焼内湾彷徨 弐拾四よりつづく。
奄美大島の北西部を大きく、東シナ海が陸地に食い込んだ焼内湾の岸辺を巡る旅も、残すは僅かとなってきた。
湾の北岸を西に進んで、生勝(いけがち)集落に次いで到着したのは久志(くし)集落である。
久志について語るとき、どうしても避けて通れない一連の出来事がある。

1973年、東亜燃料工業(現東燃ゼネラル石油)が焼内湾にある技手久島に石油備蓄基地建設を計画した。
この当時の社会の流れについて、ざっと触れてみる。
1971年8月、アメリカのニクソン大統領は、それまで政策により交換比率を固定していた金とドルの交換を停止した。所謂”ドルショック”である。これにより、世界の各国は自国通貨とアメリカドルとの交換比率を変更せざるを得なくなり、とくに日本は360円から308円という最大の交換比率の変更となった。この変更は同年の12月に行われたのだが、実態経済の変動は早く、1973年には主要国の殆どが変動相場制に移行している。この年、テレビでは「スペクトルマン」、映画では「ゴジラ対ヘドラ」が公開された。『公害問題』が、一般的な単語になったのは、この頃ではないか?
翌1972年、5月に沖縄が返還された。テルアビブ空港において日本人テロリストによる乱射事件が発生し、民間人ら100人以上が犠牲となった。6月、通産大臣であった田中角栄が「日本列島改造論」を発表し、7月の自民党総裁選挙で福田赳夫を破って自民党総裁・内閣総理大臣に就任した。
1973年、1月にアメリカ軍のベトナムからの最終的な撤退を骨子とするベトナム和平協定が結ばれる(実際の終戦は、75年4月)。7月、日本赤軍による日航機ハイジャック事件が発生する。10月、第4次中東戦争が勃発し、アラブ諸国は「イスラエルを支援する国家に対する石油の禁輸措置」を発表する。'71年の”ドルショック”に対し、”オイルショック”と呼ばれる出来事である。これにより日本国内では、'50年代より続いていた高度経済成長に終幕が引かれることとなった。

さて、技手久島の石油備蓄基地計画に話を戻そう。
現在の各資料で見る限り、計画が発表されるや、地元の宇検村はもちろん、奄美大島全体が賛否で二分されたことは想像に難くない。
もともと、政治には熱くなる土地柄である。
しかも枝手久島は、「奄美大島で最初にハブが現れた島」、「神が宿る葬送の島」である。
賛否の争いはエスカレートする一方だったのだろう。
その最中、トカラ列島の諏訪瀬島に共同体(コミューン)をつくって生活していたヒッピー『部族』の一員である山田塊也氏が、たまたま訪れた名瀬市(現・奄美市)で備蓄基地計画について知ることになる。
遡ることさらに数年、諏訪瀬島にYAMAHAが滞在型リゾートの建設を計画したのだが、『部族』を中心とした反対運動の結果、撤回を余儀なくされた。
山田氏は、地元の反対派と共闘するため、宇検村久志にコミューン『無我利道場』を設立して全国から同志を募った。
現存する資料等から読み取る限り、当時、反対運動が先鋭化していた「成田空港反対闘争」のような強硬な手段は取らず、あくまでも《漁業権》を前面に立てた運動であったらしいのだが、それでも運動は長期化し、最終的に計画が白紙撤回されたのは1984年のことであったという。
その後もメンバーに変転はあったものの『無我利道場』は存続していたのだが、1988年に至って事態は別な方向へと進展する。
奄美大島の小学校(鹿児島県全体かもしれない)は、登下校の際に(もちろん授業中も含む)制服の着用を義務付けられている。
その制服について『無我利道場』のメンバーの子供が反発し、登校を拒否したのだという。
どうしてそれだけのことがエスカレーションの原因になるのかはオレには判らないのだが、元・石油備蓄基地計画の村議が中心となって旧賛成派を糾合し、『無我利道場解体村民会』が結成されたのだ。
それだけにとどまらず、実質暴力団といわれる右翼団体まで東京から呼び寄せ、『無我利道場』追い出し運動を展開しはじめた。
折りしもバブル景気が頂点を過ぎ、昭和から平成へと時代は移ってゆく。
当時の内閣総理大臣・竹下登が「ふるさと創生」と称して各地方自治体にそれぞれ一億円を交付したのもこの当時である。
一連の騒ぎは1993年いっぱいで収束したとされるが、昨年も、これを想起させるような出来事があった。
宇検村村長、一部村会議員、一部の土建業者らによって『放射性廃棄物最終処分場誘致』が企画されたのである。
村民はもちろん、周辺自治体や鹿児島県知事まで含めた反対の声に、一週間も経たずに消え去ったのだが、さらに後日譚もある。

今年、1月に行われた村長選挙において、5期目に挑んだ現職村長は44票差で新人候補に敗れたのだ。
詳しい結果はこちらをご覧いただきたい。
ところでこの元・村長、石油備蓄基地計画では推進派の旗振り役、『無我利道場解体村民会』でも運動の中心だったという。
長らく清濁併せ飲んできたのだろうが、核廃棄物までは飲ませてもらえなかったということか。
今回は、話が話だけに参照したサイトを紹介しておきます。
宇検村 - Wikipedia。
Newsletterバルボラ。
美観地区から大道絵師のメッセージです。
オウム真理教が問いかけるもの。
フリースクールの現在 教育のオルタナティブ。
日本にも「反原発ブームがあった」。
他にも幾つかあるんですが、時代背景を補強するためで、本文中には反映されてない筈です。
写真でお判りいただけると思いますが、久志は、静かで美しい集落です。
ガラにもなく堅い話に終始してしまいましたが、次回はこの旅の終点である宇検(うけん)集落に参ります。




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奄美大島の北西部を大きく、東シナ海が陸地に食い込んだ焼内湾の岸辺を巡る旅も、残すは僅かとなってきた。
湾の北岸を西に進んで、生勝(いけがち)集落に次いで到着したのは久志(くし)集落である。
久志について語るとき、どうしても避けて通れない一連の出来事がある。

1973年、東亜燃料工業(現東燃ゼネラル石油)が焼内湾にある技手久島に石油備蓄基地建設を計画した。
この当時の社会の流れについて、ざっと触れてみる。
1971年8月、アメリカのニクソン大統領は、それまで政策により交換比率を固定していた金とドルの交換を停止した。所謂”ドルショック”である。これにより、世界の各国は自国通貨とアメリカドルとの交換比率を変更せざるを得なくなり、とくに日本は360円から308円という最大の交換比率の変更となった。この変更は同年の12月に行われたのだが、実態経済の変動は早く、1973年には主要国の殆どが変動相場制に移行している。この年、テレビでは「スペクトルマン」、映画では「ゴジラ対ヘドラ」が公開された。『公害問題』が、一般的な単語になったのは、この頃ではないか?
翌1972年、5月に沖縄が返還された。テルアビブ空港において日本人テロリストによる乱射事件が発生し、民間人ら100人以上が犠牲となった。6月、通産大臣であった田中角栄が「日本列島改造論」を発表し、7月の自民党総裁選挙で福田赳夫を破って自民党総裁・内閣総理大臣に就任した。
1973年、1月にアメリカ軍のベトナムからの最終的な撤退を骨子とするベトナム和平協定が結ばれる(実際の終戦は、75年4月)。7月、日本赤軍による日航機ハイジャック事件が発生する。10月、第4次中東戦争が勃発し、アラブ諸国は「イスラエルを支援する国家に対する石油の禁輸措置」を発表する。'71年の”ドルショック”に対し、”オイルショック”と呼ばれる出来事である。これにより日本国内では、'50年代より続いていた高度経済成長に終幕が引かれることとなった。

さて、技手久島の石油備蓄基地計画に話を戻そう。
現在の各資料で見る限り、計画が発表されるや、地元の宇検村はもちろん、奄美大島全体が賛否で二分されたことは想像に難くない。
もともと、政治には熱くなる土地柄である。
しかも枝手久島は、「奄美大島で最初にハブが現れた島」、「神が宿る葬送の島」である。
賛否の争いはエスカレートする一方だったのだろう。
その最中、トカラ列島の諏訪瀬島に共同体(コミューン)をつくって生活していたヒッピー『部族』の一員である山田塊也氏が、たまたま訪れた名瀬市(現・奄美市)で備蓄基地計画について知ることになる。
遡ることさらに数年、諏訪瀬島にYAMAHAが滞在型リゾートの建設を計画したのだが、『部族』を中心とした反対運動の結果、撤回を余儀なくされた。
山田氏は、地元の反対派と共闘するため、宇検村久志にコミューン『無我利道場』を設立して全国から同志を募った。
現存する資料等から読み取る限り、当時、反対運動が先鋭化していた「成田空港反対闘争」のような強硬な手段は取らず、あくまでも《漁業権》を前面に立てた運動であったらしいのだが、それでも運動は長期化し、最終的に計画が白紙撤回されたのは1984年のことであったという。
その後もメンバーに変転はあったものの『無我利道場』は存続していたのだが、1988年に至って事態は別な方向へと進展する。
奄美大島の小学校(鹿児島県全体かもしれない)は、登下校の際に(もちろん授業中も含む)制服の着用を義務付けられている。
その制服について『無我利道場』のメンバーの子供が反発し、登校を拒否したのだという。
どうしてそれだけのことがエスカレーションの原因になるのかはオレには判らないのだが、元・石油備蓄基地計画の村議が中心となって旧賛成派を糾合し、『無我利道場解体村民会』が結成されたのだ。
それだけにとどまらず、実質暴力団といわれる右翼団体まで東京から呼び寄せ、『無我利道場』追い出し運動を展開しはじめた。
折りしもバブル景気が頂点を過ぎ、昭和から平成へと時代は移ってゆく。
当時の内閣総理大臣・竹下登が「ふるさと創生」と称して各地方自治体にそれぞれ一億円を交付したのもこの当時である。
この交付じたいの評価は置くとして、交付が行われたという事実は、「地方の空洞化」が政治課題となっていたことが明らかだ。追い出し運動は、時代の流れからか一時は大多数の村民が『解体村民会』に同調するようになったという。
一連の騒ぎは1993年いっぱいで収束したとされるが、昨年も、これを想起させるような出来事があった。
宇検村村長、一部村会議員、一部の土建業者らによって『放射性廃棄物最終処分場誘致』が企画されたのである。
村民はもちろん、周辺自治体や鹿児島県知事まで含めた反対の声に、一週間も経たずに消え去ったのだが、さらに後日譚もある。

今年、1月に行われた村長選挙において、5期目に挑んだ現職村長は44票差で新人候補に敗れたのだ。
詳しい結果はこちらをご覧いただきたい。
ところでこの元・村長、石油備蓄基地計画では推進派の旗振り役、『無我利道場解体村民会』でも運動の中心だったという。
長らく清濁併せ飲んできたのだろうが、核廃棄物までは飲ませてもらえなかったということか。
今回は、話が話だけに参照したサイトを紹介しておきます。
宇検村 - Wikipedia。
Newsletterバルボラ。
美観地区から大道絵師のメッセージです。
オウム真理教が問いかけるもの。
フリースクールの現在 教育のオルタナティブ。
日本にも「反原発ブームがあった」。
他にも幾つかあるんですが、時代背景を補強するためで、本文中には反映されてない筈です。
写真でお判りいただけると思いますが、久志は、静かで美しい集落です。
ガラにもなく堅い話に終始してしまいましたが、次回はこの旅の終点である宇検(うけん)集落に参ります。
つづく




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