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人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

ガラスのイマージュー天野可淡「解かれたガラスのリボン」を読む

2016-06-25 01:11:54 | 人形論(研究の話)
報告が遅くなりましたが、1月1日生まれの子犬ちゃんたちは、5月7日に無事すべての子が貰われていきました。
また、1年以上実家でいた成犬の空ちゃんが、先日思いがけず貰われていきました。
ご家族みんなに大切にされて、とても幸せそうです。

今日は久々に研究の話です。

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はじめに
「解かれたガラスのリボン」は、独特なインパクトを持つ球体関節人形によって知られる人形作家、天野可淡の初めての作品集『KATAN DOLL』(1989年、1)に付されたあとがきである。球体関節人形とは、関節部分に球形のジョイントがはまり、動かすことのできる人形である。かつては男性のオブジェ的な対象を象徴し、現在は女性の内面表現の装置として特異な発展を遂げる。
 この転換を導いたのが天野可淡であった。「解かれたガラスのリボン」は『夜想』の人形特集(2)でも再録されており、天野の人形観を示すうえで重要なテクストと言えるだろう。と同時に、人形やガラスに関する豊かなイマージュにあふれており、それ自体解釈の価値あるものと言える。そこで本稿では、ガラスのイマージュを中心に、「解かれたガラスのリボン」の読解を試みる。

1、日本の球体関節人形と天野可淡
 日本における球体関節人形の流行は、ほぼ澁澤龍彦の紹介に始まるといってよい。澁澤は、「少女コレクション序説」において、「少女は一般的にも性的にも無知であり」「主体的には語り出さない純粋客体」(3)とし、シュルレアリスム的な文脈で理解されるドイツの人形作家ハンス・ベルメールを紹介した。1960年代後半から球体関節人形の制作を始めた人形作家、四谷シモンや土井典はベルメール、澁澤に強く影響を受けている。この時期において、球体関節人形の球体は世界を脱臼し、フェティッシュの対象となるパーツを際立たせるための装置であった。しかし現在は、「女性の作家がとても多くて、自分の内面を「人形の性格や内面」によって表現する」(4)と指摘されるように、制作者や享受者である女性が自己を投影するための装置となる。「性的に無知」で「主体的には語り出さない」「純粋客体」である「少女」の象徴であった球体関節人形が、少女自身が内面を主体的に語り出す、まさにその媒体へと変化してきたと言えよう。
 澁澤的な愛される客体から「内面」表現へ、という転換を導いたのが、1990年前後に次々と作品集を発表しながらも、事故で早逝し、カルト的な人気を誇った人形作家、天野可淡(5)である。四谷シモンや土井典の人形が「無機的な物質感」を強調するのに対し、天野は「球体関節人形で肉や骨など身体の有機的な印象を強調し、人の心の暗部を表現するような描写を人形にもたらした」とされる(6)。さらに、内面や感情を人形表現の中に取り込んだとされることに注意したい。

 通常は愛する対象と考えられる人形に対して、「人を愛せる人形」を作りたいと語っていたという天野の人形には、人形のいわゆる愛らしい外見へのアンチテーゼともいうべき特徴が見られるが、物憂げな表情や凝視するようにギラギラ光る自作のグラスアイ、(中略)見る者を捉えて離さない迫力に充ちている。(7)

 天野は、「感覚」や「感情」が「人形に出ても良い」と印象づけられるような人形を作り続けることで、人形の「括りを破るような」、「チャレンジする人形」を発表する「今の若い作家たち」の「発端になった」とも位置付けられる(8)。死後二五年経った今でも人気は衰えず、新たな写真集が刊行されている(9)。
 天野が「人を愛せる人形」を作りたい、と言っていたことの根拠となるのが、はじめて出版した人形写真集『KATAN DOLL』のあとがきとして書かれた「解かれたガラスのリボン」である。

2、解かれたガラスのリボン
「解かれたガラスのリボン」においては、ガラスが重要なモチーフとなる。長くなるが引用する。

 子供の頃、夜の縁日で母親に手をひかれながら歩いていると、ガラスの風鈴などを売っている夜店があり、そこへ来ると必ず、小さなガラスビンの中で裸電球の光を受けてキラキラ光る水中花が目にとまったものでした。なんとしても欲しくなり、せがんで買ってもらった宝物のはずなのに、次の日、日の光の中で見るとそれはなぜか色褪せ、そんなはずは無いとビンから取り出してみても、みすぼらしい、ただの色紙の塊になってしまっていてがっかりした記憶が有ります。大人になった今よりも子供の頃の方が、夢をこわされるという事について潔癖であった様に思われます。(中略)
人形を愛するということは、その人の年齢にかかわらず、子供の頃のままになることだと思います。あらゆる社会の混沌の中から人形と向かい合う時、人は皆、子供となります。
 そして、人と人形は鏡一枚を隔てて同化する事ができるのです。鏡一枚・・・それは人形が神から死を禁止されているということです。夢を裏切らないという代償に、死を神に捧げたという事です。しかしながら、人間とはエゴイスティックな生き物です。(中略)愛するだけの一方的な愛にはいつか疲れ、その対象を置き去りにするのです。そして彼女たちはいつしか忘れ去られ、蔵の中に捨てられてしまいます。それは人形たちにとって、死よりも恐ろしい出来事です。そんな悲劇が起こることの無いように、私はあえて彼女たちのガラスのリボンを解きます。人に愛されるだけの人形ではなく、人を愛する事のできる人形に。常に話しかけ、耳をかたむけ、時には人の心に謎をかける人形に。
注意深く彼女のガラスのリボンを解くのです。それが私の仕事だから。

 子供時代の思い出として、冒頭から「ガラスの風鈴」、「ガラスビン」の中の「水中花」が登場する。末尾では「ガラスのリボンを解く」ことが「私の仕事」だという。「ガラスのリボンを解く」ことは、「人に愛されるだけの人形ではなく、人を愛する事のできる人形」を作ることを象徴するだろう。人と人形を隔てる「鏡」もガラスと縁の深いモチーフである。
 第一段落から順に見ていくと、子供の頃の思い出として、縁日の水中花などが翌朝見るとただの色紙の塊になっていたエピソードを紹介し、子供は「夢を壊されること」に「潔癖」であると言う。したがって、「ガラスビン」の中の「水中花」は夢を象徴するものだろう。
 二段落目では、人形を愛することは、子供の頃のままでいることだという。子供は「夢を壊される」ことに「潔癖」だと言うのだから、子供のままでいることは、「夢を壊されること」に「潔癖」なままであることを意味する。
 第三段落では、人形は「夢を裏切らない」との一節があらわれる。人は「鏡一枚」を隔てて人形と同化できると言い、その「鏡」とは、夢を裏切らないことと引きかえに死を禁止されていることだと言う。しかしながら人はエゴイスティックで、愛するだけの一方的な愛では、対象を置き去りにする。置き去りにされることは、人形たちにとっては「死」よりも恐ろしいこと。だから可淡は人形たちの「ガラスのリボンを解く」のだと言う。続く文章では、「人に愛されるだけの人形ではなく、人を愛する事のできる人形に」、話しかけ、耳を傾け、「時には人の心に謎をかける人形」にするのだと言い換える。
 第四段落で再び、「彼女」(人形)の「ガラスのリボンを解く」のだと言い、「それが私の仕事だ」として文章は閉じられる。
「ガラスのリボンを解く」ことによって、人を愛し、話しかけ、耳をかたむけ、人の心に謎をかけることができるというのであるから、ガラスのリボンは人形の心を縛るものである。と同時に、人と人形を隔てる「鏡」であり、第三段落で見たように、「鏡一枚」は「死を禁止されていること」であるから、ガラスのリボンが解かれることによって、人形も死ぬことができる。第一段落で見たように、「ガラスビン」は夢の入れ物であり、ガラスのリボンを解くことによって、完全な同化や、夢を裏切る可能性ももたらすものだろう。
 『KATAN DOLL』が写真集であることを考えるならば、「ガラス」がしばしば写真の比喩となることも想起される。見るものと人形、写真の外部と内部を隔てるものがガラスである。さらに、人形をガラス越しに撮影した写真(6頁)、鏡に映った人形を撮影したもの(20頁、36頁、49~52頁、53頁)、背景に鏡が用いられたもの(7頁、45、46頁)などがあり、鏡やガラスが重要な小道具として用いられていることが分かる。殊に、錆びた鏡や罅割れた鏡(7頁、36頁、45、46頁、49~51頁)が用いられることに注意したい。天野の人形において特徴的とされるのが「ギラギラ光る自作のグラスアイ」(再掲)であることも、視線とガラスとの関係を想起させて面白い。
 ただし、単なる「ガラス」ではなく、「ガラスのリボン」であることは注目に値する。ガラスでリボンを結ぶことはできないからである。そこで次節では、ガラスのイマージュを解きほぐすことによって、「ガラスのリボンを解く」ことの意味合いを明らかにしたい。

3、ガラスのイマージュ
 ガラスはその透明性から、言葉や、外界と内面を隔てるものの比喩となる。例えば人形をモチーフとした作品もある、独特な文学世界で知られる山尾悠子は、自らの創作行為を「硝子で出来た城」を「築いては壊す作業」に喩えている(10)。また、森茉莉『甘い蜜の部屋』(11)では、主人公モイラの「心の中の部屋」が、「半透明」の「曇り硝子」(6頁)に喩えられる。漱石の『硝子戸の中』(1915年)というタイトルや、ベンヤミンの『パサージュ論』(12)におけるガラスを想起する人も多いだろう。女や人形との関連で言えば、ミッシェル・カルージュが論じたように、「独身者の機械」において重要なモチーフである(13)ことが想起される。
 ここで注意したいのが、外界と内面を隔てるものとしてのガラスはあくまでも通り抜けられないものであるが、通り抜けられるものとなるときに、薄膜と化す描写が見られることである。

 アリスが鏡を通り抜けることができたのは、それがガーゼあるいはもやみたいになったからである。(中略)ここでも鏡面は、束の間、いわば水面と化すことで、その「超越性」をまっとうするのである。(14)

 ここで『鏡の国のアリス』を例に考察されたのは「鏡」であるが、水面に比されるものとして、ガラスについても類似する機能が考えられるだろう。
ほぼ同時期の作品だが、笙野頼子『硝子生命論』(15)においても、ガラスの比喩が重要なモチーフとなる。『硝子生命論』は「死体人形」と名づけられた人形と、失踪した人形作家をめぐる物語であるが、人間の世界と人形の世界が後半において反転する。世界を反転させる装置として、「布」のような、「スクリーン」としての硝子が描かれるのである(181頁)。
 したがって、「ガラスのリボン」には、内部と外部の境界でありながら、それを曖昧にし反転させる、布や薄膜としてのガラスのイマージュが根底にあると考えられる。それゆえにこそ、「ガラスのリボンを解く」ことで、人形が主体的に愛し語りかけ、謎をかけることができる。「客体としての少女」ではなく、主体的に内面を表現することができるのである。


(1)トレヴィル。なお、2007年にエディシオン・トレヴィルで再販。
(2)『yaso夜想 特集ドール』2004年10月。
(3)初出『芸術生活』1972年4月号、引用は『澁澤龍彦全集 12』(河出書房新社、1994年)による。なお、日本におけるベルメール紹介の初出は『みづゑ』384号(1937年)とされる(宮川尚理、編集部「ハンス・ベルメール&ウニカ・チュルン年代記」『yaso夜想/特集『ハンス・ベルメール―日本の球体関節人形への影響』』2010年12月)。
(4)今野裕一、天野昌直「人形作家列伝」(『ユリイカ』2005年5月号)中の天野の発言。
(5)1998年に出版元であったトレヴィルが活動を停止した後、「著作権の関係で」(「吉田良インタビュー」『TH叢書№19 特集・ドール~人形の冷たい皮膚の魅惑』アトリエサード、2003年9月)再版されず、可淡の作品集は入手困難な状況が続く。2004年2月に東京都現代美術館で開催された「球体関節人形展」においても、出展はされるものの図録に収載されていない。可淡の作品集は、トレヴィルの活動を引き継いだエディシオン・トレヴィルにおいて、2007年にようやく出版されている。1990年の事故死と1998年以降の絶版状況から、可淡は2000年代前半、いわば伝説の人形作家であった。
(6)小川千恵子「ニッポンの球体関節人形事情―出品作家解説」(『映画「イノセンス」公開記念・押井守監修 球体関節人形展・DOLLS OF INNOCENCE』図録、東京都現代美術館、2004年2月)。
(7)注6に同じ。
(8)吉田良「関節人形に宿るもの」(『yaso夜想/特集『ハンス・ベルメール―日本の球体関節人形への影響』』注3参照)中のインタビュアー、今野裕一の発言。なお、ここでは、天野のパートナーであり、天野の人形を撮影した人形作家・写真家の吉田良についても言及されている。
(9)写真、片岡佐吉『天野可淡 復活譚』KADOKAWA、2015年。
(10)『山尾悠子作品集成』パンフレット。国書刊行会、2000年。
(11)1975年。本文引用は『森茉莉全集4』1993年、筑摩書房による。
(12)1923年~1940年。今村仁司他訳『パサージュ論』1~5巻、岩波書店、1993年。
(13)『独身者の機械―未来のイヴ、さえも…』高山宏、森永徹訳、ありな書房、1991年。
(14)谷川渥「ナルキッソス変幻」(『鏡と皮膚』ポーラ文化研究所、1994年→ちくま学芸文庫、2001年)。
(15)河出書房、1993年。

人形関連書籍紹介:ゴーレム関連

2015-03-24 11:04:09 | 人形論(研究の話)
今日は久々に研究関連のネタを。

1年ほど前のことになりますが、長らく入手困難だったグスタフ・マイリンク、今村孝訳『ゴーレム』(以下、『ゴーレム』とする)が白水Uブックスで出版されました(→白水社、書籍詳細)。
『ゴーレム』に関しては、私もブログ記事で触れたことがあります(→空間表象と小説の扉)。
ゴーレムとはユダヤの伝説にある土でできた人様の生き物で、現代の幻想小説では人形や人造人間などとも関連の深い形象です。
『ゴーレム』のなかでもゴーレム伝説は(当然)重要なモチーフなのですが、実はここで登場するゴーレムはあんまりゴーレムっぽくない。ルドルフ二世のゴーレム伝説が引用されもするのですが、『ゴーレム』のなかで実際に主人公が対峙するのは、むしろ分身に近いものです(ほんらいユダヤの伝説におけるゴーレムは、土くれに近いもののようですが)。それゆえにこそ、人形や記憶、内面と結びつくと言える。
なかなかシンプルにあらすじをまとめるのは難しい小説なのですが、語り手である「ぼく」が帽子を間違えられたことによって、その帽子の持ち主の人生を夢に見る、という構造の枠物語です。その夢のなかでは、「アタナージウス・ペルナート」という宝石細工師が、とある書物の修理を頼まれたことから事件に巻き込まれます。
「ぼく」が見る夢のかたちで枠どられる物語において、夢の始まりと終わりを象徴する「脂肪に見えていた石のイメージ」(8頁)、「記憶」を象徴する「小石」を拾い集め、あるいは遠くへと放り投げようとする行為、見られた夢のなかで主人公が「宝石細工師」、すなわち石に文字や記憶を刻み込み、浮かび上がらせる職業であること、間違えられた帽子に刺繍された金色の名前などは、夢や空間を用いて意識の内部と外部が反転する構造を支えます。

ユダヤの伝説から現代の幻想小説や映像文化におけるゴーレムまで概観したものに、
・金森修『ゴーレムの生命論』(平凡社新書、2010年)、
・大場昌子、佐川和茂、坂野明子、伊達雅彦『ゴーレムの表象 ユダヤ文学・アニメ・映像』(南雲堂、2013年)
がありますが、『ゴーレムの生命論』のなかでも、『ゴーレム』は「全体としては興味深い作品」だが、「ゴーレム伝説の〈伝説素〉の豊穣化にとって、濃縮的というよりはむしろ希釈的に働く文献」であるから「二次的な言及」に留める、という扱いになっています。

『ゴーレムの生命論』は、伝説上のゴーレムからロボットや自動人形との関わり、近現代における形象までをたどりながら、現代の生命倫理と結びつけます。
第一部では主にユダヤ教のタルムードや伝説を集めた書物を扱い、古代から近代まで、ドイツロマン派、フランケンシュタインなどの影響による変容をたどります。第一章ではゴーレム伝説を歴史的に概観し基本的な要素、〈言語欠如性〉、「土」という材料、「未定形の〈魂〉」としての「胎児」のイメージ、「護符」などを抽出します。第二章では20世紀初頭に書かれた『ニフラオート・マハラル』という書物を扱い、「不死身の用心棒」ではなく「少し大柄で力が強いだけの普通の男」のようなゴーレム像を指摘します。
第二部では『フランケンシュタイン』、『砂男』、『ロボット』などにおける、怪物や自動人形、ロボットの形象を考察し、ゴーレムと共通する〈人間圏の境界〉〈劣等人間〉という要素に焦点を当てます。
第三部では現代の作品や人工細胞の開発を例にとり、生命倫理とも関連づけます。現代におけるゴーレムの形象を、〈人間圏の境界〉にあることによって、他者をゴーレムとして境界線を引き、あるいは自己をゴーレムとして見るようなドッペルゲンガー的なものとして位置づけ、最終的には「〈命〉に対する問いかけ」に向かわせるものとして結論づけます。

『ゴーレムの形象』は、何人かの著者によって書かれた本で、編著者たちが行ってきた「ユダヤ系作家の読書会」が企画のもとになっているようです。したがってユダヤ系作家の作品が考察の中心になっていますが、アメリカのスーパーヒーローや日本のアニメ、現代のTVドラマなどにおけるゴーレムも扱っています。後半、あまりにも多様なゴーレム像を扱ったために羅列的になっている部分があり、少し残念に感じました。
個人的には、女性形象としてのゴーレム像(大場昌子「ユダヤ系女性作家の伝説書き換え」)や、性欲を持つゴーレム像(金森修「愛するゴーレム」)が気になりました。
ただ、ゴーレムの場合は性欲あるいは愛がないなどの要素を反転してゆく場合も、誰かに対して愛情を抱くようなふつうの恋愛物語になってしまうパターンが多いみたいで、人形の場合とはまた違うなあ…と。

私も『ゴーレム』はかなり好きな小説なのですが、『ゴーレム』あるいはゴーレム伝説がどの程度私の研究テーマである人形とかかわりがあるのかというと、微妙なところです。
性欲も生殖能力もない点は人形にも共通するイメージですが、ゴーレムには圧倒的に男性のイメージがあること、また人形のような性的な客体ではないこと、美的イメージはないことが大きな違いといえます。
ひとつ、(女性や人形を)客体として見ると言った場合に、オブジェ的なもの、機械や物質の側に寄せて把握する場合と、知的な認識(主体)と対照的なものとして自然を見る、という二つのパターンがあると思うのですが、ゴーレムはどちらかと言うと自然の側に振れる形象かもしれません。

   *   *   *   *   *   *   *
おまけ:現在里親募集中のわんこ達

空ちゃん→ペットのおうちいつでも里親さがし

もこちゃん(左)→里親さん見つかりました
うめちゃん(右)→ペットのおうちいつでも里親さがし

夢ちゃん→6月からいったん募集を終了しています。

さちちゃん(左)→6月からいったん募集を終了しています。

今日は夢ちゃんさちちゃんの抜糸(避妊手術)でした。
夢ちゃんは車のなかでゲロゲロするし、さちちゃんは座席の下に入り込んで引っかかって出られなくなるし(座席を取り外せるということが分かり、どうにか引っ張り出した)でたいへんでした。

人形関連書籍紹介:人形=機械に関わって

2014-06-23 14:07:18 | 人形論(研究の話)
今日は、巽孝之・荻野アンナ編『人造美女は可能か?』(慶応義塾大学出版会、2006年)および、人形と機械に関わる書籍を少し紹介しようと思います。

17世紀、デカルトは『人間論』において、
「身体を、神が意図してわれわれにできる限りにるように形づくった土〈元素〉の像あるいは機械にほかならない」(225頁)
と言いますが、これが「人間機械論」と呼ばれ、人形論やロボット、ゴーレムなどとさまざまに関連づけて論じられてきました。

人間を機械として見る、という視点は、先日引用した谷川渥の、人形を人間として見る「ピグマリオニズム」と、人間を人形として見る「逆ピグマリオニズム」の区別でいえば「逆ピグマリオニズム」にあたりますが、人間が機械=人形(自動人形)→人間をつくる、というピグマリオニズム的な感覚と交差しながら、この「私」を人形=機械のように感じる、という現代的な感覚へと到り着きます。

神ならぬ人間が人形=機械→人間を作ろうとする行為は、神の位置を簒奪するものとして(例えば『フランケンシュタイン』)、どこかいかがわしいものとされてきました。演劇に関する有名な表現に「機械仕掛けの神」というものがあるように、フィクションを想像する行為の比喩としても有効だと思われます。

さて、『人造美女は可能か?』についてですが、2005年12月16日に慶應義塾大学で行われたシンポジウムを基にしたもので、古典的な文学作品から現代文化まで、「人造美女」という観点から広範な対象を10名の著者が論じたものです。「ホフマンからゴスロリまで」という見取り図や、「人造美女編年史」もついてたいへんに親切。ただ、非常に広範な対象を扱ったためかやや煩雑な印象になってしまったこと、どちらかというと男性が人造美女を作ろうとする方向に対象が偏っていた点が残念です。

個別に疑問に感じた点を一点。
巽孝之「死んだ美女、造られた美女―ポオ、ディキンスン、エリオット」では、ナボコフの『ロリータ』を、ポオの「アナベル・リー」の影響下で、「死せる美少女が人造美女へ転生する」ものとして位置づけます。『ロリータ』における「アナベル・リー」の影響や、過去に死んでしまった「アナベル」という少女の(外見的な)「再来」として「ロリータ」が登場する、ということに関しては首肯できます。ただ、「ロリータ」は「人造美女」というよりは、外見ばかりはニンフェットでも現実のくそ生意気なアメリカン・ガールであって、回想の中にいる死んでしまった理想的な美少女ではなく、そういう現実のクソガキを愛してしまった、というところにむしろ『ロリータ』の眼目(というか滑稽さ)はあると思うのですが…。

アリスにしてもロリータにしても、いかにも現実にいそうなくそ生意気なガキ(子供嫌いな私にはちょっと耐え難い)であって、そういう現実にいそうなガキが理想的な少女イメージの原型になったことが、かえって面白いのかもしれません。

人間、機械、人形の観点から興味深い小説を一つ紹介しておきましょう。
山尾悠子『仮面物語 或は鏡の王国の記』(1980年)。これに関しては、別に論じたこともありますので、よろしければ→こちらもご参照ください。
架空の王国を舞台とした、「影盗み」と呼ばれる真実の顔を見る能力を持った彫刻師をめぐる物語で、この彫刻師は葬儀のときにつかう等身大の像をつくる仕事をしています。自動筆記の詩人も登場し、機械=人形という視点は、フィクションの構造とも関わります。
この中に登場する「聖夜」という名の領主の娘が、数年前に転落事故で体を破損し機械人形のものと取り換えているのです。彼女には「自分が自動人形ではないと納得させるために」(127頁)、「アマデウス」という名の自動人形が与えられます。しかしながらかえってそのことで、彼女には自分と自動人形との区別がつかなくなります。聖夜はさらに事故にあい、最後には「人間ではないもの」になってしまいます(254頁)。アマデウスが「魂」を失ったことが描かれることで、自動人形にも魂があることが示唆されます。
この物語のなかでは、人間の身体と人形、機械との区別はすでになく、しかもそれが、人間を人形として愛する男性の側からではなく、自分のことを人形のように感じる側の感情として描かれるのです。

京極夏彦『魍魎の匣』(1995年)もこのような観点から興味深い作品ですが、表象文化論学会第9回大会でパネル発表(2014年7月6日(日)16:30~18:30、於東京大学駒場キャンパス)があり、私もコメンテーターとして参加いたします。
興味があればぜひおいでください。

機械=人形は、ロボットやゴーレムのイメージとも関わりますが、それに関してはまた別に紹介できればと思います。
では。

*引用は、「人間論」…『デカルト著作集 4』(白水社、1973年)、
山尾悠子『仮面物語 或は鏡の王国の記』(徳間書店、1980年)による。

人形関連書籍紹介:谷川渥『肉体の迷宮』

2014-06-17 14:29:24 | 人形論(研究の話)
せっかく人形の文学論、というタイトルでブログをしているので、
ちょっとずつ人形に関連する本を紹介していこうと思います。
小説、評論、雑誌特集などジャンル・形態問いませんが。

今日は谷川渥『肉体の迷宮』(ちくま学芸文庫、2013←東京書籍、2009)。
さまざまな媒体で発表された文章を集めた本ですが、西洋と日本の肉体観の違いを中心に据え、量塊(マッス)性と衣装性の対立、皮膚と表層、身体の変容や寸断など、へと展開します。
私がしばしば踏まえる、『美術手帳』が初出の「人形と彫刻」も入っていて、これと、「ピュグマリオン・コンプレックス」が人形に関連するもの。

「人形と彫刻」は、芸術観における人形と彫刻の差異を論じたもの。
彫刻を量塊(マッス)的なものとし、人形を衣装的で心的距離の近い、操作性のあるものと位置づけますが、そもそも肉体のない、衣装的な肉体観を持つ日本においては、人形と彫刻の差異は曖昧にならざるを得ない、と言います。
したがって、日本の球体関節人形群は、「西洋彫刻の量塊と比例の思想を「さかしま」に「人形」化する」ハンス・ベルメールの「方法論的暴力」と無縁なのだ、と。
総じて日本の球体関節人形に対する評価は低いようで、私自身はもっと別の意味づけも可能だと考えていますが、それについては別に述べようと思います。

なお、ここでは先行する『文学の皮膚』(白水社、1996)所収の論文「見ることの狂気 川端康成の逆ピグマリオニズム」における、人形を人間にしたい「ピグマリオニズム」と、人間を人形にしたい「逆ピグマリオニズム」は区別されるべきだ、という主張が踏まえられていますが、その、「ピグマリオニズム」について論じたのが「ピュグマリオン・コンプレックス」です。
「古代に遡ることのできる魔術的彫像のテーマ」「十七、八世紀的な自動人形のテーマ」との関係に触れたうえで、彫像における五感の複合的なエロス、濡れ衣表現などの「表層の快楽」の文脈に位置づけます。肉体が襞であり、着衣である、というような。

人形と芸術

2013-12-31 11:50:34 | 人形論(研究の話)
こんにちは、年末も差し迫ってきました。
明日からもう2014年だなんて、ちょっと信じられません。

来年は、授業案のようなものをちょっとずつここに載せていけたらな…と思ってます。
非常勤持ってないからね、どこかで授業できます、ってアピールしないと。
でも私あんまりいろんなことできないから、
まず動画のせる方法とか、レジュメ(PDFかWordファイル)やPowerPointのせる方法体得しないと…。

年末になってから薬局事務のほうのシフトが増えてしまって、
昨日、一昨日は犬を獣医さんに連れて行くなどしていたので、今日やっとゆっくりできる感じです。


今日はしばらく放置していた、人形論について少し書きたいと思います。
人形論について―その1.で書いた内容と、関係するネタ。

人形と芸術についてのお話です。
ただし、人形が芸術であるか否かを論じるものではありません。
どういう文脈で人形が芸術でない…と言われるのか、
なぜ、人形は「芸術ではない」という弁明とともに作られるのか、ということ。

人形作家本人、あるいはインタビューにおけるインタビュアーの言説などを見ると、
こういうのは芸術ではないと思うが…という弁明とともに創作態度について語られることがよくあります。

例えば、
1,天野可淡について「可淡さんはやっぱり人形ですよね。芸術と言う枠の中に入るよりも」と言うインタビュアーに対し、パートナーであった吉田良「人形的なものと同時にオブジェ的なものも展開しているんですよ」(1)。

2,「可愛い」ことにこだわる人形作家・恋月姫について…「芸術というのは自分を表現するため、と言われているじゃないですか。それとは少し違う」(2)。

3,「アートとして捉える」ために「球体関節の「機能」の部分を取」り、「形態美だけにピントを合わせよう」とする人形作家堀佳子…天野可淡の「人を愛する事のできる人形」をつくりたいとの言葉を踏まえながら、「オブジェが意思を持ったら、面白いかな」(3)。

ここでは、
形態美、オブジェ的なもの=芸術性であるとしながら、⇔自己や内面を表現するものとしての人形
という価値観と、同時に、
自己を表現していない、可愛いものとして人形を作る、
という二種類の人形≠芸術観がみられます。

ここで重複する内容となりますが、人形と彫刻の差異についての、
谷川渥の整理(4)を振り返っておきましょう。

谷川は、増渕宗一『人形と情念』(5)を踏まえ、
・彫刻が絵画と異なり視点が動き、量塊的存在であること、一方で人形は「あねさま人形」という「肉体不在の衣装のお化け」を典型として衣装的存在であり、
「衣装的形成と量塊的形成の対立として規定される」と整理します。
・その上で、「なるほどと納得させられる一方で」「釈然としないものが残る」、「総じて日本の芸術は反彫刻的」とし、
「彫刻と人形を基本的に分かつはずの量塊性と衣装性とが、西洋と日本では(中略)異なった位相にある」、「ハンス・ベルメールの「人形」は、衣装性と量塊性の基準を導入するなら「彫刻」」であるという点から、
・「人形と彫刻を分けるものとして、「心的距離と操作性」」の概念を導入します。

したがって、
絵画=遠近法/彫刻=量塊性/人形=衣装性
彫刻=抽象的、距離が遠い/人形=心的距離が近く、操作性がある
ということになります。

衣装性と量塊性の対立についてはまた機会があれば触れると思いますが、
彫刻に関しては、抽象性や心的距離の遠さから、人形と比較しての芸術性が位置づけられるのです。

また、球体関節人形がシュルレアリスム的なものとして位置づけられたことから、
球体関節人形の芸術性が、小説などの内面描写とは異なるものとして位置づけられた。

人形の芸術性=自己や内面を表現しない
という位置づけが生まれます。

ただし一方で、小説などにおいて(殊に古い価値観で)は、内面が描かれること=芸術性とされる、ことから、
3,のような発言
人形=内面を表現しない≠芸術性
も見られるのです。

このように、人形は常に芸術と芸術ではないものの境界にあるものとして位置づけられます。
その境界線上で、自己や内面の表現の位置づけが揺れ動く。
そういうメディアとして、注目したいのです。

次は、セルフポートレートドールの有名な人形作家、
井桁裕子の「私小説のように」という概念に注目したいと思います。

それではみなさま、良いお年をお迎えください。

注:
(1)吉田良「危うさと儚さのあわいに」(『yaso夜想 特集ドール』2004年10月)。
(2)恋月姫「死の淵を人形に見る」(同上)。
(3)堀佳子「触れ得ない存在をめざして」(同上)。
(4)「彫刻と人形 比較論の地平」(『美術手帳』2006年3月号)。
(5)勁草書房、1982年。