8月27日(水)の行程:(車) → 【問屋場跡】 → 【大垣宿本陣跡】 → 【奥の細道むすびの地】 → 【奥の細道むすびの地記念館】 → 【大垣城跡】 → 【中山道赤坂宿本陣跡】 → 【勝山】 → 【南宮大社】 → 【美濃不破関跡・壬申の乱史跡】 → 【関ケ原の戦いゆかりの地①東軍、②西軍、③傍観軍・反応軍、④陣跡以外の史跡】 → (大垣泊)
8月28日(木)の行程:(車および徒歩) → 【関ヶ原の戦いゆかりの地①東軍、②西軍、③傍観軍・反応軍、④陣跡以外の史跡】 → 【美濃不破関ゆかりの地】 → 【寝物語の里】 → 【おくのほそ道芭蕉道・野ざらし芭蕉道】 → 【伊吹山ドライブウェイ】 → 【国友鉄砲の里史料館】 → 【姉川古戦場跡】 → 【小谷城跡】
【不破関守跡】
「町・県史跡(昭四四・六・二一指定 昭四五・四・七指定)
不破関守跡
『木曽路名所図会』にも描かれている、関藤川より大木戸坂を登り切った辺りのこの一帯が、関守の屋敷跡です。
関守は延暦八年(七八九)の関の停廃以後に任命されたと考えられます。
関守宿舎は関庁跡推定地の西南隅に東山道を挟んで位置する、段丘際の眺望の良い所にあり、格好な地にあったと言えましょう。 関ケ原町」
【不破関資料館】
敷地の一角に、不破関資料館が建っている。
不破関は、昭和49年(1974)から発掘調査が行われ、それによって奈良時代の不破関の様子が明らかになった。
館内には、関所の復元模型、出土した土器や貨幣などが展示されている。
【藤古川】
「藤古川
この川を古くは関の藤川と称し、壬申の乱には川を挟んで東が天武天皇軍、西側には弘文天皇軍が陣し、そこの地区民は銘々の軍を支援したので、戦後東の松尾地区は天武天皇を祭って井上神社と号し、川西の藤下、山中地区では弘文天皇を祭って氏神とし、現在に及んでいる。 関ケ原町観光協会」
【黒血川】
「黒血川
壬申の乱(六七二)で、ここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。
七月初め大友軍は精兵を放って、玉倉部邑(関ケ原町玉)を経て大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出てきました。しかし大海人軍はこれを撃退、その後この不破道を通って近江へと出撃して行ったのです。
この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時の凄い様子を今に伝えています。
この川は、青野ケ原や関ケ原の戦い等、古来軍事上屡々利用されてきました。 関ケ原町」
【自害峯の三本杉】
「町天然記念物(昭四七・四・一七指定)
自害峯の三本杉
壬申の乱(六七二)は天智天皇の子大友皇子と同天皇の実弟大海人皇子との間で起きた皇位継承争いでした。
その戦はこの辺りから始まり、その後近江の瀬田で大海人軍は大友軍を破ったのです。
ここは自害された大友皇子の頭が葬られていると伝えられ、弘文天皇御陵候補地です。三本杉がそのしるしとなっています。 関ケ原町」
【車返しの坂】
「車返しの坂
南北朝の昔、粋狂な人もいたものです。不破関屋が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやって来ました。その御人は公家の二条良基という人。
ところがこの坂道を登る途中、屋根を直したと聞いて引き返してしまったという伝説から、この名でよばれるようになったのです。 関ケ原町」
8月28日(木)の行程:(車および徒歩) → 【関ヶ原の戦いゆかりの地①東軍、②西軍、③傍観軍・反応軍、④陣跡以外の史跡】 → 【美濃不破関ゆかりの地】 → 【寝物語の里】 → 【おくのほそ道芭蕉道・野ざらし芭蕉道】 → 【伊吹山ドライブウェイ】 → 【国友鉄砲の里史料館】 → 【姉川古戦場跡】 → 【小谷城跡】
【不破関守跡】
「町・県史跡(昭四四・六・二一指定 昭四五・四・七指定)
不破関守跡
『木曽路名所図会』にも描かれている、関藤川より大木戸坂を登り切った辺りのこの一帯が、関守の屋敷跡です。
関守は延暦八年(七八九)の関の停廃以後に任命されたと考えられます。
関守宿舎は関庁跡推定地の西南隅に東山道を挟んで位置する、段丘際の眺望の良い所にあり、格好な地にあったと言えましょう。 関ケ原町」
【不破関資料館】
敷地の一角に、不破関資料館が建っている。
不破関は、昭和49年(1974)から発掘調査が行われ、それによって奈良時代の不破関の様子が明らかになった。
館内には、関所の復元模型、出土した土器や貨幣などが展示されている。
【藤古川】
「藤古川
この川を古くは関の藤川と称し、壬申の乱には川を挟んで東が天武天皇軍、西側には弘文天皇軍が陣し、そこの地区民は銘々の軍を支援したので、戦後東の松尾地区は天武天皇を祭って井上神社と号し、川西の藤下、山中地区では弘文天皇を祭って氏神とし、現在に及んでいる。 関ケ原町観光協会」
【黒血川】
「黒血川
壬申の乱(六七二)で、ここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。
七月初め大友軍は精兵を放って、玉倉部邑(関ケ原町玉)を経て大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出てきました。しかし大海人軍はこれを撃退、その後この不破道を通って近江へと出撃して行ったのです。
この激戦で、両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、この名が付き、その時の凄い様子を今に伝えています。
この川は、青野ケ原や関ケ原の戦い等、古来軍事上屡々利用されてきました。 関ケ原町」
【自害峯の三本杉】
「町天然記念物(昭四七・四・一七指定)
自害峯の三本杉
壬申の乱(六七二)は天智天皇の子大友皇子と同天皇の実弟大海人皇子との間で起きた皇位継承争いでした。
その戦はこの辺りから始まり、その後近江の瀬田で大海人軍は大友軍を破ったのです。
ここは自害された大友皇子の頭が葬られていると伝えられ、弘文天皇御陵候補地です。三本杉がそのしるしとなっています。 関ケ原町」
【車返しの坂】
「車返しの坂
南北朝の昔、粋狂な人もいたものです。不破関屋が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやって来ました。その御人は公家の二条良基という人。
ところがこの坂道を登る途中、屋根を直したと聞いて引き返してしまったという伝説から、この名でよばれるようになったのです。 関ケ原町」