大倉草紙

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【岐阜】 中山道赤坂宿本陣跡

2009年02月12日 20時00分00秒 | 旅 - 岐阜県
8月27日(水)
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中山道赤坂宿本陣跡は、赤坂本陣公園になっている。

「中山道赤坂宿
 本陣跡
 当所は、江戸時代、大名、貴族の旅館として設置された中仙道赤坂宿の本陣であった。間口二十四間四尺、邸の敷地は二反六畝二十六歩、建物の坪数は、およそ二百三十九坪あり、玄関、門構えの豪勢なものであった。
 寛永以後、馬渕太郎左ヱ門に次いで平田又左ヱ門が代々本陣役を継ぎ、天明、寛政のころ暫らく谷小兵衛が替ったが以後、矢橋広助が二代に及んで明治維新となり廃絶した。
 文久元年十月二十五日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。
 昭和六十年八月
 大垣市赤坂商工会観光部会」


歌川広重「木曽街道六十九次 赤坂」
この辺り、かつてはこんなふうだったのだろうか。
流れているのは、杭瀬川だろう。


こちらは、道中、車窓から撮った杭瀬川。


和宮之碑
皇女和宮降嫁の際、赤坂宿は和宮の宿泊地となった。
街道沿いの家々は、幕府から借金をして建て替えられたそうだ。
そのことを、地元では、「お嫁入り普請」と呼ぶのだという。


公園内には、幕末の志士・所郁太郎の像もある。
俗論党に襲われ瀕死の重傷をうけた井上聞多(井上馨)の手術で、畳針を用いて縫合し、一命を救った人物なのだそうだ。

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