュルム氷期と呼ばれ、7万年前から1万5000年前までになる。その前の表記はリス氷期と呼ばれ、18万年前から13万年前までとなる。人類が米大陸へ渡ったのが、従ってヴュルム氷期であり、日本列島に人が渡って来たのがリス氷期になるのだろう。日本にいつ頃現生人類が渡って来たのかは人類の出アフリカ問題との関係でも重要になる。11万~12万年前に日本列島で石器を作ったのが、現生人類だとすれば、出アフリカはこれよりはるかに早い時期でなければならない。インドの25万年前の石器も現生人類のものである可能性は十分にあるだろう。
早咲きのツツジ

縄文人女性の顔の復元

2018-03-13 19:19:42 | 歴史
今朝も庭の水槽に薄い氷が張っていたが、風もなく寒くないウォーキングの朝だった。日中も15度近くまで気温が上がり、春が真近であることを感じさせてくれた。夜明けも日々ますます早くなって来ている。暖かくなって来たせいか、葉が落ちた木々に小鳥たちの姿をよく見るようになった。最近は特にジョウビタキの姿をよく見る。オスは独特の動きで尻尾を振りながらさえずる。今朝のウォーキング時にもエナガの群を見た。 国立科学博物館は、昨日縄文人の女性の顔の復元模型を公表した。1989年に北海道の礼文島の船泊遺跡(ふなどまりいせき)から出土した、3800年前の40代と推定される縄文人の女性の歯からゲノム情報を解析して、顔を復元した。ゲノムに含まれる遺伝子から肌や瞳の色など顔の特徴が明らかとなり、肌の色は濃く、シミができやすい、毛髪は細くちぢれている、瞳の色は明るい茶色であることなどがわかった。この縄文人女性は血液型がA型で、アルコール分解酵素を持っていた。縄文人の平均寿命は30歳程度とされて来たが、聖マリアンナ医科大学の長岡朋人准教授の研究では、岩手県の蝦島貝塚や千葉県の祇園原貝塚など9遺跡から出土した計86体の人骨から得られたデータにより、65歳以上が32.5%を占めていた。考古学的な発見が進むにつれて、縄文時代が以前考えられていたような単純な狩猟社会ではなく、複雑な社会構造を持った社会だったことが明らかになって来ており、そのような社会を継承して行くには、30代の若さでは困難であり、この点からも縄文時代の平均寿命はもう少し長かった可能性が強いようだ。全ての動物には顔があるが、国立科学博物館によると、太古の時代に有機物の豊富な水の中で生まれた動物は餌を効率よく取ることが出来るものが生き残り、それが進む方向の先端に顔と言う左右対称の感覚器官が備わった体の部分が生まれた理由だと考えられているそうだ。目は光を、耳は音を、鼻と口は化学物質を知覚する。同館の説明によると、北方系は寒冷地であったために、顔も凍傷を受けにくくするために扁平的に進化したと考えらている。まつ毛や眉も薄めで、瞼は一重で、鼻は高くなく、唇も薄い。これに対して南方系はまつ毛や眉は濃く、瞼は二重で、鼻は大きく、唇も厚い。前者が弥生人の顔で、後者が縄文人の顔だと言う。この北方系、南方系の特徴については異論はないが、それぞれを弥生人と縄文人に結び付ける際に、北方系、南方系と単純に振ってしまうことには異論がある。アイヌの人たちは縄文人に近く、遺伝子的にも北方のバイカル湖近辺からの渡来が明らかだからだ。地球の気温もその頃は現代と大きく異なっていた。
藪椿がたくさん開いて来た

女王に送られた文書

2018-02-17 19:11:39 | 歴史
日本と言う国は、国民に真実が語られることが少ない。その弊害が定着したのは、やはり長過ぎた江戸時代にあると思われる。下級武士や領民へは何事も知らせないことが当然である時代が続いた。そして、その江戸時代を終わらせた明治の新政府も下級武士が興したことで、知らしめない体制が引き継がれた。それだけでなく、征夷大将軍に代わり、天皇を拝する新秩序を築いたために、歴史も古事記・日本書紀を元に書き綴られることになった。しかし、中国で高い評価を得ている3世紀の陳寿が著した『三国志』に登場する「邪馬壹国」も、その女王「卑弥呼」も古事記・日本書紀には登場しない。何故、登場しないかは明らかだ。3世紀に日本列島で中国と国交を持ち、国内を統治していた「邪馬壹国」は古事記・日本書紀を編纂した王朝とは異なる王朝であったからだ。『三国志』の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条、通称「魏志倭人伝」には、「女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。」とある。諸国が恐るほどの一人の「大率」と呼ばれる役人がいて、その役人は中国からの使者がくると、港に赴き、調べた上で、文書や賜り物を女王に送り届けると書かれている。すなわち、この時代の「邪馬壹国」には中国から届けられた文書を解読出来ていたと言うことであるし、貴重な文書は大切に保管されていたはずである。古事記・日本書紀にはこうした文書の痕跡すら残されていない。「邪馬壹国」は亡くなった古田武彦氏が明らかにしたように、弥生遺跡が集中する北部九州に存在した国家であり、後の「九州王朝」へと繋がった国家でもあった。この「九州王朝」には「邪馬壹国」時代の文書が残されていた可能性もある。しかし、残念ながら、白村江の戦いに敗れた「九州王朝」に代わって登場した近畿王朝は、「九州王朝」の事績が書かれた書物を何度かに分けてことごとく抹殺した。山郷に隠れた「九州王朝」の残党も武器とともに捕捉された。考古学的な発掘が新事実を次々に明らかにしているにも関わらず、明治政府以来の歪んだ「日本史」が修正されないまま継承されている。
雪の色彩

人類の石器の製作

2018-02-07 19:19:20 | 歴史
西日本でも大雪が降ったところがあるが、釜石ではここ数日ほとんど雪は降らず、晴れて気温が低い日だけが続いているため、以前降った雪が凍って残っている。昨日、職場の裏山を見ていると、リスが駆けていた。寒さで冬眠しているとばかり思っていた。もっとも、もう裏山の斜面には雪はない。鹿も毎日のように裏山に現れる。草も葉もほとんどないので、何を食べているのか。木の根を食べているようにも見える時がある。 アフリカのエチオピアで発見された石器が世界で最古の石器とされて来た。260万年前にホモ・ハビリスHomo habilisにより作られたものと考えられて来た。しかし、ケニアで2011年に発見された150個近くの埋蔵物と、30個以上の動物の化石から、その後、そこで発見された石器が330万年前のものであると特定された。この石器はエチオピアで発見された石器より粗雑な作りであった。最古のヒト属の化石は280万年前のものであるため、この最古の石器はヒト属が作ったものではないことになる。現在、製作者として、当時東アフリカに生息していた、「ルーシー」に代表されるアウストラロピテクス・アファレンシスAustralopithecus afarensis(アファール猿人)とケニアントロプス・プラティオプスKenyanthropus platyops(ケニアの扁平な顔の人)が候補に上がっている。ところで、現代人の90%以上はDNAの分析から、12万5000~6万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスの小さな集団の子孫であるとされる。そして、アフリカから出た人類の祖先は急速に世界に広がり、1万8000年前までには南米の先端に到達していた。ホモ・サピエンスがここまで速く拡散出来たのは、より発達した石器で武装していたからではないかと推測されている。これまでインドに、前期旧石器時代の大きくて扱いにくい石の手斧や握斧から、より洗練された石器の中期旧石器時代が到来したのは早くても14万年前だとされていたが、つい最近の研究で、25万年前(38万5000年前まで遡る可能性もある)であることが分かって来た。南インドのアッティラムパッカム遺跡の調査で明らかとなった。ただ残念なことに、インドでは初期人類についての研究があまり進んでおらず、インド亜大陸全体でも、古代の人類の化石は2体しか見つかっていない。そのうち1体は年代が分からない。インドでの石器の発達が従来考えられていた以上に早かったことが明らかにはなったが、その製作者については今のところ謎である。予想以上にアフリカを早く出た人類なのかどうか。旧石器時代の年代は260万年前に始まり1万年前までとされていたが、考古学的な新たな発見により、さらに年代的に遡る可能性が出て来ている。

東北の伝承

2018-01-20 19:18:34 | 歴史
今朝は放射冷却で−4度であったが、日中は晴れて、気温も7度まで上がり、寒さが遠のいた穏やかな日だった。裏の空き家の日当たりのいい庭にタンポポが咲いていた。ニュースを見ると、米国の債務上限問題で、つなぎ予算をめぐって議会が時間切れとなり、4年ぶりに政府機関の一部が閉鎖されることになったようだ。日本もだが、米国も財政赤字が年々積み上がっている。 和田家資料2「丑寅日本記第一」に「東国日本之誕生誌」があり、「人祖の族を号けて紋吾露夷奴族と曰ふなり。凡そ三十万年乃至十五万年前の古事なり。今に曰ふ山靼のブリヤートモンゴール族なり。都度に渡来せる捨郷の民は、流鬼島に渡り、日高渡島を経て東日流に渡り、海幸山幸の天恵に定着せし、通称アソベ族、ツボケ族、ウソリ族をして子孫を殖し、西域に移りゆきたり。是ぞ、わが丑寅日本国を誕生せしめたる元民なり。」と記され、また「丑寅日本記第二」の「日本古史正伝」でも、「人間、狩猟に飢えてその後跡を追えり。山靼より東北へ幾山河を越え渡り、此の国に落着しける民こそ吾らが祖先なり。号けて是を紋吾露夷土族と曰ふ。即ち、ブリヤート族と曰ふ。」と記され、日本列島へやって来た人たちがブリヤート族であることを繰り返し記している。ロシアのバイカル湖東岸に今でもブリヤートの人たちが住んでいる。大阪医科大学学長を務めた松本秀雄は免疫グロブリンを決定するGm遺伝子から日本人の起源をバイカル湖畔とした。ミトコンドリアDNAを分析した国立科学博物館篠田謙一らの研究結果でもブリヤートとの共通因子があるとした。また國學院大学の考古学の加藤晋平教授は、東日本で発掘されるクサビ型細石核をもつ細石刃文化はバイカル湖周辺から拡散して来たものだとする。和田家文書にはこうした日本人の起源について、後世の科学的な知見が得られるずっと以前に、明確な記述が載せられている。古事記や日本書記から、神武の時代は2600年前とされている。紀元前600年頃だ。和田家文書では荒覇吐王国(あらはばきおうこく)を建国した安日彦・長髄彦兄弟は大和で神武に侵略されて、東北へ逃れたとされる。亡くなった古田武彦氏は兄弟が追われたのは北部九州へ侵略して来た天照の孫であるニニギだとされていた。しかし、ニニギの時代は紀元前900年頃であり、安日彦・長髄彦兄弟は建国にあたり、中国の晋の戦乱を逃れて来た郡公子の娘たち、秀蘭・芳蘭と結婚しており、その晋の時代は紀元前7世紀である。また、荒覇吐王国の建国は紀元前649年である。東北では語り部たちが記憶と記号により歴史を伝えて来た。晋の郡公子たちが文字をも伝えた可能性もある。しかし、津軽藩初代藩主である津軽為信は荒覇吐王国の系譜である奥州安倍氏や安東氏にまつわる文書をことごとく処分した。以後は、語り部たちの間で密かに東北の歴史が伝承された。
空き家のタンポポ

松尾芭蕉

2017-12-02 19:17:20 | 歴史
まだ20代前半の若い頃、勤めていた会社の別の部署の係長が係の職員を自分の実家に招待したことがあった。独身寮がその係長と同じで、よく面倒を見てもらった。そんな関係もあって、実家へ行くのに誘ってもらった。実家は三重県の伊賀市上野であった。伊賀忍者を出したところでもあり、みんなで伊賀上野城趾に出かけ、城壁の上から街並みを眺めた記憶がある。その当時は、伊賀市上野が松尾芭蕉の育った地であることなど知らなかった。それを知ったのはずっと後だ。芭蕉の母方の祖父は伊賀流忍者の祖と言われる百地丹波であるとされる。ただ芭蕉の父、松尾与左衛門は苗字・帯刀を許された農民であったようだ。1662年、20歳前に京都へ出て、俳諧の世界に入っている。最初は松尾宗房と名乗ったようだ。1675年頃に江戸に移っている。江戸では西山宗因とも出会い、俳号を桃青とし、職業俳人となって行く。江戸に居を置きながら、鹿島や伊勢、信州などに旅している。1689年3月27日、40代半ばで、弟子の河合曾良を伴い、東北・北陸への旅に出た。千住を抜け、4月1日に日光へ至る。5月1日に福島に、5月4日には仙台に至っている。仙台では多賀城趾や松島に出かけている。「壷の碑(いしぶみ)」として歌枕にもなっている多賀城碑に接して、1000年の時を経て変わらぬ碑に感動し、「泪落るばかり也」と記している。松島ではそのあまりの絶景に黙してしまったようで、広く知られている「松島や ああ松島や 松島や」は芭蕉の句ではない。狂歌師の田原坊が詠った「松嶋やさてまつしまや松嶋や」が本来であるそうだ。石巻、登米を経て、5月12日に平泉に来ている。1189年、奥州藤原氏の最後の当主である藤原泰衡は、「義経の指図を仰げ」という父、藤原秀衡の遺言を破り、高館(たかだち)にこもる源義経を攻撃し、義経は若干31歳で命を落としたとされる。芭蕉はその高館を訪れ、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」を詠んだ。中尊寺では、「五月雨の降のこしてや光堂」を詠んでいる。芭蕉が平泉を訪れた頃は毛越寺はすでに荒廃し、見る影もなかったろう。平泉を出た芭蕉は南下して、山形へ入り、5月28日大石田に至り、そこで「五月雨を集めて早し最上川」を詠んだ。最初は涼しい風を運んで来る最上川を詠って、「集めて涼し」であったが、急流の最上川下りを経験して、句を変えたそうだ。6月10日に鶴岡に着き、日本海側へ出ている。日本海側では一旦、北上して、秋田の象潟(きさがた)へ行き、その後は海沿いに南下して、新潟、直江津、高岡、金沢、松岡(永平寺)、福井、敦賀、大垣に至り、そこから船で伊勢に向かった。芭蕉の東北の旅は、平安末期の歌人、西行の東北行脚が心のあった。どこか西行に惹かれるところがあったのだろう。

漂白の旅人、菅江真澄

2017-11-17 19:12:58 | 歴史
釜石へ来る前は愛知県に住んでいた。職場は豊橋市にあった。そのためかその豊橋市出身で、東北を巡り、秋田で一生を終えた江戸時代の漂白の旅人、菅江真澄に惹かれる。菅江真澄を発見したのは柳田國男といわれる。柳田は『遠野物語』で知られる民俗学者だ。菅江真澄は30歳まで現在の愛知県内で国学や薬草学などを学び、1784年、31歳で信州、越後を経て東北に旅立った。以来、76歳で亡くなるまで、東北で過ごし郷里には一度も帰っていない。1785年の新年を秋田県の湯沢で迎え、横手・角館を経て、男鹿半島に至り、さらに津軽、弘前を経て青森から北海道の松前に向かおうとしたが海が荒れて断念し、大館、鹿角、二戸、盛岡、花巻、江刺と岩手県を南下し、1786年の新年を胆沢で迎え、中尊寺に詣でている。この年、松島、塩竈神社、多賀城跡なども巡り、秋に行われた平泉の藤原秀衡600年祭にも出向いている。翌年は仙台や松島で過ごし、1788年35歳で津軽半島から松前に渡っている。1792年に青森県下北半島に戻り、その近辺で過ごし、1795年津軽領内へ入る。翌年は三内で縄文土器を見たり、十三湊に赴き、1797年44歳で弘前で藩校稽古館の採薬係となっている。しかし、1799年に突然、その任を解かれている。盛岡藩の間者と疑われ、著作の一切を没収されている。1801年には秋田県へ移っている。この時から亡くなるまで主に秋田県で過ごす。1829年に田沢湖近くで病に倒れ、角館で亡くなったとされて来たが、すでに田沢湖近くで亡くなっていたようだ。遺体は角館の神明社から秋田に運ばれ、現在の秋田市寺内に墓が残されている。菅江真澄の名は和田家文書にも何度か登場する。現在の福島県三春町にあった三春藩の藩主は秋田家であるが、秋田家は安倍貞任に繋がる家系で、秋田に所領を有していたが、関ヶ原の戦いで、家康についたにもかかわらず、山形の最上氏に図られ、幕府により三春へ転封された。義父の三春藩主秋田千季の命で秋田孝季(たかすえ)が焼失した秋田家の系図を再生するために諸国の伝承を集めたのが和田家文書である。秋田孝季に菅江真澄も協力していた。菅江真澄の残した文は、現在『菅江真澄遊覧記』にまとめられている。その「はしわの若葉」で、1786年一関に逗留していた際、配志和神社に詣でている。そこには八幡の社、神明の社の他に安日の社が祀られており、「安日の社は、神武天皇の軍勢にそむいた長髄彦の兄であった安日が、その身代に津軽の十三湊に流された。その子孫に阿倍頼時が出て、貞任は衣が柵に住んだ。この梅森山は霊地であって、自分の舘も近いので、祖先の安日を神とまつったものであろうか。神星の社は何かわからない。また、貞任の子高星が二歳のとき、乳母がふところに抱いて、戦乱を避け、津軽の藤崎にかくれ住んだ。高星に子があり、月星と言う。その塚が川岸にあったが崩れて失せ、水底に棺の落ちたのが井桁のように見えたので、そこを井戸淵といったが、今は名ばかりが残っている。また河越某の畠の地名に、高星殿、月星殿と、近いころまでいったという。」と記されている。和田家文書に記された安日彦・長髄彦兄弟と、安日彦の末裔が安部貞任であることも語られている。三春藩主秋田氏は高星が興した安東氏の末裔である。

馬の渡来

2017-10-21 19:19:00 | 歴史
子供の頃、地方ではまだ牛が農耕に使われており、馬が道を荷を積んで歩いていた。そんな風景が瞬く間に消えてしまったが、東北ではまだ牛や馬の姿だけは見ることが出来る。牛は農耕ではなく、搾乳と食肉用に変わり、馬は競走馬の飼育に変わってしまったが。東北はかって産金・産馬と称されたように、国内でも馬の産地として知られていた。放牧に適した丘陵地が多くあるだけでなく、縄文時代に遡る馬の歴史がある。日本の一般的な歴史では、馬は4世紀に渡来したとされている。考古学的な馬の骨の発掘は4世紀のものが最古であるからだ。しかし、和田家文書にはまるで違った馬の歴史が書かれている。北鑑第十三巻の五に「古来、宇曽利の地に馬の放たれしは、東海の海より大筏に乗せて六頭の駒をつれ来たる津保化族の祖になる古人の、つれきたるものなりと曰ふ。山靼馬と異なり背高く、駆くるに速く、名馬たりと曰ふ。古来、丑寅日本国の地に馬の渡り来たるは、古老に曰はしむれば、三渡来に曰ふ。一は馬の氷雪渡り。二は山靼船渡り。三は東海筏渡り。と曰ふ。是れ何れも実なりと、幾古老何れに聞くも同意たり。されば、古に渡来せし馬の着地にては、人の古に用ひし石鏃あり、一の渡来地になるサガリイ、二の渡来地なる秋田、三の渡来地なる宇曽利を順に、地に遺れるは、*に異なりぬ。一は石槍、二は石鏃、三もまた石鏃なり。一はウデゲ族、二はモンゴル、三はなんとアメリカなるインディアン族のものなり。依て、一は追れ馬にて、二は船来に、三は筏渡りと相成れり。古代なるは、気の候、潮流の流度ぞ今代と異なりて、その可能ありけると曰ふなり。アメリカン国の北に大森林国ありて、その巨木を筏とせるは、吾が国の及ばざる大木なりと曰ふ。亦、サガリイ、渡島との海なす峽も冬至りては馬の渡れる結氷となりて可能たりと曰ふ。さればウデゲ族の古老の曰ふは眞なり。(*には石鏃の絵が書かれている)」とある。津保化族はユーラシア大陸のバイカル湖付近からアラスカを経由してアメリカ大陸へ渡った。しかし、その一部が故郷を目指して引き返し、大筏で馬を乗せて海を渡った。その一団が宇曽利にたどり着く。その後彼らは現在の青森県の「奥内、三内、入内」に住み着いた。北鑑第十六巻卅八「外浜に奥内、三内、入内ありて、何れも古代人永住の地たり。信仰深き民、津保化族のたり。」とある。すなわち、三内丸山遺跡は津保化族が残したものだ。また北鑑第六巻「荒覇吐王之創」で、荒覇吐神の伝来を記した後、「即ち、此の神なる渡来なるは、馬と倶に入りたり。アルタイ及び蒙古国は馬産国にて、馬にかかはれる諸傳の多く傳はりぬ。東日流に人祖をなせるその系なるは、今になるハルハ族、ブリヤート族、ドルベト族、カザフ族らにて、西山靼なる紅毛人系ありき。」として、アルタイ及び蒙古由来の馬について書かれている。すなわち二の船来だと思われる。秋田にたどり着いたのだろう。一のウデゲ族はロシアの沿海州に今も住む先住民族である。「サガリイ」、今のサハリン、樺太に伝来した。日本馬の由来は遺伝子的にモンゴルだとされている。蒙古斑を持つ日本人と同じく、馬も3つのルートで伝来したが、結局は全て本来はモンゴル産であった。
紫式部