大倉草紙

旅の記録 食の記録 日々の記録

【東京・千代田区】 工部大学校阯碑

2010年04月20日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
4月4日(日)




(東京都千代田区霞が関3-2-1)

「千代田区指定有形文化財(歴史資料)
 会計検査院文部科学省のあるこの周辺、すなわち江戸時代の虎門内延岡藩邸を中心とした地域は、言わば日本の工学発祥の地です。
 明治六年(一八七三)工業分野における日本人の人材育成を目的として工学校(工学寮内に設置)が開校し、同十年(一八七七)には工学寮が工部大学校と改称されました。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科がイギリスをはじめとする諸外国から招聘された外国人教師によって教授されていました。しかし同校は明治十九年(一八八六)に帝国大学と合併してその工科大学となりました。現在の東京大学工学部の前身です。
 工部大学校の移転後、同校々地及び建物は、帝室博物館、東京女学館などが使用しました。しかし、大正十二年(一九二三)関東大震災で工部大学校以来使用されてきた建物も倒壊してしまいました。その後、この土地には会計検査院などの建物が建設されたため、当時の面影がなくなってしまいました。そこで工部大学校出身者たちは、かつてこの地に同大学校があったことを記念して、昭和十四年(一九三九)『工部大学校阯碑』を建設しました。裏面碑文によれば、本碑の素材には関東大震災の際に倒壊した建造物の煉瓦などが用いられています。
 『工部大学校阯碑』は、千代田区内において日本最初の工業技術教育機関が設置された場所を示しつつ、その歴史を後世に語りかけてくれます。さらに、震災で倒壊した建造物の廃材を素材としていることで、震災によって大きな打撃を受けた千代田区の歴史をも伝えてくれているのです。
  平成六年三月  千代田区教育委員会(平成二十年三月補修)」(案内板より)


【東京・港区】 虎ノ門遺址

2010年04月19日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
4月4日(日)


虎ノ門の交差点付近に、「虎ノ門遺址」の碑が建っている。


碑文
江戸城の虎ノ門の史蹟を保存するために、地元有志がこの碑を建立したようだ。
実際の虎ノ門は、この場所よりやや皇居寄りにあったそうだ。


碑の上の虎は、通りに背を向けている。
お城の方角を向いているのだろう。

【東京・千代田区】 尾張名古屋藩徳川家屋敷跡

2010年04月18日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
4月3日(土)


(東京都千代田区紀尾井町 料亭「福田屋」のあたり)

「この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永14年(1637)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。
 尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は慶長8年(1603)甲斐府中藩主、ついで慶長12年(1607)尾張清州藩主を経て、後に名古屋藩主となり、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。
 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、『紀尾井町』という町名になりました。」(案内板より)

【東京・千代田区】 旧井伊家中屋敷のイヌマキとカヤ

2010年04月17日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
4月3日(土)


(東京都千代田区紀尾井町4-1 ホテルニューオータニ)
旧井伊家中屋敷のイヌマキとカヤは、千代田区指定天然記念物。

「旧牛込門から旧赤坂門までの延長4㎞の国史跡江戸城外堀跡には、四谷門のムクノキ、真田濠土手のマツなど、その歴史性を伝える特徴的な樹木が生育しています。その中で、ホテル ニューオータニ敷地内には、明治時代の伏見宮邸の庭園やスダジイ、タブノキ、クスノキなど巨樹がみられます。
 正面のカヤと奥の通路にあるイヌマキの2本の針葉樹は、年輪の測定から200年以上の樹齢を持ち、江戸時代中期に遡ることが判明し、この頃屋敷を構えていた近江彦根藩井伊家中屋敷に生育していた樹木であることが確認されました。
 千代田区は、かつて江戸城内や大名屋敷の庭園などに多数の樹木が見られましたが、今はほとんど残っていません。そのなかでこの樹木は、ともに天明年間(1780年代)頃から当地に生育していたもので、江戸時代以来の樹木がほとんど確認されない千代田区内にあって貴重なものです。」(案内板より)

近江彦根藩井伊家屋敷跡についてはこちら


イヌマキの近くで気持ちよさそうにしているネコ。

【東京・千代田区】 石心亭 (ホテルニューオータニ)

2010年04月16日 21時00分00秒 | 
4月3日(土)


ニューオータニの石心亭にて昼食をとる。


ロビーに飾られた桜がきれい。


館内を通って庭に出る。


石心亭

私は「レディースランチ」を注文。

前菜のパイ


芽吹きの華野菜


落ちハタのムニエル・ブールブランソース


活もぎ取りサラダ


ミニッツステーキ


ガーリックライス・お新香・味噌汁


食事が終わると、向かいにある招月亭に移動。
こちらでデザートをいただく。


フロマージュブラン・アイスプラント添え

大満足。

【愛媛】 坂の上の雲 (一六本舗)

2010年04月15日 21時00分00秒 | 

「坂の上の雲」というお菓子をいただく。
「一六タルト」で有名な、愛媛県の一六本舗で作っているお菓子だ。


箱の中はこんな感じ。
箱やパッケージに描かれている三片の雲は、小説『坂の上の雲』の登場人物、秋山好古、秋山真之、正岡子規を表しているのだとか。


雲のかたちになっている。
伊予柑とミルクを練り込んだ餡が入っていて、やさしくホッとする味。
とてもおいしく、あっという間にいただいてしまった。

【東京】 生誕120年 小野竹喬展 (東京国立近代美術館)

2010年04月14日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
4月2日(金)


大阪では、昨年の11月から12月にかけて開かれていた小野竹喬の生誕120年を記念した展覧会。
大阪から引越す前にチラシを手にとっては、あと1カ月ちょっといれば観ることができるのに……と思ったのを覚えている。
その展覧会を、ようやく東京で観ることができた。
展覧会はすでに今月11日に終了している。


『樹間の茜』(1974)


『宿雪』(1966)


『奥入瀬の渓流』(1951)

いずれも、なんともいえない優しい色調に惹かれる。
これらの作品も素晴らしいのだが、観ていて面白かったのは「奥の細道句抄絵」。
10点展示されていた。
そのうちから何点かを。


「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」


「まゆはきを俤にして紅粉に花」


「五月雨をあつめて早し最上川」


「暑き日を海に入れたり最上川」

よい展覧会だった。

【東京・千代田区】 紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡

2010年04月13日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
3月22日(月)


(東京都千代田区紀尾井町1-2 弁慶橋のあたり)

「この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸がありました。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領しました。
 紀伊徳川家は、徳川家康の十男頼宣に始まる家で、尾張藩(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は、慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩主を経て、元和5年(1619)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています。石高はほぼ55万5000石でした。
 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、『紀尾井町』という町名になりました。」(案内板より)

【東京・千代田区】 江戸水道の石枡と木樋

2010年04月12日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
3月22日(月)


(東京都千代田区紀尾井町2-1 清水谷公園内)

「この石枡は、昭和四十五年(一九七〇)の麹町通り拡幅工事の際に千代田区麹町三丁目二番地先の道路で出土した玉川上水幹線(本管)の一部です。
 江戸は、慶長・寛永期と時を経て人口が増加すると、小石川上水や溜池上水といった旧来の上水だけでは水不足となり、新しく玉川上水が開発されます。玉川上水は、承応二年(一六五三)に着工され、翌三年(一六五四)六月に、羽村出身の清右衛門・庄右衛門兄弟によって工事は完成したといわれます。この工事によって、羽村で堰を設けて多摩川の水を取水し、武蔵野台地の勾配を利用しながら四谷大木戸(現在の新宿区四谷四丁目)に至る四十三キロに及ぶ水道を造りました。四谷大木戸で石樋や木樋による暗渠となり、江戸城内をはじめ、麹町・赤坂・虎ノ門などの武家地や京橋川以南の町地にも給水されていました。
(中略)
 なお、石枡とともに出土した木樋は、区立四番町歴史民俗資料館で保管されています。
 平成十四年三月 建替  千代田区教育委員会」(案内板より)

【東京・千代田区】 大久保利通哀悼碑

2010年04月11日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
3月22日(月)




(東京都千代田区紀尾井町2-1 清水谷公園内)

「千代田区指定有形文化財(歴史資料)
『贈右大臣大久保公哀悼碑』 指定 平成四年四月
 明治一一年(一八七八)五月一四日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に『紀尾井坂の変』と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
 また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三、金井之恭、奈良原繁ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治二一年(一八八八)五月『贈右大臣大久保公哀悼碑』が完成しました。
 『哀悼碑』の高さは、台座の部分も含めると六・二七メートルにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。
 『贈右大臣大久保公哀悼碑』は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。
 平成五年三月  千代田区教育委員会」(案内板より)