大倉草紙

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【東京・港区】 円山随身稲荷大明神

2010年10月21日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
10月2日(土)


(東京都港区芝公園4-8)

「円山稲荷は、増上寺の裏門に位置し、山内鎮守の重要な位置を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。
 随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移築当時、桑名よりお迎えした御本尊を守護するために江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮座まします大明神であります。
   大本山 増上寺」(案内板より)

【東京・港区】 伊能忠敬測地遺功表

2010年10月20日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
10月2日(土)




(東京都港区芝公園4-8)
「忠敬先生は一七四五年(延享二年)上總國に生れて下總國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後五十歳の時江戸に出て高橋至時のもとで天文暦數の學を究めた
先生の卓見と創意とによる測地測量は一八〇〇年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び一八一八(文政元年)江戸八丁堀で七十四歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって續けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った
その偉業は引きつがれて一八二一年大中小の大日本沿海與地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測量局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである
東京地學協會はその功績を顯彰して一八八九年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦戰中に失われるに至った
仍って今回各方面の協賛を得てこの碑を再建した次第である

一九六五年五月
社団法人 東京地學協會
會長 細川護立」(碑文より)

【東京・港区】 網代橋の石柱

2010年10月18日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
10月2日(土)

 
「網代橋の石柱(明治三五年成る)
今では平坦な道である網代通りと麻布十番大通りの交差点には嘗て橋があった。
その網代橋から一の橋まで、通りの左側に幅二メートルもの溝があり、商店は各自板で橋を架けていたが、度々溢して困り果てていたという。
そこで。昭和三年、大暗渠が作られ、役目を終えた網代橋も取り除かれる事となった。
この石柱はその橋と時代の名残である。」(案内板より)

【東京】 秋季東京都高等学校野球大会 都立昭和-東海大高輪台、早大学院-国学院久我山 (神宮第二)

2010年10月17日 21時00分00秒 | スポーツ観戦
神宮第二球場で、秋季東京都高等学校野球大会を観戦する。
今日の試合で、ベスト4が決まる。


第一試合の都立昭和-東海大高輪台の試合の途中から観た。


4-1で都立昭和が勝つ。
これで、21世紀枠候補にあがる可能性が高くなったそうだ。

第二試合は、早大学院-国学院久我山。


試合前に、早大学院はこんなことをしていた。


これは、1回表に国学院久我山が3点目を入れたとき。
この後、2回が終わるところまで観戦した。
結果は、9-2で国学院久我山が勝った(7回コールド)。

【東京・港区】 十番稲荷神社

2010年10月16日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
10月2日(土)


戦災で焼失してしまった末広神社と竹長稲荷神社がいっしょになり、十番稲荷神社が誕生した。


港七福神の内、「宝船」のおやしろである。


「かえるの由来
昔ある年、古川辺から燃えだした火事に此辺りすべて烏有に帰してしまった時、『がま池』のほろし山崎主悦助の屋敷のみ類焼を免れたのは、池中にいた大蛙が口から水をふいて、さしもの猛火を吹き消したとの故事により、山崎家から万人に『上の字』様のお守りが授けられました。その後末広様(当社の前の御社名)を経てわけられていました。その故事にちなんだ「かえる」お守は火防・やけどのお守・無事かえる・若がえる・何でもかえるお守として貴ばれております。」(案内板より)


社殿


【東京・港区】 偏奇館跡

2010年10月13日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
9月24日(金)


(東京都港区六本木1-6)

「小説家永井荷風が、大正九年に木造洋風二階建の偏奇館を新築し、二十五年ほど独居自適の生活を送りましたが、昭和二十年三月十日の空襲で焼失しました。荷風はここで『雨潚潚(あめしょうしょう)』『濹東綺譚(ぼくとうきだん)』などの名作を書いています。偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったままですが、軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情緒に郷愁をみいだすといった、当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。

冀(ねが)くば来りてわが門を敲(たた)くことなかれ
われ一人住むといへど
幾歳月(いくとしつき)の過ぎ来(こ)しかた
思い出の夢のかずかず限り知られず
         『偏奇館吟章より』

 平成十四年十二月   港区教育委員会」(碑文より)

【東京・港区】 島崎藤村旧居跡

2010年10月12日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
9月23日(木)


(東京都港区麻布台3-4-17)


碑は、メゾン飯倉の一角に建っている。

「藤村は七十一才の生涯のうち文学者として最も充実した四十七才から六十五才(大正七年~昭和十一年)までの十八年間 当地麻布飯倉片町三十三番地に居住した 大作夜明け前 地名を冠した飯倉だより 童話集 ふるさと おさなものがたりなどは当地での執筆である」(碑文より)