時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ガリレイの生涯

2009年08月07日 | 書棚の片隅から

 
夏の読書
 
  ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』(岩淵達治訳、岩波文庫、1979年)を再読した。文庫版が出た頃に一度読んだのだが、気にかかる点が多く、もう一度ゆっくり読み直してみたいと思い、書庫の片隅へ別にしておいた。ガリレオ・ガリレイもさることながら、劇作家ブレヒトの生き方にも強く興味を惹かれていた。あの画家キルヒナーの人生遍歴とも重なるところがあった。

 しかし、今回気がついてみると、もう20年の年月が過ぎていた。かなり驚いたことがあった。前回読み切れていなかったのか、以前にも増して次々と新しい発見があった。いくつかは時間の熟成がもたらしたものだった。

 今回再び手にするについては、ひとつのきっかけがあった。
国立西洋美術館・京都市美術館『ルーヴル美術館展―17世紀ヨーロッパ美術』(2009)カタログに収録されているブレーズ・デュコスの『「レンブラントのヨーロッパ」における世界周航、庭園、科学革命』を読んだ時に触発された。特に、ガリレオ・ガリレイについて詳しく記されているわけではない。しかし、17世紀に遠洋航海の時代が生まれるについては、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)などの天文学の発達に負うところが大変大きかったのだ。そして、その結果として世界は大きく広がっていった。  

 レンブラント、フェルメールなどの作品と、ガリレオ・ガリレイ(以下、ガリレオと略)の間には、さまざまな意味で興味深い関係が見出される。最近の新しい発見もある。それについて、今は触れない。ただ、17世紀になるまで、すべての知識は哲学の範囲に含まれ、自然、社会、さらに宗教までも哲学の原理の次元で議論されてきた。実際、ガリレオも1610年トスカーナ大公の宮廷哲学者としての地位を得た。 ガリレオは科学の問題について教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を切り離し、「科学の父」と呼ばれることになる。イタリアは当時の先進国だけあって、ガリレオの生涯についてはかなり多くの記録が残っているようだ。

ガリレイの裁判
 ガリレオは地動説を発表した後、軟禁状態での1616年第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所)から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。この直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。そして、1633年 第2回異端審問所審査で、ガリレイはローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。  

 ブレヒトの戯曲『ガリレイの生涯』は、ガリレオの人生の後半を巧みに取り上げ、1637年著書『新科学対話』が密かにイタリア国境を越えるプロットで幕を閉じる。『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。知識の流れを国境は阻止できないという考えだ。なんとなくはるか時代を隔てたIT時代の到来を思わせるようなくだりだ。  

ブレヒトの時代
 ガリレオ以上に、ブレヒトについてもかなり関心を持ってきた。残念ながらブレヒト自身の演出『ガリレイの生涯』の舞台は見ることがなかった。しかし、その後、日本で何度か上演されたブレヒト劇はいくつか見る機会があった。

 この岩淵達治氏訳のブレヒトの戯曲台本に加えて、ブレヒト自身が残した詳細な「『ガリレイの生涯』の覚え書」、訳者岩淵達治氏の「訳者あとがき」で、ブレヒトがいかなる時代環境、精神的状況の下で、この作品を制作したか、ほうふつと目に浮かんでくる。 とりわけ、興味を覚えるのは、この作品の制作過程で、ヒロシマへアメリカが原子爆弾を投下している。アメリカ、西海岸へ亡命していたブレヒトは、当然大きな衝撃を受けている。ブレヒトが感じた当時のアメリカ側の原爆の受け取り方がとりわけ注目される。 

 『ガリレイの生涯』は、ブレヒト自身が残した制作過程での詳細な覚え書、そして、演出家岩淵達治氏の透徹した考察が加わって、戯曲の理解を深め、実に
多くのことを考えさせる。ガリレオの時代まで立ち戻れば、最大の問題は科学と宗教との関係であり、とりわけローマ教皇庁の対応が歴史上、大きな注目を集めてきた。

 1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレイに謝罪した。ガリレイの死去から実に350年後のことである。もちろん、この膨大な年月の間に科学の発展が阻止されていたわけではない。しかし、教皇のあり方について、改めて述べるまでもなくさまざまなことを考えさせる。  

 戯曲作家としてのブレヒト自身の生涯も波乱に富んでいた。ブレヒトは1940年、ナチスがデンマーク、スエーデンなどに侵攻したため、ヘルシンキへ逃れ、1941年にはアメリカへ亡命、カリフォルニア州サンタモニカに移住した。しかし、計画したハリウッドへの脚本の売り込みはうまくいかず、戯曲上演の計画も難航し経済的に困窮することになった。しかし、ブレヒトはロンドン、パリ、さらにニューヨークを旅行しながら作品の上演、戯曲制作などを続けてきた。

 戯曲『ガリレイの生涯』をめぐって 30年代初期に書いた戯曲『ガリレイの生涯』の原稿は三度も書き直された。ブレヒトの制作態度は、どれが最終稿というわけではなく、制作がプロセス(過程)としてとらえられている。いずれの段階も、それぞれ固有の意味を内蔵していると考えられている。この間のブレヒトの心の振幅が興味深い。

恐怖のアメリカ
 共産主義者であったブレヒトにとって、当時の米国は決して快適な国ではなかった。1947年10月30日、ブレヒトは非米活動委員会の審問を受ける。ニューヨークで『ガリレオ・ガリレイの生涯』の初公演中であったにもかかわらず、審問の翌日、ブレヒトはパリ経由でチューリヒに逃亡した。西ドイツへ入国が許されなかったためブレヒトはチューリヒに一年間滞在。オーストリア国籍を取得している。1949年東ベルリンに戻り、活動を再開した。  

 ブレヒトにとってナチス
以上に恐怖の場であった当時のアメリカの雰囲気は、特筆に値する。非米活動委員会については、かなり知られているが、とりわけ映画、演劇などのエンターテイメント関係者を目の敵にしていたので、共産主義者と目されたブレヒトにはナチスとは違った恐ろしさが感じられたのだろう。 このブログでもなんどか記したが、当時のアメリカの緊迫した恐怖感を共感・共有できる世代は、きわめて少なくなった。 

 暑さの中での読書にはやや重い読後感を与える作品だが、夜空の星で目を休めながら、17世紀、そして20世紀の大きな時代的転換を考えることは、興味深い。
 
 ブレヒトは自分の芝居の意味を観客に十分考えさせることに大変気を配ったようだ。これはブレヒトの長年にわたる主張だったようだ。この戯曲がアメリカで最初に上演された時の状況については、「覚え書」に次のように記されている。

 上演はベヴァリー・ヒルの小さな芝居小屋で行われた。そして、#1
のなにより心配したのは、ちょうどそのころ酣(たけなわ)だった暑さだった。彼は大氷塊を積んだトラックを劇場に沿って走らせ、そして通風機(ベンチレーター)をまわすように要求した。それは観客が考えることができるためだった#2

*1 俳優チャールズ・ロートンCharles Laughtonのこと、彼の協力でブレヒトが戯曲化。

*2 実際に戯曲作品を読んでみると分かるが、ブレヒトの戯曲には細部にかなり工夫が込められており、それらの含意をくみとるにはかなりの注意が必要だ。

出所:ベルトルト・ブレヒト「ガリレオの生涯」の覚え書。1947年 

 



国立西洋美術館・京都市美術館・日本テレビ放送網・読売テレビ・読売新聞社『ルーヴル美術館展―17世紀ヨーロッパ絵画』(カタログ) 9月27日まで京都市美術館で開催中。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 人はなんのために働くのか | トップ | ガリレイの生涯(2) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

書棚の片隅から」カテゴリの最新記事