時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

私にとっての9.11

2005年02月19日 | 回想のアメリカ

在りし日のワールド・トレードセンター遠望  

 2001年9月11日。その日、ニューヨーク、マンハッタン島の上空はよく晴れていた。それだけに、TVを通してリアルタイムで放映されたあの衝撃的な映像は網膜にしっかりと焼きついてしまった。 

  惨劇の舞台となったワールド・トレードセンターには、少なからぬ思い出がある。1960年代後半の最初の留学生時代には、ミノル・ヤマサキ氏によるデザインが示された段階だったが、間もなく、マンハッタン島の南端にその巨大な姿を現した。その後、しばらく多国籍企業で仕事をするようになって、提携企業のあるモントリオール、ニューヨークなどへの度重なる出張の時に、トレードセンターや近くにオフィスを持つ企業を訪問するために、この場所は何度となく訪れた。トレードセンターのビル自体は目立ちすぎるようで好みではなかったが、逆に海側 に向かって、近くのバッテリー・パークから眺める自由の女神像の遠望は、アメリカのひとつの象徴的光景であり、深く脳裏に刻まれている。とりわけ、春の日射しが柔らかく射し込み、木漏れ日が柔らかに照らすパークのベンチに座り、なんとなく一時を過ごしている近くのオフィスワーカーや住人たちの光景は、心の和むものであった。 

  研究者としての生活に入ってからは、テロで破壊されたビルの残骸の置き場となっているスタッテン・アイランド(移民労働研究の研究機関がある)やエリス島移民博物館に行くことが増加し、南端にそびえるセンター・タワーのひときわ目立つ情景をたびたび 目にするようになった。とりわけ、エリス島へ渡るフェリーからのマンハッタンの眺望は忘れがたい。

  留学生としてアメリカに来たばかりの頃は、日本から友人・知人が来ると、マンハッタン島を一周する「サークル・ライン」という観光客向けの遊覧船に誘ったことがよくあった。実は、この遊覧船はニューヨークの地理的状況を最初に直感的に理解するには、大変適した手段なのである。出発の桟橋は西47丁目であったろうか。2時間くらいのハドソン川のクルージングで、マンハッタン島の主要部を一回り外周部から眺望することができる。

  ニューヨークに来た時は、摩天楼の偉容とともに、ハドソン川にかかる多くの橋が大変美しく 、よく見て回った。ニューヨークは大変橋が美しい市街であるという印象は当初から持っていた。とりわけ、フェリーから見た橋は美しかった。ひときわ目立つワールド・トレードセンターは、大きなアトラクションのひとつであった(画像はエリス島行きボートから望んだありし日のワールド・トレードセンター)。

「ソフィーの選択」  
  今回の事件でTVに映し出されたバッテリー・パークの映像を見るうちに、私の脳裏にはそれまでほとんど思い出すことがなかったひとつの映画の光景が浮かんできた。1982年に映画化された作家ウイリアム・スタイロンの問題作「ソフィーの選択」 (Sophie's Choice) である。ちなみに、アメリカ社会派ともいうべきスタイロンの「ナット・ターナーの告白」 (THE CONFESSIONS OF NAT TURNER, 1967)は、私の愛読書の一冊である。 

  ストーリーは、フォローするのが耐え難いほど陰鬱である。主人公のソフィー(映画はメリル・ストリープが熱演、アカデミー主演女優賞)という女性はホロコーストの生存者として、誰にも語ることの出来ない地獄の過去を持っている。今は移民してアメリカにいる ソフィーは、かつてユダヤ人女性として第二次大戦中ポーランドにおけるナチスのユダヤ人収容所にいる間に、生涯癒しがたい精神的傷を負うことになった。自分の子供である男の子と女の子のいずれかをナチス将校の脅迫の下で、アウシュビッツ収容所のガス室に送らね ばならないという選択を迫られたのであった。

  映画では、この回想部分はセピア色の単色で映されていた。この深い傷は、アメリカに来ても絶えず彼女を絶望的な苦しみに追いやる。こうした過去を持つ美貌の女性ソフィー、そして、その恋人であるが精神に異常を来して いるユダヤ人ネイサン(ケヴィン・クライン)がブルックリンで同棲している。そして、同じ下宿に住み、ソフィーを愛するスティンゴという南部出身の小説家志望の青年が奇妙な三角関係を作り出す。ソフィーの父は、当初反ナチの闘士ということであったが、その後反 ユダヤ主義者であったことが分かる。ソフィーの言葉自体もどこまで信用できるのだろうか。 


  ともするうちに、ソフィーは親しくなったスティンゴにすこしずつ心を開き、自らの暗黒面を語りながらも、ある日、狂気の高じたネイサンと衝撃的に自殺してしまう。花々が美しく咲き乱れた朝であった。 

  今回のテロ事件とは何の関係もない筋書きである。なぜ、突然この映画の場面が浮かんできたのかも分からない。ただ、現代の文明社会を深い部分で蝕みつつある狂気のようなもの、それが積もり重なり、ある曇りなく晴れた朝に、ひとつの破断に至るという点なのかも しれない (2001.10.7記)。 


旧大学ホームページから転載

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