時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ニューディールが生まれた日:歴史の跡を刻む写真

2021年07月31日 | 午後のティールーム
これまでの人生では多くの書籍や雑誌に対してきた。子供の頃からかなりの本好きであることは自認している。書籍と並んで、専門、一般を問わず多くの雑誌 magazine, journal, bulletin や新聞の類にも接してきた。書籍は一度読むと、しばらく遠ざかるが、雑誌は内容新たに次々と目前に現れる。

これらの中には、半世紀を越えて購読してきたものもある。そのひとつにNational Geographic というユニークなマガジン がある。日本でも『ナショジオ』と略称されたりして、根強い購読者がいる。地理学、科学、歴史、自然など多くのトピックスをカヴァーし、当初からヴィジュアルな写真の効果をアトラクションとして読者を惹きつけてきた。


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N.B.
『ナショナル ジオグラフィック』は、現在はナショナル ジオグラフィックパートナーズ社の雑誌。
創刊は1888年で、ナショナル ジオグラフィック協会創設後9カ月後に、公式雑誌として刊行された。当初の誌名は National Geographic Magazine。
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ブログ筆者は、当初アメリカ人の友人からクリスマス・ギフトとして送られたことを契機に読み始めるようになり、しばらくして自分で購読するようになった。インターネットもない時代、毎月配送されてくるのが楽しみだった。写真の素晴らしさが、このマガジンの生命だ。今日ではディジタルなプログラムも充実しているようだ。

近年は特定のテーマの特集号もある。最近手にしたATLAS OF AMERICAN HISTORYと題する特集のページを繰っていて、いくつかの感動的な写真が目についた。


特集:ATLAS OF AMERICAN HISTORYの表紙

BOOM AND BUST (ブームと不況)と題した見出しの下では、アメリカが経験した南北戦争後、1870年代の再建から20世紀初めまでの大きな変化の中で刻まれたいくつかの写真が紹介されている。

このブログでも取り上げた1936年の大不況の中、アメリカ国内の移住によって子供たちとともに生き残ろうとした「
出稼ぎ労働者の母親」(Migrant Mother, 1936)と名付けられた有名な一枚も含まれている。さらに、児童労働法が未だ存在しなかった1930年代に、牡蠣の殻をむく仕事をする子供たちの姿を写したセピア色の写真もある。児童労働、女子労働の資料を探索し、1日中図書館に籠っていた時代に出会った一枚でもあった。自分史でも半世紀以上昔になる。

「トライアングル・ファイア」再訪
さらに、このブログでも記したことのあるアメリカ史に刻み込まれた「
トライアングル・シャツウェスト工場火災」Triangle Shirtwaist Factory fireに関わる写真も掲載されている。

New York のフラティロン・ビル Flatiron Buildingは、火災が起きたビルの地域を象徴する建物だった。フィフス・アヴェニューとブロードウエイの交差する三角地点に建設されていた。これを見ると、なぜこのアメリカ史上に残る大災害が「トライアングル・ファイア」と呼ばれてきたかが、直ちに分かる。


トライアングル(三角形)の名を生んだフラティロン・ビル。建設途上のイメージ(1902年、大惨事の前)。火災は1911年3月25日、このビルに近接したアッシュ・ビルで起きた。当時のビルの建設過程が分かる写真は少ないので貴重だ。鉄骨のフレームを組み、資材を吊り上げているのが分かる。Source: National Geographic, ATLAS OF AMERICAN HISTORY, p.84


完成したフラティロン・ビル

火災の発生
火災はこの地点に近いアッシュ・ビルディングAsch Buildingと呼ばれていたビルで発生した。工場はこのビルの8-10階にあった。この地域にはロフト・ファクトリー (loft factories)と呼ばれた苦汗労働で成り立ったビル内の小工場が乱立していた。

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N.B.
Triangle Shirtwaist Factory工場はこのビルの8~10階を占め、ロシアから移民した経営者二人が所有・経営していた。


火災は上掲のAsch Builingの8~10階で発生した。
火災が発生したのは、 1911年3月25日、時刻は4:40 PM(現地時間)だった。
火災により 縫製工146人(女性123人、男性23人)が死亡。年齢がわかっている犠牲者のうち、最高齢の犠牲者は43歳であり、最年少は14歳であった 。
所有者が階段吹き抜けや出口へのドアをロックしていた ため、かなりの労働者が、燃えさかる建物の8階~10階から下方の通りへ飛び降りて命を落とした。大変衝撃的な光景であったことは間違いない。

この火災により、工場の 安全基準 の改善を義務付ける法律が制定されたほか、 スウェットショップの労働者の労働条件を改善するために奮闘した国際婦人服労働組合 の成長に拍車がかかった。

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ニューディールが生まれた日
FDRの時に女性として初めて労働長官になったフランセス・パーキンス女史は、トライアングル火災の年には30歳になっていた。彼女は、1911年3月25日当日同時刻に、ストリートからこの恐ろしい火災の有り様を見ていた。逃げ場を失った若い労働者は煙と火焔に苦しみ、窓から飛び降り死亡し、惨憺たる光景だった。


この大惨事を目の当たりにしたパーキンスは後年、この日を「ニューディールが生まれた日」と述べた。フランクリン・D・ローズヴェルトが大統領に選ばれた1932年、彼女に労働長官への就任を依頼した。その後、彼女は合衆国で最初の女性閣僚として、12年間の長きにわたり内閣に留まり、1935年の社会保障法の成立につながる立法過程に大きく貢献した。閣僚退任後は教育分野でコーネル大学労使関係スクールなどで1935年まで教壇に立った。筆者の大学院での指導教授には、彼女たちと共にニューディーラーとして、この時期のアメリカ経済の大改革に従事した人々が多く、大変感慨深いものがある。

アメリカ、そしてニューディールという大変革で世界史に大きな転機をもたらした事件、惨事のひとつだが、意外に知られていない。歴史に残る大きな改革は、災害などの事件がきっかけとなって進展することが多い。酷暑が続くコロナ禍の中、格差が拡大する世界、記憶を新たにする意味で記しておく。




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